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第三話 観測者の解放

翌朝、俺は小鳥のさえずりで目を覚ました。

窓から差し込む柔らかな陽光が、埃の舞う安宿の部屋を照らしている。

体を起こし、大きく伸びをする。

関節がパキパキと鳴り、心地よい脱力感が全身を包んだ。


「……頭が、痛くない」


俺は自分の額に手を当て、信じられない思いで呟いた。

これまで、俺の朝は常に鈍痛と共に始まっていた。

睡眠中であっても、『リトライ』の魔法は無意識下で発動待機状態を維持し続けていたからだ。

いつ何時、勇者アレクが寝言で舌を噛み切って死ぬかもしれない。

酔っ払ったガストンが階段から落ちて首を折るかもしれない。

そんな「もしも」に備え、俺の脳は常にアイドリング状態のエンジンのように熱を持ち、魔力を消費し続けていた。


だが今は、その重圧が綺麗さっぱり消え失せている。

脳内を支配していたノイズが消え、思考がクリアだ。

血管を流れる魔力が、淀みなく全身を循環しているのが分かる。


「おはようございます、クロノ殿」


部屋の扉がノックされ、返事をする前にセシリアが入ってきた。

彼女はすでに身支度を整えていた。

昨日のボロボロのマントは捨てられ、シンプルだが仕立ての良い旅装に身を包んでいる。腰には愛用の細剣が佩かれていた。

その凛とした立ち姿は、安い宿屋の一室を一瞬で騎士団の執務室に変えてしまうような品格があった。


「おはよう、セシリア。……その『殿』というのはやめてくれないか? 僕はもうSランクパーティの一員じゃない、ただの無職だ」

「肩書きなど関係ない。貴公は私の主だ。それに、無職ではないだろう? 今日からは私と二人、最強のパーティとして名を馳せるのだから」


セシリアは悪戯っぽく微笑むと、手にしたバスケットをテーブルに置いた。

焼きたてのパンと、果物の香りが漂う。


「朝食を買ってきた。これを食べて、すぐに出発しよう。ギルドで依頼を受けてきたのだ」

「依頼? 僕の登録証はまだ更新していないけれど」

「私の名義で受けた。内容は『街道に出没するオーク・ジェネラルの討伐』だ。Sランク相当の魔物だが、貴公と私なら朝飯前だろう?」


オーク・ジェネラル。

通常なら、中堅パーティが総出で挑んでも半壊する恐れのある上位種だ。

かつて『神の盾』時代にも遭遇したことがあるが、あのアレクでさえ初見では一撃で吹き飛ばされ、俺が三回時間を巻き戻して攻略法を伝授した相手だった。


「いきなりハードルが高いな……。まあ、君がいれば大丈夫か」

「ふふ、貴公のその慎重さ、嫌いではない。だが、今日の主役は私ではないぞ」


セシリアは意味深に笑うと、パンを俺に手渡した。


          ◇


王都を出て数時間。

街道を外れた森の奥深くで、俺たちは目的の魔物と対峙していた。

オーク・ジェネラル。

身長三メートルを超える巨体に、鋼鉄のような筋肉。手には身の丈ほどの巨大な棍棒を握りしめ、豚のような鼻息を荒げている。

周囲には部下である通常のオークが十数体、取り巻きのように群がっていた。


「グルルルァアアアッ!!」


ジェネラルが咆哮を上げる。

その威圧感だけで、並の冒険者なら足がすくむだろう。

俺は反射的に、隣にいるセシリアに指示を出そうと口を開いた。


「セシリア、右の雑魚から――」

「クロノ殿」


セシリアは俺の言葉を遮り、剣を抜かずに一歩下がった。


「今回は、貴公がやってくれ」

「……え?」

「私は手を出さない。貴公の魔法だけで、こやつらを殲滅してみせよ」

「無茶を言うな! 僕は時間魔導師だぞ。攻撃魔法なんて、初級の『ファイアボール』くらいしか使えない」


俺は抗議した。

時間操作魔法『リトライ』は、世界の理をねじ曲げる大魔法だ。

その維持と発動には、俺の保有魔力の九割九分を常時割り当てる必要がある。

だからこそ、俺は他の魔法を覚える余裕も、使う魔力もなかった。

『神の盾』時代、俺が攻撃に参加しなかったのはサボりではなく、物理的に不可能だったからだ。


「貴公は、まだ気づいていないのか?」

「何にだ?」

「自分の『器』の大きさに、だ」


セシリアは静かに語りかけた。


「貴公は数年間、四六時中、世界を巻き戻すほどの魔力を練り上げ、制御し続けてきた。それは、重りを背負って山を登り続けるようなものだ。……今、その重りはない。その状態で放つ魔法が、ただの『ファイアボール』で終わるはずがないだろう」


