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第四話 不可逆の悲劇

鬱蒼とした森の中、湿った土と腐葉土の匂いが立ち込めている。

木々の隙間から差し込む光は弱々しく、周囲は薄暗い。

そんな視界の悪い獣道を、三つの影が重い足取りで進んでいた。


「くそっ、いつまで歩かせるんだ。オークの集落なんてすぐに見つかるはずだろう」


先頭を歩く勇者アレクが、苛立ちを隠そうともせずに毒づいた。

その声には、以前のような覇気はない。

昨日のアース・ドラゴン戦で負った脇腹の傷が、歩くたびにズキズキと痛み、脂汗が額を伝っている。

包帯の下で骨が軋む感触がするが、回復ポーションはもうない。

痛みを紛らわせるために、彼は怒りを口にするしかなかった。


「ガストン、気配察知はどうなってる! お前の鼻は飾りか!」

「わ、分かってるよ……でもよぉアレク、この辺りは魔物の匂いが混じりすぎてて、うまく嗅ぎ分けられねぇんだ」


重戦士ガストンもまた、悲惨な状態だった。

自慢の大盾はひしゃげたまま、応急処置で叩いて伸ばしただけの鉄板と化している。

片腕は昨日の骨折で動かず、首から吊るした布で固定されていた。

残った片腕だけで巨大な盾とメイスを持つのは、怪力自慢の彼といえども負担が大きい。


「エリス! 索敵魔法だ! 魔力は回復したんだろうな?」

「は、はい……少しなら……でも、あまり使いすぎると戦闘中にヒールが……」


最後尾の聖女エリスは、泥で汚れたローブの裾を引きずりながら、青ざめた顔で杖を握りしめていた。

彼女の精神は限界に近かった。

いつもなら、森に入った瞬間にクロノが「北東に三キロ、オークの斥候がいる」と正確な位置を教えてくれていた。

彼女はただ、アレクの後ろをついていくだけで良かったのだ。

だが今は、自分の魔力を使って周囲を警戒し続けなければならない。

見えない敵への恐怖が、彼女の神経をすり減らしていた。


「言い訳ばかりするな! 俺たちはSランクパーティ『神の盾』だぞ! こんな森、本来なら散歩コースだ!」


アレクは自分に言い聞かせるように叫んだ。

そうだ、俺たちは強い。

昨日はたまたま調子が悪かっただけだ。

オーク・ジェネラルごとき、俺の聖剣が一閃すれば首が飛ぶ。

今までだってそうだった。

オークの群れに囲まれても、俺が剣を振るえばいつの間にか敵は全滅していた。

今回も同じはずだ。

クロノがいようがいまいが、俺の剣技が錆びつくわけではないのだから。


「……いたぞ」


ガストンが足を止め、鼻を鳴らした。

風に乗って、強烈な獣臭と、腐った肉の匂いが漂ってくる。

木々の奥、開けた場所に、粗雑な柵で作られた集落が見えた。


「ビンゴだ。……へっ、数は二十体ほどか。ジェネラルもいるな」


アレクは聖剣を抜き放ち、ニヤリと笑った。

その笑みは引きつっていたが、獲物を見つけた高揚感が痛みを一時的に忘れさせてくれた。

集落の中央には、一際巨大なオーク・ジェネラルがドカと座り込み、人間の太ももらしき肉をかじっている。

周囲には部下のオークたちがたむろしていた。


「作戦はいつも通りだ。俺が突っ込んでジェネラルの首を取る。ガストンは雑魚を引きつけろ。エリスは援護だ」

「お、おう……片腕だけど、なんとかなるか……」

「わ、分かりましたわ……」


二人の不安げな返事を無視して、アレクは飛び出した。

奇襲こそが最大の防御。

敵が気づく前に首を落とす。それが俺の必勝パターンだ。


「うおおおおッ!! 死ねぇ豚ども!!」


雄叫びと共に、アレクは集落へ躍り込んだ。

オークたちが驚いて振り返る。

その反応の遅さに、アレクは勝利を確信した。

(いける! やはりこいつらは鈍間だ!)

彼は一直線にジェネラルへ向かう。

邪魔な雑魚オークが目の前に立ちはだかるが、こんなものは速度を落とさずに斬り捨てればいい。


「邪魔だッ!」


聖剣を振るう。

キィンッ!!

硬質な音が響き、アレクの手首に強烈な痺れが走った。

斬り捨てたはずのオークが、持っていた粗末な鉄の剣で、アレクの聖剣を受け止めていたのだ。


「な……!?」


アレクは目を見開いた。

弾かれた? 雑魚オークごときに?

