五話
訓練場は、宿舎を兼ねた基地から少し離れた場所にあった。それこそ迷子になりそうな場所ではあったが基地から長い渡り廊下が続いており、もう一度迷子になりつつも二人はその渡り廊下を歩いていた。リックはヴァレスから手渡された水を飲みながら、その訓練場から少し離れた場所に別の離れがあるのに気づき、ヴァレスに指を指して尋ねた。
「あの訓練場の側の建物は何ですか?」
「ああ、あれはアイリーンさんやランガーの家がある場所だよ」
「えっ?あの施設には住んでないんですか?」
「あはは、ロイルが特殊なだけで、アクアドームのお偉いさんはみんなあこに住んでいるんだ」
リックはなるほど、と呟きもう一度その建物を見遣った。周りには植木に囲まれておりその様子全ては見えないが言われてみれば風格を感じさせる造りで、アイリーンやランガーがあの宿舎に泊まっているよりはずっとイメージ通りではあった。
「もしあの幹部達に用事があるならあこが確実に会えるかもね…」
「はあ、まあ俺みたいな新兵には雲の上ですね」
「さあ、それは君次第さ」
ヴァレスはリックの肩を叩き、再び歩き出した。
腕の時計を見れば夜に近かったが、ぼんやりとした海底は時間の流れすらどこかゆるやかにしてしまったように、朝とそれほど変わらない顔で街を見下ろしていた。
「清掃にきましたー」
訓練場は蒸し暑かった。この空間そのものが海底にあるため、少し肌寒く思っていたリックはあまりの温度差に驚いた程だった。
素振りを繰り返す兵士たちの間から、そのヴァレスの声に気づいた青年が訓練場の向こうから歩いて向かってくるのが分かった。
「ブラックモア。ご苦労、さあ来たまえ」
髪は七三。長いまつげがかなり目立つ青年は、何やらイメージに合わせたような口調でヴァレスを招いた。服は制服と同じデザインだったが、色が異なっており、この青年が身に纏っていたのは薄い紫色の軍服であった。今まで清掃活動していてそんな色の軍服を見たことのなかったリックは思わずその軍服に釘付けになった。
「んん?君が処罰を受けた新人くんか、初めましてようこそ。私はルイス・フォスター。階級は大尉だ」
リックの視線に気づいたのか、さらに青年は聞いてもいない自己紹介を始めた。
姿も圧巻ながら、多弁でもあるようで、今まで彼が過ごしてきた戦歴の話をしていたが、リックの耳と頭には今ひとつ残らない長い武勇伝だった。
ヴァレスはそんなルイスに慣れているのか、うんうんと適当に相槌しながら、彼もまた右から左に言葉を流しているようだった。
「今日はあの忌まわしい男が不在の為、私が新人の指導に当たっている。君も是非私の指導を受けたくば言ってくれたまえよ」
「はあ…」
「さあ、君たちにお願いしたいのはこの部屋だ」
ぱっとドアを開け、すぐにルイスは鼻を覆った。それもそのはず。長い間掃除されていなかった更衣室の空気は最悪に悪く、また異臭が嫌に鼻を刺激する。
思わず顔をしかめたリックは、平然と笑顔のヴァレスを見上げた。
「こりゃすごい!」
「実に不衛生極まりない。頼む、綺麗にしてやってくれ」
「はいはい、任せて」
バケツに新しい水をくみながら、ヴァレスはリックに換気するように促す。
汗の臭いで気持ちが悪くなるような室内は、少し入っただけでめまいがしそうだった。
「普段はハーゲンが担当する部署だ、ブラックモア、ちゃんと叱っておいてくれたまえ。私はこんな不潔な部屋は御免だ」
「んあー、ロイルも潔癖だから触れなかったんだろうな…」
(ロイルくんのことだったのか…)
ロイルは随分敵が多いらしく、この高慢そうなルイスもまた、ロイルのことを良く思ってない。
何となくそれはリックにも理解できる。何故ならリックもルイスとは合わないだろうし、ロイルとも気が合いそうになかったからだった。
掃除を始めて数分。部屋は幾分かマシになり、息苦しいほどの悪臭も薄らいでいった。
リックは兵士が利用しているロッカーを整理し、少しづつ荷物をずらしながら中も丁寧に拭く。
その間ヴァレスは床に水を撒きながらくまなくモップを走らせた。
「でもさルイス。なんで皆そんなにロイルが嫌いなんだい?いい奴だぞあいつは」
「君は万人のことが許されるのだろうが、私はあの男の根本、全てが気に入らないのだ」
「わっかんないなあ…ねえ、リック。君はどうだい?」
嫌なところで話を振られたものだと、リックは少し苦い顔をした。
ロイルについての評価はいまいちつけがたく、嫌いかと聞かれればそうでもなく、好きかとも聞かれても困る。正直なところ、苦手なのだった。
「俺は…命を助けてもらったし…悪い人とは思えませんが…」
「そうだろ?俺はもっと、ロイルのことを皆分かってくれたらなって思うのに…」
「ヴァレス…」
「ふむ、君がそれだけ友人を大切にしているんだ。ハーゲンもそれ以上のことを望んでないだろう」
以外にいい人なのか?とリックは澄ました顔をしたルイスを見つめた。
ヴァレスは照れくさそうに笑み、動かしていたモップと手を止めた。
「君はもしかしてロイルのことをホントは認めているのかい?」
「馬鹿も休み休み言え!」
踵を返し、訓練に戻ったルイスを見つめ、ヴァレスは声を立てて笑った。
止めていた手を再び動かし、ヴァレスはリックに声をかけた。
「あいつも、中々いい奴だろ?ロイルの出世を妬んでるだけなんだ」
「はい…不思議な人ですね…」
「ふふ、確かにちょっと変だけどね」
訓練所の清掃が終わると、ヴァレスはリックから作業着を受け取り、帰り支度を始めた。
リックは何だか、ヴァレスと一緒に居た時間が名残惜しく、最後にこんなことを尋ねた。
「あの、また会えますか?」
「ああ、もちろん。お疲れ様。レニからは今日一日でお仕舞いって聞いてたから寂しいよ」
「…ありがとう、ございました…」
最後鼻声まじりのリックに、ヴァレスは笑って軽いハグをして別れた。