彼女の瞳は確信に満ちていた。

俺は自分の手のひらを見つめる。

確かに、今の俺の中には、かつてないほどの魔力が渦巻いている。

行き場を失った膨大なエネルギーが、解放される時を今か今かと待っているのが分かる。


「……分かった。やってみる」


俺は前に出た。

オークたちが、小柄な人間を嘲笑うように下卑た笑い声を上げながら迫ってくる。

ジェネラルが棍棒を振り上げ、俺を叩き潰そうとする。

その動きが、ひどくゆっくりに見えた。

時間を止めているわけではない。俺の思考速度と魔力循環の速度が、常人のそれを遥かに凌駕しているのだ。


(イメージしろ。魔力を一点に集中させる)


俺は右手を突き出し、掌に魔力を集束させた。

いつもなら、『リトライ』の維持に気を配りながら、針の穴を通すような繊細な魔力操作で、僅かな残りカスを絞り出していた。

だが今は、その制限がない。

ダムが決壊したように。

堰き止められていた奔流を、すべてこの一点に注ぎ込む。


「燃えろ――『ファイアボール』」


俺が口にしたのは、魔法使いが見習いの頃に覚える、最も初歩的な呪文だった。

だが、現象は初歩とは程遠いものだった。


ボッ……カァアアアアアアッ!!!!


俺の手のひらから放たれたのは、拳大の火球ではない。

直径数メートルにも及ぶ、灼熱の太陽だった。

それは轟音と共に空間を焼き焦がし、迫りくるオークの群れを飲み込んだ。

断末魔を上げる暇さえなかった。

先頭にいたオークたちは瞬時に蒸発し、炭化する間もなく消滅する。


「なっ……!?」


俺自身が驚愕に目を見開く中、紅蓮の太陽はそのまま突き進み、後方に控えていたオーク・ジェネラルに着弾した。


ズガァアアアアアーン!!


天地がひっくり返ったような爆発音。

視界が真っ白に染まり、強烈な爆風が俺の髪を逆立てる。

地面が揺れ、木々が薙ぎ倒され、土煙がキノコ雲のように空へと立ち昇った。


しばしの静寂。

やがて土煙が晴れると、そこには何もなかった。

オーク・ジェネラルも、部下のオークたちも、彼らが立っていた地面さえも。

ただ、巨大なクレーターがぽっかりと口を開け、その縁が赤熱して溶岩のようにドロドロと溶けているだけだった。


「…………嘘だろ」


俺は震える手を見つめた。

これが、俺の魔法?

ただの『ファイアボール』だぞ?

