第一話 秒針は止まった
「――ッ、しまっ」
視界の端で、勇者アレクの身体が鮮血に染まるのが見えた。
深層階層の主、アビス・ドラゴンの巨大な顎が、慢心から不用意に突っ込んだアレクの上半身を無慈悲に噛み砕いたのだ。
ぐしゃり、という生々しい音が洞窟内に響き渡る。
聖女が悲鳴を上げ、重戦士が呆然と盾を下ろす。
世界が絶望に染まるその瞬間、俺、クロノは無感情に指を鳴らした。
「――『リトライ』」
世界が灰色に反転する。
飛び散った血飛沫が空中で停止し、アレクの千切れた肉体が元の形へと修復されながら、アビス・ドラゴンの顎が開かれる前の位置へと戻っていく。
音も、光も、時間さえもが逆流する。
俺の意識だけを残して、世界は五秒前へと巻き戻った。
ズキリ、と脳髄を焼くような激痛が走る。
『死』の記憶は消えない。アレクが噛み砕かれた感触、断末魔、仲間の絶望。それら全てが、俺の脳内に「存在した過去」として焼き付けられる。これが時間遡行の代償だ。
だが、痛みに顔を歪めている暇はない。
「アレク! 次は顎だ! 右に回避しろ!」
巻き戻った直後、俺は喉が裂けんばかりに叫んだ。
勇者アレクは俺の指示に一瞬だけ眉をひそめたが、直後に迫りくるドラゴンの顎に気づき、反射的に右へと身を翻した。
ゴウッ!
先ほど彼を噛み砕いた凶悪な一撃が、アレクの頬をかすめて空を切る。
「はっ、遅いぜトカゲ野郎!」
死の未来を回避したことになど気づきもせず、アレクはニヤリと笑うと、聖剣を煌めかせた。
無防備になったドラゴンの喉元に、必殺の一撃が叩き込まれる。
断末魔の咆哮と共に、巨体が地響きを立てて崩れ落ちた。
「やった……! さすがアレク様!」
「俺たちの連携、完璧だったな!」
歓喜の声が上がる中、俺だけが膝をつきそうになるのを必死に堪えていた。
鼻の奥から鉄錆の臭いがする。鼻血が出ているのだろう。袖口で乱雑に拭う。
(これで、今日だけで五十二回目……か)
誰も知らない。
今の戦闘だけで、アレクが十二回死に、聖女が八回ミンチになり、重戦士が三回溶解液でドロドロに溶かされたことを。
その全ての「死」を、俺が『リトライ』でなかったことにしたことを。
俺たちのパーティ『神の盾』が無傷の連勝記録を更新し続けているのは、俺が彼らの失敗を全て消去しているからだ。
「おいクロノ、何ボサッとしてんだ。ドロップアイテムの回収くらいお前がやれよ」
アレクが聖剣を鞘に納めながら、侮蔑の混じった視線を俺に向けてくる。
俺は重くなる頭を振って、立ち上がった。
「……ああ、分かってる」
俺は黙って従う。
いつものことだ。彼らは知らないのだから、仕方がない。
そう自分に言い聞かせることにも、もう疲れ果てていた。
◇
王都へ戻った俺たちは、冒険者ギルドに併設された酒場で祝勝会を開いていた。
最高級の酒と料理がテーブルに所狭しと並べられ、周囲の冒険者たちも羨望の眼差しで俺たちを見ている。
Sランクパーティ『神の盾』。
結成以来、一度もパーティメンバーの死者を出さず、依頼達成率は一〇〇パーセント。
「無傷の英雄」と呼ばれる彼らは、今夜も上機嫌だった。
「いやー、今回のアビス・ドラゴンも大したことなかったな! 俺の剣技にかかればあんなもんだよ」
ジョッキを片手に、アレクが顔を赤くして豪語する。
「本当に凄かったですわアレク様。あのドラゴンの攻撃を全て見切って回避するなんて、まさに神業ですもの」
聖女のエリスがうっとりとした瞳でアレクを見つめ、相槌を打つ。
重戦士のガストンも、骨付き肉をかじりながらガハハと笑った。
「全くだ。俺が盾を構える必要すらなかったからな。アレクの動きは、まるで未来が見えているかのように正確だったぜ」
