二話
自室に戻ったロイルは、高級なサテンのシーツが張られたベッドに横たわった。体中がどっと疲れから開放されて緩み、ロイルの口からは大きなため息が吐き出された。ごろりと仰向けになったままマグダリアに乗船している人物リストをロイルはなんとなく眺めた。
ぱらぱらとめくるうち、瞼が重くなり、まどろむ。そのまま寝てしまおうかと寝返りを打った途端、部屋のチャイムがポーンと軽快に鳴った。
ロイルは飛び跳ねるように起き上がり、ドアを睨みつけて立ち上がった。
上着を豪快に投げ捨ててベッドから降りたロイルは、ドア越しに相手を見遣る。するとそこにいたのは背の高い紳士だった。頭には上質な山高帽をかぶり、胸に絞めたタイにはカフスが輝いている。顔は帽子のため見えなかったが、もしかしたら今日落ち合う予定だった男かと、ロイルはドアを開いた。
「夜分に失礼します、実は先ほど、ホールで落し物をされていて、お部屋に伺った次第でして」
声は聞き覚えがあった。先ほどのホールで怒鳴りつけられていた男と調度似た、甘い声の持ち主だった。ロイルは不審がってじろじろと男を見つめていたが、やがて男が帽子を脱ぎ、軽い会釈をした。
「こちらに見覚えは?」
男が胸から取り出したのは、女性物のハンカチだった。ロイルは胡散臭げにそれを眺めて首を振り、少し開いていたドアを狭めた。男はそうですか、と一言ハンカチをしまい、ロイルを見つめた。
「私が座っていた座席のすぐ側にありましたので、てっきりあなたのものかと」
「…僕は貴殿の側など寄っていない、用はそれだけだろうか」
「…失敬、ええ、それだけでございます。それでは」
背を向けた男を、じっと見つめていたロイルはやがて、男が歩き出したのを期にドアを閉めた。しかしその行動はドア越しに見えなくなるまで追い、見えなくなってからは声をひそめて足音を聞いた。難しい表情を取ったロイルは、少し逡巡し、ベッドに投げた上着をひったくって用心深く外に出た。
そして、その紳士の背中を見つけて、壁に隠れた。
(あの男…怪しいな…なぜ僕の気配に気づいた…?もしやあいつがレイディアンの…)
そして何の躊躇もしぐさも見せず、船員用の個室に入っていった男の姿を捉えて、ロイルは目を細めた。
(そのへらへらとした化けの皮、剥いでやる…)
男が個室に入ってしばらく間を置き、ロイルもまた、その個室へと足を踏み入れた。
部屋の入り口には、リネン室と書かれていた。狭いその室内にぎっしりと積み上げられたシーツの山を見上げて、ロイルは慎重に男の姿を探した。奥には部屋が続いており、向こうからモーター音が聞こえた。恐らく、洗浄機がある。ロイルは山々の間に体を詰め込み、そのドアに耳を澄ました。会話や人の気配がなく、ただ激しい機械の音だけが響いている。ドアを開こうか、鉢合わせたら?等、様々なことを考えていたロイルの背後から、ひたひたと足音が近づく。しかし向こうの部屋の音に意識を集中させていたロイルは、背後の人物に気がつかなかった。すり、と布擦れの音が耳に届いたときにはもう遅く、ロイルがすばやく振り返った瞬間、何者かによってロイルは頭を強打されて、そのまま意識を失った。
レニは、リネン室から続く業務用通路を伝い、作業員の服を拝借して船内を歩いていた。
容姿端麗で、一度見ればすぐ気づかれてしまうレニは、深く作業用帽子を被り、髪は一つに束ねてわざと傷んでいるように見せて歩き出した。一見すれば表情も見えず、猫背を意識していたので、陰気な青年である印象が受けた。
そして、船内の見取り図を広げて、ボーマンが宿泊している一等の部屋を探していた。
途中、すれ違った船員に、新人でよく分からないなど嘘をつき、清掃道具を手に入れたレニは、清掃員よろしく他の部屋を掃除してまわり、他の人間へ不信感など抱かせぬような完璧な変装を見せていた。そして、ボーマンの部屋に立ち止まったレニは、咳払い一つ、しゃがれた声で告げた。
「清掃員の者です、失礼してもよろしいでしょうか」
ボーマンの返答は無かった。部屋に居るのは明確だったが、清掃員が疎ましいのか、返事をしようとしない。レニは少し待ってから、続ける。
「備え付けの浴室のお掃除だけですので、お手間は取らせません…」
レニの折れない態度に参ったのか、従者にドアを開かせたボーマンは、面倒そうにレニを見遣った。
「そんなに金に困っているのか知らんが、私はお前のような者にやる金を持っておらんでな、チップをねだるならもっといい身なりでやってこい」
レニは深々と頭を下げ、低い腰でいそいそと浴室へ引っ込んだ。ボーマンは鼻でその姿を笑うと、向かい合った客人に謝罪を述べた。
「話の腰を折ってすまない。それで、アレはどう扱ったらいいかね?」
レニはじっと壁にもとれかかり、音声を録音する装置を起動させた。
ボーマンの客人はいやに耳障りな甲高い声で返した。
「どうぞ、お好きに。アレは兵器としての扱いばかりか、生活にも役立ちますゆえ…ただし、それが人間ではないと周りに公言してはなりませぬ。いらぬ…混乱を招きますゆえ…」
「おお、承知している。精巧で、とても人形だとはだれも気づかないのであろう?ならば問題ない」
「オホホ、使い方を間違いませぬよう、ご注意めされませ」
レニはうっすらと口元に笑みを浮かべて機械を止めた。そして、清掃用具を片手に、不審がられる事がないように清掃を始めた。もともと清掃が行き届いた一等の豪奢な浴室はそんなに手を加えなくとも、綺麗になった。レニは清掃用のカートを押し、浴室を出ようと再び帽子を目深く被る。すると、退室しようとしたレニを、ボーマンが止めた。
「お前、その帽子、取ってみろ」
レニは足を止めた。嫌な汗が伝う。ボーマンは中々従わないレニを不審がってますます帽子を取るようにレニへと要求をした。
「どうした、お前の従い方しだいによっては、チップをくれてやらんでもない、さあ取れ」
「…先を急ぎますゆえ…」
「何?いいから取れ、無礼な男め、ますますその憎らしい顔が気になるわ」
ボーマンが椅子から立ち上がり、こちらへと向かった。レニは緊張から、ぐっと拳を握り締め、護身用に携えた銃の場所をゆるく触った。するとそんなレニを救うように、一人の若い従者が、ボーマンの部屋に飛び込んできた。
「ボーマン様、怪しげな少年を捕獲しました。」
「…何?フン、お前はもう出てよい、おい、その小僧を連れてこい」
レニは鋭くその少年という言葉に反応して振り向いたが、そのまま頭を下げ、ボーマンの部屋を後にした。清掃カートから隠していた機械を取り出し、清掃員の服を脱ぎ捨てたレニは、カートを隅の方に隠して、ボーマンの部屋の方角へと振り返った。
「嫌な予感がする…急いで合流しなければ…」
レニは髪を解いて、緩んだタイを結びなおした。美しい貴族の出で立ちに戻ったレニが向かった先はボーマンの部屋とは反対方向の、食材庫。急ぐようにその足はすばやく赤い絨毯が敷かれた廊下を駆けていった。