こんな威力、宮廷魔導師が使う戦略級魔法『プロミネンス』ですら見たことがない。


「素晴らしい」


背後で、パチパチという拍手の音が聞こえた。

振り返ると、セシリアが満足げに頷いていた。


「やはり私の目に狂いはなかった。貴公の魔力総量は、すでに賢者クラスをも凌駕している。それをすべて攻撃に転用すれば、こうなるのは必然だ」

「で、でも、こんなの制御できないぞ。街中で使ったら大惨事だ」

「慣れればいい。貴公の時間操作における精密さは神業の域だ。その制御力を攻撃魔法に向ければ、威力を一点に絞ることも、広範囲に拡散させることも自在になるはずだ」


セシリアは俺の隣に並び、クレーターを見下ろした。


「クロノ殿。貴公は今まで、勇者たちの『死』を帳消しにするために、その膨大な力を使っていた。言わば、マイナスをゼロに戻すためだけに浪費していたのだ」


彼女は俺の方を向き、真っ直ぐに俺の瞳を覗き込んだ。


「だが、これからは違う。その力は、プラスを生み出すためにある。敵を倒し、道を切り開き、貴公自身の未来を掴み取るためにあるのだ」


プラスを生み出す。

その言葉が、俺の胸にストンと落ちた。

そうだ。俺はずっと、失うことを恐れて生きてきた。

アレクたちが死なないように。パーティが崩壊しないように。

ビクビクと怯えながら、過去を修正することだけに全力を注いでいた。

だが、今はどうだ。

目の前にあるのは、俺自身の力で勝ち取った圧倒的な「勝利」の跡だ。

誰も守らなくていい。

誰の顔色も窺わなくていい。

ただ、俺が振るいたいように力を振るえば、世界はこんなにも簡単に変わるのだ。


「……ははっ」


乾いた笑いが漏れた。

そしてそれは、すぐに抑えきれない高揚感へと変わっていった。


「あはははは! なんだこれ、凄いじゃないか!」


俺は両手を広げ、空に向かって笑った。

体の底から力が湧いてくる。

全能感。

いや、これはそんな傲慢なものではない。

もっと純粋な、鎖から解き放たれた囚人が初めて味わう「自由」の味だ。


「見ろよセシリア! 一撃だ! あのアレクが苦戦したジェネラルが、跡形もなく消し飛んだ!」

「ああ、見ているとも。貴公こそが最強だ、クロノ」


セシリアもまた、嬉しそうに微笑んでいる。

俺は拳を握りしめた。

今まで俺を「無能」「お荷物」と蔑んできた連中の顔が脳裏をよぎる。

今すぐ彼らの目の前でこの魔法をぶっ放してやりたい衝動に駆られたが、それは堪えた。

そんなことをしなくても、彼らは勝手に自滅していく。

俺はこの力で、彼らが逆立ちしても届かないような高みへと登っていくだけだ。


「……気分はどうだ、我が主よ」

「最高だ。こんなに空が広いなんて、知らなかったよ」


俺はセシリアに向き直り、深く息を吐いた。

憑き物が落ちたような、清々しい気分だった。


「ありがとう、セシリア。君のおかげで、僕は本当の意味で覚醒できた気がする」

「礼には及ばない。私はただ、宝石についた泥を拭っただけだ」


彼女は謙遜したが、その瞳は誇らしげだった。

俺たちは再び歩き出した。

目指すは隣国のダンジョン都市。そこには、王都よりもさらに高難度の迷宮があるという。

今の俺なら、どんな敵が来ても負ける気がしない。

恐怖はない。あるのは、自分の力がどこまで通じるのかという、ワクワクするような冒険心だけだ。


          ◇


一方その頃。

俺たちが後にした王都の冒険者ギルドでは、昨日とは打って変わった陰惨な空気が漂っていた。


「おい、どうなってるんだ! ポーション一本で銀貨五枚だと!?」


受付カウンターで怒鳴り声を上げているのは、包帯だらけの勇者アレクだった。

昨日の敗走で負った傷が癒えきっておらず、痛々しい姿を晒している。


「ですから、それは相場通りです。クロノ様がいらっしゃった頃は、彼が自作した高品質なポーションを無償で提供していたようですが……」

「うるさい! 俺たちはSランクの『神の盾』だぞ! 特別割引くらいあるだろう!」

「ギルドの規定ですので……」


受付嬢は困り顔で対応しているが、その目は冷ややかだ。

昨日の「浅層での敗北」の噂は、すでにギルド中に広まっている。

「無傷の英雄」のメッキが剥がれ落ちた彼らに、以前のような特別扱いはもうない。


「くそっ、あいつのせいで金までかかるとはな……! おいエリス、ガストン、金を出せ!」

「も、持ち合わせがありませんわ……新しいローブを買うのに使ってしまいましたし……」

「俺もだ。盾の修理費でスッカラカンだぜ。なあアレク、今日は簡単な薬草採取のクエストにしておかないか? 体が痛くてたまらねぇんだ」

「ふざけるな! Sランクの俺たちが薬草採取だと!? 笑い者になるぞ!」


アレクは焦っていた。

一度の失敗なら、「運が悪かった」で済まされるかもしれない。

だが、二度続けば評価は地に落ちる。

早急に成果を上げ、昨日の汚名を返上しなければならない。


「……おい、あれを見ろ」


アレクが指差したのは、掲示板の端に貼られた高難度依頼書だった。

『オーク・ジェネラルの討伐』。

報酬は金貨五十枚。これなら装備を新調してもお釣りが来る。


「これだ。オーク程度なら、多少怪我をしていても問題ない」

「で、でもアレク様、ジェネラルは手強いですよ? クロノがいない今、万全の状態でなければ……」

「黙れ! 俺の剣があればどうとでもなる! 行くぞ!」


アレクは強引に依頼書を毟り取った。

彼らは知らなかった。

そのオーク・ジェネラルは、かつてクロノが裏で三回も時間を巻き戻し、奇跡的なタイミングでアレクの剣を当てさせていた相手だということを。

そして、今の彼らには「失敗」を許容する余地など、一ミリも残されていないことを。


ギルドを出ていく彼らの背中は、どこか死刑台に向かう囚人のように小さく見えた。

俺、クロノが放った灼熱の『ファイアボール』が森を焼き払ったことなど知る由もなく、彼らは自らの足で、本当の地獄へと歩を進めていった。


空は高く、どこまでも青い。

俺にとっての「始まり」の空は、彼らにとっての「終わり」を告げる空でもあった。

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