未来が見えている、か。
皮肉な言葉に、俺は手元の薄い水割りを見つめて苦笑した。
未来が見えているわけではない。お前たちが死ぬ未来を、俺が何度も見て、やり直させているだけだ。
ガストン、お前は最初のブレスで盾を構えるのが遅れて黒焦げになったんだぞ。
エリス、君はパニックになって回復魔法を誤爆し、自滅したんだぞ。
その記憶を持っているのは、この世界で俺だけだ。
「……おい、クロノ」
不意に名前を呼ばれ、俺は顔を上げた。
アレクが冷たい目で俺を見下ろしている。店内の喧騒が一瞬、遠のいたように感じた。
「なんだ、アレク」
「なんだ、じゃないだろ。今の話、聞いてなかったのか?」
「……聞いていたよ。君の剣技が素晴らしかったという話だろう」
「違うな。俺たちがこれだけ命懸けで戦って成果を出しているのに、お前だけが何もしていないという話だ」
アレクの言葉に、エリスとガストンが同調するように頷く。
酒場の空気が少し張り詰めた。周囲の冒険者たちも、何事かとこちらを窺っている。
「クロノ。お前の魔法、時間魔術だっけか? 戦闘中、一度も使ってないよな」
「……使っているさ。君たちには見えないだけで」
「はっ、見えない魔法なんて意味あるのか? 俺には分かるんだよ。お前、後ろで突っ立ってブルブル震えてただけだろ」
震えていたのは、数十回分の死の苦痛に耐えていたからだ。
だが、それを説明したところで、彼らが理解することはないだろう。これまでもそうだった。
「単刀直入に言うぜ」
アレクはジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。
そして、勝ち誇ったような、あるいは邪魔者を排除する清々しさを含んだ声で告げた。
「クロノ、お前はクビだ。今日限りで『神の盾』から出ていけ」
予想はしていた。
いつかこうなる日が来るだろうと、心のどこかで覚悟していた。
だが、実際に言われると、怒りよりも先に虚無感が押し寄せてきた。
「……本気で言っているのか?」
「本気も本気だ。Sランクに昇格してから、敵も強くなってる。お前みたいな、攻撃魔法も使えない、回復もできない、ただの荷物持ちを養っている余裕はないんだよ」
「そうよクロノ。貴方、正直に言って私たちの足手まといなの。報酬の配分だって、貴方の分を私たちが稼いでいるようなものじゃない」
エリスまでが冷ややかな視線を向けてくる。
かつて、彼女が新人だった頃、ゴブリンの群れに囲まれて泣き叫んでいたのを、俺が十九回時間を巻き戻して救ったことを、彼女は覚えていない。
あの時、「ありがとう」と言ってくれた笑顔は、今の時間軸には存在しないのだ。
「俺がいなくなれば、君たちは死ぬぞ」
俺は精一杯の警告をした。
これは脅しでもなんでもない。純然たる事実だ。
彼らは自分の実力を過信しすぎている。俺の『リトライ』による介護があって初めて成立していたバランスなのだ。
だが、俺の言葉を聞いた瞬間、三人は顔を見合わせ、そして腹を抱えて爆笑した。
「ぶっ、あはははは! 聞いたかよ今の! 俺たちが死ぬだと!?」
「傑作だぜクロノ! お前がいなくなったら死ぬ? 逆だろ、お前がいなくなれば、俺たちはもっと効率よく動けるんだよ!」
「自分の無能さを棚に上げて、呪いの言葉を吐くなんて……見損ないましたわ」
嘲笑の嵐。
周囲の客たちからも、クスクスという笑い声が聞こえてくる。
「あいつ、寄生虫のくせに何様だ?」「勇者様に意見するなんて身の程知らずだな」
そんな囁きが耳に届く。
俺の中で、何かがプツリと切れた音がした。
それは理性というよりも、彼らに対する「情」という名の鎖だったのかもしれない。
数万回。
俺はこれまでの冒険人生で、合計数万回、彼らの死を見てきた。
