八話
室内は荒れ放題だった。ロイルは昔訪れたマリルの屋敷を彷彿させる風景を眺めて一人眉を寄せた。天井は抜け落ち、少し歩けば大げさなほど軋み音を立てる床。すぐ目の前には踊り場がある長い階段が伸びており、その踊り場にはすっかり何が描かれていたのか分からない絵画が飾られている。
この様子からみて、数十年は軽く経っている。ロイルはそう思った。
レニはきょろきょろと辺りを見渡して、ロイルに提案をする。
「ロイルさん、屋敷の崩壊が進んでいます。一度に大人数では歩けません。ここは二手に分かれましょう。」
「だが…、僕とお前、トレストゥーヴェとバークホークでは危険だぞ。お前はバークホークと行動を共にしろ。僕はトレストゥーヴェと共に行く」
「はい」
ロイルはデンに振り返った。
「もしも人形が出たならまず人形がレニに向かないよう攻撃しろ。レニが逃げたのを確認したらお前も逃げていい。ただしレニには絶対戦わせるな。もしレニが死んだらお前が生きてレニを回収しろ。分かったな」
デンは少し目を細めて、声を出さずただ頷いた。ロイルはデンが頷いたのを確認すると、踵を返してトレストゥーヴェに向かった。
「行くぞ」
「あ、うん!」
嬉しそうにロイルの背中を追いかけたトレストゥーヴェにレニは緩く微笑んだ。デンはレニの背中を軽く叩き、にやりと口角を上げた。
「よろしくおねがいしますよ、中尉殿」
「ええ、こちらこそ」
そして、レニとデンもまた、ロイル達とは反対の方向へと歩き出した。
トレストゥーヴェは、黙って歩くロイルの横顔を見つめながら、なんと話しかけようかと頭をフル回転させた。ロイルがマリルとの事件があって三年。その三年間という長い月日、トレストゥーヴェはロイルに話しかけようと試みたが中々聞きたいことが聞けず、また会話のないまま三年を過ごした。
その三年分の想いが、今なら言えると思った矢先、言いたいことがありすぎて、言葉にできずにいたのだ。もどかしさに奥歯をかみ締めると、ロイルから声があがった。
「…お前、でかくなったな」
「な、何がよ?下品なことだったらぶっとばすわよ?」
「何が下品だ馬鹿者、身長のことだ」
「えっ、あ、そうね。だってもう十八だもの。当然でしょ」
ロイルは靴先に視線を落とし、歩きながら少し考える。ふと割れた鏡に映った自分を見つめて、ロイルはぽつりともらした。
「それに比べたら僕は…アクアドームに来た頃から何も変わってない…」
「ロイル?」
自然と足が止まる。トレストゥーヴェは先を歩いていたことに気がついて彼女もまた足を止めた。ロイルは自分が足を止めていたことにようやく気づくと首を振り、歩き出した。
「なんでもない、独り言だ」
結局、ロイルに考え事を中断されたトレストゥーヴェは大きなため息を吐き出して、さっさと歩いていってしまったロイルを追いかけ小走りをする。外はいよいよ雷が轟き、激しい雨が降り出そうとしていた。
しばらく歩いたところで、通路は大きな部屋となった。隔てるドアや壁がないためか、通路の延長線のようなその部屋を見渡したロイルは、ふとデジャヴを感じて眉根を寄せた。
しかしその部屋は真っ白な壁が広がる窓もない不思議な空間で、特に何も落ちていないがらんとした部屋だった。トレストゥーヴェは退屈そうにあくびをすると、中々動こうとしないロイルの肩をつついた。
「ねえ、何もないじゃない。もう違う部屋行きましょう。ホントにここ工場だったのかしら?ただのお屋敷みたい」
「待て、トレストゥーヴェ、ここに何だか…」
一人歩き出したトレストゥーヴェを止めようと大きく右手を伸ばした瞬間。頭に閃光がほとばしるような強い衝撃を受けたロイルは、思わずうずくまって頭を抱えた。激しい激痛がおそう頭はすっと見えている景色をぼやけさせ、心配して振り返ったトレストゥーヴェを最後に、ロイルの視界が暗くなった。
『いいか、ここから出してやるから、俺の言うことを聞くんだ』
格子が見えた。薄ぼんやりとした室内で、顔がうかがえない人物がそう告げている。
だが両手に感覚はない。格子の間から伸ばした両手は自分のものだとは分かっていたが、動かすことはできない。まるで、夢をみている最中のようだった。
男は続ける。
『俺はきっとお前を出せばあいつに殺されてしまうだろう。だが、覚えておけ。もしもお前と俺がもう一度であったなら、俺はお前を』
そして、格子が開いた。自由になった両足が、ふわふわと落ち着きなく揺れる。見知らぬ男、ただし顔は分からないが―は両肩を掴み、静かに、それでいて強く告げる。
『必ず殺すと覚悟しておきなさい』
「ロイル、ロイル!」
トレストゥーヴェの声に跳ね起きたロイルは、まるで呼吸を止めていたかのように荒く呼吸を繰り返した。ようやく起き上がったロイルに安堵したトレストゥーヴェはロイルの背中をさすりながら優しく尋ねた。
「一体何があったの?いきなりうずくまったりして…」
「…記憶だ」
「えっ?」
「さっきのは…僕の記憶だ…」
トレストゥーヴェは思わず両手で口を覆った。以前、ロイルは記憶がないことをマリアから聞いていたトレストゥーヴェは、突然記憶を探り当てたロイルにかける言葉がなく、黙ってしまった。
ロイルはよろよろと立ち上がってもう一度部屋を見つめた。
あの激しい頭痛は襲ってこなかったが、急に記憶の一部を垣間見たロイルは気分が悪く、片手で口を押さえて険しい表情となった。この屋敷の風景そのものが記憶の底辺から蘇る。その意味がどんなものなのか理解できなかったが、ロイルの胸には様々なことが浮かんでは消えていった。そしてこの任務がいかに重要なのかを改めて知るのだった。