三話
アイリーンの部屋を一度訪れたことのあったリックは、密かに胸を高鳴らせていた。
二人は無事アイリーンの部屋の前までやってくると、その大きな扉の前で深呼吸を繰り返した。
「実はさ、アイリーンさんと会うとすごく緊張すんだ…」
「…分かります、その気持ち」
普段清掃にはあまり来ないのか、ヴァレスも落ち着きなく歩き回ると覚悟を決めてそのドアをノックした。だが、二人の期待に沿えるような返答はなく、ヴァレスは首を傾げてもう一度ノックをした。
「アイリーンさん?清掃の者ですが…」
しかし、そのノックにも返答はない。意を決してドアを数センチ開けば何のことはない。部屋の主は不在だった。リックは少なからず落胆し、女好きであるヴァレスは大きなショックをそのまま表現して嘆いた。
「ああ…!中々会えない女神だというのに…!仕事しろってことなんだろうね…掃除しよっか」
「…はい…」
その場に崩れて、何か大変なことでもあったかのように嘆くヴァレスの体を起こし、リックはバケツに入った水に注意しながら部屋に入った。部屋は相も変わらず派手だったが、つい先日アイリーンの部屋に来たばかりのリックは目が慣れてきていた。
ヴァレスはすぐに清掃に取り掛かり、まず天井に吊るされたシャンデリアを細かく掃除し始めた。
専用のブラシでほこりを取り除きながら、布で磨いていく。その手際はさすが三年も清掃員をしているだけはあった。リックは簡単な窓磨きを担当し、改めてまた窓の外を見遣った。
外は暗い。太陽の明かりはほんの少しで、ドームの周りをぐるぐると小魚が回遊していた。ぼおっと外を眺めていると、リックはヴァレスに肩をつつかれ注意を促された。
「さ、手を動かしてよ。俺がレニに怒られちゃう」
「あ、すみませんっ」
「外、慣れない?まあ、当然か。空がないんだもんね」
「はい…不思議です。俺、前は陸軍の兵士だったので…」
「俺も来たばかりの頃はそうだったな…ロイルは違ったけど」
「どう違ったんですか?」
「あいつ、すごくはしゃいでたな…海が好きなんだって」
「はしゃいでた…?」
今からは想像も出来ないことだが、ヴァレスはしんみりとした表情で窓を見つめる。
その言葉に冗談は感じられなく、リックはまた余計なことを聞く前にさっと窓を磨いた。
「この後はランガーの部屋で、訓練場の掃除。今日はそれでおしまいかな」
「…そう、ですか」
「さあて、名残惜しいけど行きますか!」
水が濁ったバケツに視線を落として、リックは初対面でのランガーの事を思い出していた。
もう一度会うとは思ってもみなかったが、何となく部屋に居ないで欲しいと願った。
「もお、どうして伝言聞いたまま寝ちゃうわけ~!?」
レニは、普段と変わらぬ落ち着いた様子で少女を見遣った。丈の短いスカートを翻し、足踏みを繰り返す少女へ、レニは淹れたばかりの紅茶を振舞う。
少女は不服そうな表情でレニを見た。
「馬車を呼ぶ以外にアタシには用が無いっての?」
「今回の調査は少し手間取ったんですよ。恐らく疲れていらしてたんでしょう」
「いっつもそうよね、顔の少しも出してくれればいいのに…」
少女は出された紅茶をすすり、たえず口から漏れるため息を飲み込んだ。
レニは座っていた椅子から立ち上がると、側にあった棚からお菓子を取り出して封を開けた。少女はぼんやりとその姿を見つめている。
空っぽの皿にざらざらと流し込むようにビスケットを入れ、少女の前に置く。数枚手に取りかじり始めた少女の向かいに座り、レニはゆるく微笑んだ。
「おいしいですか?」
「…別に。でもこれロイルのお菓子でしょう?」
「ええ。もう古くなってきていましたのでお出ししました」
「…アンタねえ」
しらっと笑顔でとんでもないことを言うレニを睨み付け、食べかけのビスケットをそのままに少女は立ち上がって窓の外を見つめた。レニの部屋の離れからは、ロイルの部屋がある基地がうっすらと見えた。
「どうして、ロイルはアタシ達に何も教えてくれないんだろ…そう、思わないの?」
レニはティーカップに手を伸ばし、少し経ってから答えた。
「私は、ロイルさんが何を思っていようがあの方の命令に従うまでです」
「ふーん、冷たいのね」
「…いいえ、信じているんですよ」
少女は再び視線を外に移した。基地と、ドーム型の屋根にわずかに届く日光が青い影を伸ばしている。不規則に揺らめくその青に視線を移したまま、あの大きな瞳の青を思い出していた。