彼らが内臓を撒き散らす姿も、首を跳ねられる姿も、焼死体になる姿も、俺の記憶の中には鮮明にある。
それでも俺が彼らを見捨てなかったのは、幼馴染としての情と、世界を救うという大義名分があったからだ。
だが、もういいだろう。
俺は十分にやった。
これ以上、彼らの死に顔を見るために、自分の精神を削る必要はない。
「……そうか。分かったよ」
俺は静かに席を立った。
怒鳴り散らす気力も起きなかった。ただ、憑き物が落ちたように心が軽くなっていた。
「おい、待てよ。装備品は置いていけよ。それはパーティの共有財産だろ」
アレクが浅ましい言葉を投げかけてくる。
俺は腰に下げていた短剣と、マジックバッグをテーブルの上に置いた。
中には、俺が個人で作ったポーションや、魔道具が入っている。いざという時のために用意していたものだが、もう彼らには必要ないらしい。
「着の身着のままかよ。ま、惨めなお前にはお似合いだな」
「精々、野垂れ死なないように気をつけな。俺たちの名前を出して物乞いすんじゃねぇぞ」
罵倒を背中に受けながら、俺は出口へと歩き出した。
扉に手をかけた時、最後にもう一度だけ振り返った。
彼らはもう俺のことなど見ていなかった。勝利の美酒に酔いしれ、次の冒険の話に花を咲かせている。
「忠告だけはしておく」
俺の声は、騒がしい酒場の中で彼らに届いたかどうか分からない。
「君たちが思っている『直感』や『運』は、全て僕が作っていたものだ。これからは、一度のミスが命取りになる。……せいぜい、気をつけるんだな」
「あー、はいはい。負け惜しみは外でやってくれー」
アレクがヒラヒラと手を振る。
それが、俺と彼らの最後の会話になった。
◇
酒場の重い扉を開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。
空には満月が輝いている。
俺は大きく息を吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。
「……あぁ」
肺の中の澱んだ空気が全て入れ替わったような気がした。
「終わったんだな」
頭痛がしない。
常に脳の裏側でチリチリと鳴っていた『リトライ』の待機魔力が、霧散していくのを感じる。
次の瞬間に誰かが死ぬかもしれないという緊張感。
いつ時間を巻き戻すべきかという判断へのプレッシャー。
それら全てから、俺は解放されたのだ。
「せいせいした」
独り言は、驚くほど素直に口から出た。
俺は夜の街を歩き出す。
行く当てはある。王都から少し離れた静かな街で、隠居でもしようか。
それとも、自分のためだけに魔法を使って、気ままな一人旅をするのも悪くない。
「……でも、その前に」
俺はふと、路地裏の影に視線を向けた。
気配探知など使わなくても分かる。彼らは気づいていなかったが、酒場にいた時からずっと、鋭い視線が俺たちに向けられていた。
いや、正確には「俺」に向けられていた視線だ。
「そこにいるのは分かっている。出てきたらどうだ?」
俺が呼びかけると、闇の中から一人の人影が音もなく現れた。
月明かりに照らされたのは、凛とした佇まいの女性だった。
流れるような銀髪に、吸い込まれるような紫紺の瞳。
身に纏っているのはボロボロのマントだが、その下に見える軽鎧は、かつて敵対した帝国の騎士団のものだ。
「……気づかれていたか。さすがだな、時間魔導師クロノ」
彼女の声は鈴を転がしたように美しかったが、同時に氷のような冷徹さを含んでいた。
俺は警戒を解かずに彼女を見据える。
「セシリア・オルコット。帝国の『閃光』と恐れられた元騎士団長が、こんなところで何の用だ?」
