十話
デンとレニの間に、会話はほとんどなかった。
各々が参考になりそうにない崩れた屋敷をぼんやり見つめながら何を思うでもなく歩いていた。ロイル達と反対方向へ歩いていたレニ達は、奥で大きな広間を見つけて立ち止まった。
その広間の中心にはあまりにもその場にそぐわないような巨大な浴槽がどんと構えてあり、部屋はタイル張りで恐らく風呂場なのだろうと推測できた。
正面には今は伸び放題の草が生い茂った庭が一望できる大きなガラス張りの扉が並んでいる。すでにそれらは割れて地面に散らばっていたが、デンはこの部屋に入った瞬間口笛を鳴らして驚いた様子を見せた。
「金持ちってのはよく分からんな…なんだこの箱は…」
「浴槽…でしょうね。それも東洋の…模様が鮮やかですね」
「風呂?!これが?東のやつらはこんなでけぇ風呂を使うのか…」
「こちらでもわりと貴族には流行っているそうですよ、大きな浴槽が。」
「…やっぱり金持ちは分からねえな…」
しばらく浴槽を眺めていたデンは、ふと思い出したように顔を上げてレニを見つめる。
レニもまた視線があったデンを見つめ返すと、デンは急に顔をしかめた。
「俺ぁ、この前、東洋の服を着たなんとかって奴に会ったんだが…」
「…ランガーさんですか?」
「そうそう、そいつ。あいつぁアンタん所の坊ちゃんに似ていていけ好かねえ」
「よく言われていますね…ロイルさんが苦手なんですか?」
「苦手も何も…」
デンは視線を逸らして天井を見上げるそぶりを見せた。頭をぽりぽりと面倒そうにかきむしり、デンはもう一度視線をレニへ戻した。
「アンタは、あんなガキが上司で気に食わなくないのかい」
「いいえ」
即答だった。
デンはあまりに早いその返事に眉を上げて続ける。
「だがよぉ、本当は我慢してんじゃないのか?子供なんかに指図されて偉ぶられて…」
「お言葉ですが…バークホークさん。」
レニはいささか冷めた視線でデンを見つめていた。
デンはそんな視線に気づいていたが、虚勢だろうとそしらぬ顔をしていた。だがレニはデンの澄ました様子までしっかりと見通していた。
「私は以前、ロイルさんに忠誠を誓った日から一度たりとも彼を疎んだことはありません。私は彼の命令ならば忠実に従う、あなた方からすれば犬。主君が幼かろうが地位があろうが私には関係ないこと。あなた方の低俗な意見と同調させないでいただけますか」
デンは鼻で笑った。
「そうだな、アンタも所詮犬…だったんだな」
と嘲笑し、レニの脇をすり抜けて一人、歩き出した。レニはそんなデンをしばらく見つめていたが、大きく距離が開く前に、レニもまた歩き出した。
やがて二人はロイル達の部屋からは反対方向の階段にたどり着き、足を止めた。
長い、それでいて緩やかな階段を見上げて、先ほどの会話から静寂が続いていた二人の間に、ようやく声が上がる。
「さっき遠目から見たときに階段は両サイドあったよなぁ?」
「…はい。ロイルさんが歩いていった方向にも階段があるのを見ました。」
「今頃上か…そろそろ落ち合えるんじゃねえか」
「そうですね」
階段はやはり老朽化が進んでいて、軋んだ。
慎重に足を運んでいくデンに続き、レニも階段を上がり始めた頃、レニはハッとして突然足を止めた。
デンが聞こえなくなったレニの足音に反応して振り返ると、レニはロイルが歩いていった方向を見つめて険しい表情をしていた。
「あれは…」
「おい、中尉殿、何してんだ」
「…!す、すみません…」
どこか上の空だったレニはデンに声を掛けられてようやく片方の足を階段へとかけた。しかし視線は廊下に釘付けになったまま、デンより二足ほど遅く階段をのぼるのだった。
階段が終わると、薄暗い廊下続いていた。
レニは持っていたマッチでろうそくに日を灯し、ランプを掲げた。外の激しい雷雨が今にも破裂しそうな薄い窓ガラスを叩いていた。肖像らしき大きな額縁が揺らめいた炎に照らされてオレンジ色に染まってる。デンは寒気に身震いして、その薄暗い廊下を先陣切って歩き出した。