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後日談 沈黙する秒針と、英雄の末路

腐敗臭と、鉄錆のような血の匂い。

それが、俺の意識を覚醒させた最初の感覚だった。

重いまぶたをこじ開けるようにして目を開くと、そこは薄暗い洞窟の中だった。

地面は冷たく、ぬかるんでいる。糞尿と泥が混じり合った最悪のベッドだ。


「……う、あ……」


声を出し、喉が焼き付くような渇きを覚えた。

体を動かそうとするが、指一本動かせない。

両手両足は錆びついた鎖で壁に繋がれ、自由を奪われている。

全身に走る激痛が、昨日の記憶を無理やり呼び覚ます。

森での戦闘。オーク・ジェネラルの圧倒的な暴力。

為す術なく蹂躙された、俺たちSランクパーティ『神の盾』の最後。


「ここは……オークの巣、か……?」


俺、勇者アレクは、絶望的な現実を認識し、震える声で呟いた。

煌びやかな鎧は剥ぎ取られ、今はボロボロの下着一枚だ。

かつて王都の女性たちを虜にしたと自負していた甘いマスクも、今は鼻が折れ、片目が腫れ上がり、見る影もないだろう。


「あ、ア……レク……様……?」


隣から、掠れた声が聞こえた。

暗闇に目を凝らすと、そこにいたのは聖女エリスだった。

だが、その姿はあまりに無惨だった。

美しい金髪は泥と油にまみれて固まり、純白だったローブは引き裂かれ、肌のあちこちに青あざと噛み跡がついている。

虚ろな瞳は焦点が合っておらず、ガタガタと小刻みに震えている。


「エリス……! 無事か!」

「いや……来ないで……触らないで……」

「俺だ! アレクだ! しっかりしろ!」


俺が必死に呼びかけても、彼女は膝を抱えて自分の世界に閉じこもっていた。

精神が崩壊している。

あの高飛車で、いつも俺の隣で優雅に微笑んでいた聖女の面影は、もうどこにもなかった。


「くそっ……ガストンはどうした! おい、ガストン!」


俺はもう一人の仲間の名を叫んだ。

あの頑丈な重戦士がいれば、この鎖くらい引きちぎれるかもしれない。

だが、返ってきたのは沈黙だけだった。

いや、違う。

洞窟の奥、オークたちが焚き火を囲んでいるあたりから、肉を焼く匂いと、骨を噛み砕く音が聞こえてくる。

その焚き火の脇に、見覚えのあるひしゃげた大盾が転がっていた。

そして、その横には、ガストンが愛用していた首飾りがついた、巨大な「肉塊」の一部が無造作に放り出されていた。


「……あ、あぁ……」


理解したくなかった。

だが、直感が告げている。

いや、かつての俺なら「直感」と呼んでいただろうが、今はただの残酷な「事実」として脳裏に焼き付いた。

ガストンは、喰われたのだ。

俺たちが何度も「頼れる肉壁」と笑って呼んでいた彼は、文字通りオークたちの食料として消費されたのだ。


「う、おぇぇぇ……ッ!」


胃液が逆流し、俺は嘔吐した。

胃の中は空っぽで、酸っぱい胃液だけが汚れた地面に広がる。


「なんでだ……なんでこんなことに……」


俺は涙と鼻水にまみれながら、虚空に問いかけた。

俺たちは最強だったはずだ。

どんな強敵も、俺の剣技と直感でねじ伏せてきた。

ドラゴンも、魔王軍の幹部も、俺たちの前では赤子同然だった。

それがなぜ、たかがオークの群れごときに敗北し、こんな家畜のような扱いを受けているのか。


「クロノ……」


無意識に、その名前が口をついて出た。

数日前までパーティにいた、陰気で目立たない時間魔導師。

俺たちが追放した男。


『君たちが思っている直感や運は、全て僕が作っていたものだ』


あいつの捨て台詞が、呪いのように頭の中で反響する。

昨日は、その言葉を否定したくて、怒りに任せて戦った。

だが、冷たい石床の上で冷静さを強制された今、恐ろしいほどの整合性を持って過去の記憶が蘇ってくる。


あの日、ヒドラとの戦い。

俺は九つの首による同時攻撃を、紙一重ですべて回避した。

当時の俺は「神がかった反応速度だ」と自画自賛した。

だが、今思えばおかしい。

背後からの死角攻撃。音もなく忍び寄る毒のブレス。

それらを、俺は「見る前」に避けていた。

なぜ避けられた?