彼女、セシリアは、かつて俺たち『神の盾』と幾度となく死闘を繰り広げたライバルだった。
アレクが「俺の剣で追い返してやった」と豪語している相手だが、実際は違う。
彼女の剣速はアレクを遥かに凌駕していた。
俺が百回以上時間を巻き戻し、彼女の剣筋を全て記憶し、アレクに完璧な指示を出してようやく撤退に追い込んだのだ。
ある意味で、俺の『リトライ』を最も消費させた強敵と言える。
「用があるのは貴公だけだ、クロノ」
セシリアは剣を抜く様子もなく、真っ直ぐに俺を見ていた。その瞳に敵意はない。あるのは、奇妙なほどの熱量を含んだ探究心だ。
「貴公のパーティが、先ほど貴公を追放したところを見させてもらった」
「……趣味が悪いな。落ちぶれた敵を笑いに来たのか?」
「まさか。私はただ、確認したかったのだ」
彼女は一歩、俺に近づいた。
「あの愚かな勇者たちは、何も分かっていなかったようだが……私はずっと違和感を抱いていた。あの戦いの中で、私の剣が完璧に読まれている瞬間が何度もあった」
「…………」
「勇者の反応速度ではない。奴は私の剣を見てから動いていたのではない。来ることを『知っていた』動きだった。そして、その指示を出していたのは、常に後衛にいた貴公だ」
俺は息を呑んだ。
バレていたのか。
アレクたち本人ですら気づかなかった俺の干渉を、敵である彼女だけが感じ取っていたというのか。
「貴公の瞳には、誰も知らない悲劇が映っている。……そうだろう?」
セシリアの言葉が、俺の胸の奥深くに突き刺さる。
誰にも理解されず、孤独に抱え続けてきた痛みを、まさか敵だった人間に言い当てられるとは。
俺は力が抜けたように、小さく笑った。
「……買い被りだよ。ただの臆病な魔導師さ」
「いいや。貴公こそが、あのパーティの真の強さだった。それが証明された今、私は貴公に提案がある」
セシリアは俺の目の前まで歩み寄ると、その場に片膝をついた。
それは、騎士が主君に対して行う、最上級の礼だった。
「クロノ殿。もし行く当てがないのなら、私と共に来てはくれないか」
「……は?」
「私は国を追われ、失うものは何もない。だが、貴公の力と私の剣があれば、世界ですら相手にできると確信している。……いや、正直に言おう」
彼女は顔を上げ、少しだけ頬を染めて、熱っぽい瞳で俺を見上げた。
「戦場で見せた貴公の、あの悲哀を帯びた冷徹な指揮に……私はずっと、心を奪われていたのだ」
予想外の言葉に、俺は目を丸くする。
追放された直後に、かつての宿敵から求婚(のような勧誘)を受けるなんて、どんな悪い冗談だ。
だが、悪い気はしなかった。
少なくとも、アレクたちに向けられていたような、道具を見る目ではない。彼女は「俺自身」を見ている。
「……面白いな」
俺は彼女に手を差し伸べた。
彼女はその手をしっかりと握り返してくる。冷たくて、けれど力強い手のひらだった。
「いいだろう、セシリア。僕も、誰かのためじゃなく、自分のために力を使ってみたいと思っていたところだ」
こうして、俺の新しい人生が始まった。
そして同時に、それは勇者アレクたちにとっての終わりの始まりでもあった。
翌日。
俺は宿屋のベッドで、街が騒がしいことに気づいて目を覚ました。
窓を開けると、新聞配達の少年が号外を配りながら走っているのが見えた。
『号外! 号外! Sランクパーティ『神の盾』、ダンジョン浅層にて壊滅的被害! 勇者アレク、重傷!』
その見出しを見た瞬間、俺の胸に湧き上がったのは、驚きでも悲しみでもなかった。
当然の結果だという、冷めた納得だけだった。
「……さて、朝食にするか」
俺は窓を閉めた。
秒針はもう戻らない。
彼らが味わう地獄は、まだ始まったばかりなのだから。