今までなら、剣が触れた瞬間に相手の武器ごと両断していたはずだ。

いや、違う。

今までは、クロノが時間を戻して「その角度だと弾かれるから、もう少し手首を返して」と助言していたのだ。

あるいは、相手が防御の構えを取る前に斬れるタイミングを教えてくれていたのだ。


「ブモォッ!!」


オークが鼻息を荒げ、力任せに押し返してくる。

筋力ではオークの方が上だ。

脇腹の激痛が走り、アレクは体勢を崩した。


「ぐっ……どけッ!!」


なんとか剣を強引に引き抜き、横にステップしてかわす。

だが、その一瞬の停滞が命取りだった。

周囲のオークたちが一斉に反応し、武器を構えて殺到してくる。


「ガストン! 何をしている! 早くこいつらを引き剥がせ!」

「やってるよ! でも数が多すぎるんだ!」


ガストンの悲鳴が聞こえる。

見れば、彼は五体のオークに囲まれ、タコ殴りにされていた。

片腕の大盾で必死に防いでいるが、背後や側面からの攻撃は防ぎきれない。

棍棒が背中を打ち、槍が太ももを突き刺す。


「ぐアアアッ! い、痛ぇ! エリス! 回復! 回復くれぇ!」

「無理です! 詠唱する暇がありません!」


エリスの方も地獄だった。

後衛にいるはずの彼女に、すでに三体のオークが迫っていた。

いつもなら、クロノが「エリス、後ろ!」と叫んで注意を促し、近づく敵を魔法で牽制してくれていた。

だが今は誰も守ってくれない。

彼女は杖を振り回して抵抗するが、所詮は非力な魔導師だ。

オークの一体が彼女の腕を掴み、下卑た笑みを浮かべる。


「いやぁああ! 離して! 汚い手で触らないで!」

「クソッ、クソッ、クソッ!!」


アレクはパニックに陥っていた。

想定と違う。何もかもが違う。

雑魚オークですら、一対一で苦戦するほどの膂力を持っている。

こんなはずはない。俺は勇者だ。

ジェネラルはまだ座ったまま、ニヤニヤとこちらの惨状を眺めている。

それが屈辱で、そして何より恐ろしかった。


「どけえええええッ!!」


アレクは渾身の力で目の前のオークを突き飛ばし、ジェネラルへと特攻した。

雑魚は無視だ。

ボスさえ倒せば、部下は恐れをなして逃げるはずだ。

それが「お約束」だ。


「取ったぁあああ!!」


ジェネラルの目の前まで肉薄し、跳躍する。

無防備な首筋。そこへ聖剣を振り下ろす。

完璧な軌道。これなら外さない。

勝利の予感が脳裏をよぎる。


ガシィッ!!


「……あ?」


空中で、アレクの体が停止した。

聖剣が首に届く寸前、ジェネラルの巨大な手が、アレクの体を鷲掴みにしていたのだ。

まるでハエを捕まえるかのような、無造作な動作だった。


「な……放せ……!」


ミシミシと肋骨が悲鳴を上げる。

ジェネラルは巨大な顔を近づけ、腐臭のする息をアレクに吹きかけた。

その瞳には、獲物を甚振る愉悦の色が浮かんでいた。


「グオォォォン……」


低い唸り声と共に、ジェネラルはアレクを地面に叩きつけた。


ドゴォッ!!