そうだ、直前に頭の中に声が響いたからだ。

『アレク、次は背後だ。しゃがめ』

それは自分の思考だと思い込んでいた。俺の優秀な脳が弾き出した最適解だと。

だが、その声の主は、間違いなくクロノだった。

あいつが、俺が死ぬ未来を何度も見て、時間を巻き戻し、正解だけを俺の耳に囁いていたのだ。


「あは、は……」


乾いた笑いが漏れる。

俺の剣技? 俺の才能?

違う。

俺はただ、クロノというプレイヤーに操作される、性能の良い駒に過ぎなかった。

あいつのコントローラー操作があったからこそ、俺は「勇者」として振る舞えていたのだ。

そのプレイヤーを、俺は自分から追い出した。

「お前なんていらない」と。

「俺一人で十分だ」と。


「馬鹿か……俺は……」


後悔という言葉では軽すぎる。

俺は自分で自分の命綱を切り、その上で「俺は空を飛べる」と勘違いして崖から飛び降りたのだ。

その結果がこれだ。

地面に叩きつけられ、内臓をぶちまけて死を待つだけの肉塊。


「アレク様……」


ふと、エリスが顔を上げた。

正気が戻ったのかと思ったが、その瞳に宿っていたのは、俺への侮蔑と憎悪だった。

彼女は、俺たちを嘲笑うオークたちよりも冷たい目で、俺を睨みつけた。


「貴方のせいよ……」

「え……?」

「貴方が、クロノを追い出そうなんて言い出すから……! あいつがいれば、こんなことにはならなかった! あいつがいれば、私はまだ聖女でいられたのに!」

「お、俺だけのせいじゃないだろ! お前だって賛成したじゃないか!」

「私は貴方に従っただけよ! 勇者パーティの聖女という地位が欲しかっただけ! 貴方みたいな、中身のない男なんて、最初からどうでもよかった!」


エリスが金切り声を上げて叫ぶ。

その醜い本性に、俺は言葉を失った。

俺たちは仲間じゃなかった。

クロノという接着剤で無理やりくっついていただけの、利害の一致した他人同士だったのだ。

あいつがいなくなった瞬間、俺たちはバラバラになり、そして壊れた。


ズシン、ズシン。


重い足音が近づいてくる。

洞窟の入り口に、巨大な影が現れた。

オーク・ジェネラルだ。

手には、俺の聖剣『エクスカリバー・レプリカ』が握られている。

聖剣は、オークの汚れた手で乱暴に扱われ、刃こぼれしていた。

俺の誇り。俺の象徴。

それが、豚の玩具にされている。


「ブモォ……」


ジェネラルは俺の前に立つと、ニヤリと下卑た笑みを浮かべた。

そして、後ろに控えていた部下のオークに合図を送る。

部下が持ってきたのは、大きな鍋だった。

中には、煮えたぎる油が入っている。


「ひッ……!?」


俺は悲鳴を上げた。

何をする気だ。

まさか、生きたまま?