「がはッ……!?」


肺の中の空気が全て吐き出され、視界が明滅する。

背骨が折れたかもしれない。足の感覚がない。

地面に這いつくばるアレクの視界に、巨大な棍棒の影が落ちる。


「ヒッ……」


喉から情けない音が漏れた。

死ぬ。

本当に死ぬ。

今まで経験したことのない、本物の「死」の予感が、冷たい手で心臓を握りつぶそうとしている。


その時、アレクは反射的に叫んだ。


「クロノ!! 戻せ!!」


それは、染み付いた習慣だった。

致命的なミスをした時。

死に直面した時。

必ず世界が灰色に反転し、時間が巻き戻り、クロノの冷静な声が聞こえてくるはずだった。

『アレク、次は掴まれる。左に回避して』

その声が聞こえれば、俺は助かる。

痛みも消える。

失敗はなかったことになる。


「クロノ! 何してる! 早くしろ! 死ぬぞ! 俺が死ぬんだぞ!!」


アレクは地面を掻きむしり、涙と鼻水を垂れ流して絶叫した。

だが。

世界は灰色のまま静止などしなかった。

風の音も、オークたちの嗤い声も、ガストンの断末魔も、エリスの悲鳴も、全てがリアルタイムで進行していく。


「あ……?」


そこでようやく、アレクは思い出した。

クロノはいない。

俺が追い出したんだ。

「お前なんて必要ない」と言って。


「いやだ……嘘だろ……?」


絶望が、痛みよりも深く心を蝕んでいく。

視界の端で、ガストンがオークたちの群れに飲み込まれ、動かなくなるのが見えた。

エリスが引きずられ、森の奥へと連れ去られていくのが見えた。

そして、目の前ではジェネラルが棍棒を高く振り上げている。


「クロノぉおおおおおおおッ!!!」


勇者の絶叫は、振り下ろされた棍棒の衝撃音と、肉が潰れる音にかき消された。

森に響くのは、ただオークたちの勝利の雄叫びだけだった。


          ◇


同時刻。

王都から馬車で二日ほどの距離にある、交易都市ルーン。

その一等地にある高級レストランのテラス席で、俺、クロノは優雅にグラスを傾けていた。

芳醇な赤ワインの香りが鼻腔をくすぐる。

目の前には、美しくドレスアップしたセシリアが、ナイフとフォークを使って肉料理を堪能している。


「美味いな、ここの料理は。王都の店よりレベルが高い」

「ああ、素材の鮮度が違う。それに、このソース……隠し味に希少な香草を使っているな」


セシリアが満足げに微笑む。

戦場での凛とした姿も良いが、こうして年相応に食事を楽しむ姿も悪くない。

俺たちは昨日、この街の近くにある高難度ダンジョンを、たった二人で踏破した。

その報酬で、今日は豪遊しているわけだ。

金はある。名声も、この街に来てたった一日で広まった。

何より、心にのしかかっていた重りがないことが、食事を何倍も美味しくさせていた。


「失礼します。クロノ様でいらっしゃいますか?」


ふと、黒服の給仕が恭しく声をかけてきた。

その後ろには、冒険者ギルドの制服を着た男が、青ざめた顔で立っていた。

この街のギルド職員だ。


「ああ、そうだが。何か問題でも?」

「いえ、その……王都のギルド本部から、緊急の魔法通信がありまして……」


職員は震える声で、一枚の羊皮紙を差し出した。

俺はグラスを置き、それを受け取る。

セシリアも食事の手を止め、怪訝な顔でこちらを見た。


羊皮紙には、乱れた筆跡でこう書かれていた。


『緊急報告。本日正午頃、Sランクパーティ「神の盾」が王都近郊の森にて消息を絶つ。後続の冒険者が現場を発見するも、生存者なし。現場には大量の血痕と、破壊された装備のみが残されていた模様。至急、元メンバーであるクロノ殿に確認を取りたい事項あり』


俺は文面を目で追い、そして静かに羊皮紙をテーブルに置いた。

感情の波は、驚くほど凪いでいた。

悲しみも、同情も、驚きさえもない。

ただ、「ああ、やっぱりか」という、天気予報が当たった時のような感覚だけがあった。


「どうした、クロノ殿。悪い知らせか?」

「いや……」


俺はワインを一口含み、喉を潤してから答えた。


「昔の知り合いが、自業自得で破滅したという知らせだ。大したことじゃない」

「そうか」


セシリアはそれ以上何も聞かなかった。

彼女もまた、俺の瞳を見て全てを察したのだろう。

「神の盾」の末路など、彼女にとっては興味の対象ですらない。


「確認事項があるらしいのですが……」


職員がおずおずと尋ねてくる。

俺は肩をすくめた。


「悪いが、僕はもう彼らとは無関係だ。追放された身でね。彼らがどうなろうと知ったことじゃない」

「は、はあ……しかし、Sランクパーティが全滅となると、国にとっても損失でして……」

「損失?」


俺は冷ややかに笑った。


「勘違いしているようだが、損失なんて最初から出ていないよ。彼らはもともと、その程度の実力だった。僕という『命綱』が切れた瞬間に落ちるのは、物理法則と同じくらい当たり前のことだ」


職員は言葉を失い、ただ冷や汗を流して立ち尽くしている。

俺はナプキンで口元を拭い、席を立った。


「セシリア、行こうか。デザートは別の店で食べよう」

「ああ、そうしよう。甘いものが食べたい気分だ」


俺たちはテラスを出て、賑わう夜の街へと歩き出した。

背後で、職員が何か言いたげにしていたが、振り返ることはしなかった。


空を見上げると、満天の星空が広がっている。

そのどこかで、今もアレクたちが苦しんでいるのかもしれない。

オークの巣で玩具にされているのか、あるいはもう楽になっているのか。

どちらにせよ、俺には関係のない話だ。


俺は懐から懐中時計を取り出した。

秒針は、カチ、カチ、と規則正しく時を刻んでいる。

かつて俺は、この針を何度も何度も戻し、彼らの運命を修正し続けてきた。

だが、もう二度と、この針を逆回しにすることはない。


「時間は、前へ進むものだからな」


俺は独りごちて、懐中時計の蓋をパチンと閉じた。

その音は、彼らへの最後の手向けのようでもあり、俺の新しい人生の幕開けを告げる合図のようでもあった。


「さあ、次はどんな冒険が待っている?」


隣を歩くセシリアが、楽しげに俺の顔を覗き込む。

俺は微笑み返した。


「さあな。でも確かなことが一つある」

「ほう?」

「僕たちの未来には、もう『リトライ』なんて必要ないってことさ」


俺たちは笑い合い、光の溢れる大通りへと消えていった。

二度と戻らない時間を、最高の今として楽しむために。

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