「やめろ! やめてくれ! 俺は勇者だぞ! 金なら払う! 王家に言えば、いくらでも身代金が出る!」


俺はプライドも何もかも捨てて命乞いをした。

地面に頭を擦り付け、靴を舐める勢いで叫んだ。

だが、オークたちは言葉を解さない。

ただ、怯える獲物を見て楽しんでいるだけだ。


「クロノ……!」


俺は再び、その名を叫んだ。

ここから助かる方法は一つしかない。

魔法だ。時間を巻き戻す魔法だ。


「クロノ! 見てるんだろ! 知ってるぞ、お前はいつもギリギリで助けてくれるんだ! 今回もそうだろ!? これだけ反省させてから、時間を戻して説教するつもりなんだろ!?」


そうだ、そうに決まっている。

これは悪い夢だ。あるいは、クロノが仕組んだお仕置きだ。

あと数秒すれば、世界が灰色に反転し、俺は酒場のテーブルで目を覚ます。

そしてクロノが「懲りましたか?」と呆れた顔で言うんだ。

そうしたら、俺は泣いて謝ろう。

土下座でも何でもしてやる。二度と追放なんて言わない。

だから、早く。

早く戻せ。


「戻せよクロノォォォォオオオッ!!」


ジェネラルが、煮えたぎる油の鍋を傾ける。

熱気が顔にかかる。

熱い。

まだ液体が触れていないのに、皮膚が焼けるような熱さを感じる。


「……リ、トライ……」


俺は最後の望みをかけて、あいつの魔法の名を呟いた。


ジュワアアアアアアアッ!!!!


「ぎゃああああああああああああああああっ!!!!」


世界は反転しなかった。

ただ、灼熱の油が俺の足を焼き尽くす現実だけが、容赦なく進行した。

皮膚が爛れ、肉が剥がれ落ちる激痛が脳髄を破壊する。

喉が裂けるほどの絶叫が洞窟に響き渡る。


痛い。痛い痛い痛い痛い。

なんで戻らない。

なんで助けてくれない。

俺は勇者だぞ。主人公だぞ。

こんな、こんなところで、豚の餌になっていいはずがない。


薄れゆく意識の中で、俺は走馬灯を見た。

それは栄光の記憶ではない。

酒場の隅で、いつも疲れた顔をして、ボロボロになりながら俺たちを支えていたクロノの背中だ。

俺たちが祝杯を上げている間、一人で次のクエストの準備をし、装備の手入れをしていたあいつの姿だ。


『君たちが思っている直感や運は、全て僕が作っていたものだ』


あの時のクロノの目は、怒っていなかった。

ただ、哀れんでいたのだ。

これから死にゆく、愚かな羽虫を見るような目で。

俺たちは、あの瞬間に死んでいたのだ。

ただ、その死刑執行が、今日まで延期されていただけの話。


「あ……が……」


痛みが限界を超え、感覚が麻痺していく。

視界が暗くなる。

最後に聞こえたのは、エリスの狂ったような笑い声と、オークたちの咀嚼音だった。


(静かだ……)


いつもなら聞こえてくる、クロノの声が聞こえない。

「次は右だ」「回復しろ」という、あのうるさい指示がない。

完全なる沈黙。

それが、俺が手に入れた「自由」の正体だった。


――ごめん、クロノ。


心の中で呟いた謝罪は、誰にも届くことなく、闇の中へと消えていった。

二度と戻らない秒針が、俺の心臓の鼓動と共に、カチリ、と最期の音を立てて止まった。


          ◇


数日後。

王都の冒険者ギルドに、一つの報告書が届いた。

後続の冒険者がオークの巣を殲滅した際に発見された、Sランクパーティ『神の盾』の遺留品についてだ。

原形を留めない遺体と、破壊された装備。

かつて無敵を誇った勇者たちの、あまりにも呆気ない最後。


だが、そのニュースはすぐに人々の記憶から消えていった。

なぜなら、世間は今、新たな英雄の話題で持ちきりだったからだ。

隣国のダンジョン都市に現れた、たった二人の最強パーティ。

『時を統べる大魔導師』と『銀閃の戦乙女』。

彼らが成し遂げる数々の偉業に比べれば、慢心して自滅した元・勇者の末路など、酒の肴にもならない些末な話だった。


世界は回り続ける。

愚か者を置き去りにして、新しい未来へと、時間は残酷なほど正確に進んでいくのだった。

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