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満腹龍神様と3つのご飯

作者:

 これは私と、満腹龍神様と、三つのご飯の物語だ。



 東京都、練馬区。

 今日もバカみたいに遅い時間に走る終電に、バカみたいに惚けた顔のOLが乗っている。


「辛気臭い顔……」


 暗いトンネルを走る地下鉄の窓に映った自分の顔を見て、私はつぶやいた。


 私の名前は早乙女小春。

 都内でウェブデザイナーの仕事をしている、今年で二十八の独身OLだ。


 毎日朝から深夜までクタクタになって働き、帰宅するのは午前一時過ぎ。

 大江戸線の最終電車で練馬に帰るのが、私の日課だ。


「ただいま」


 鍵を開けながら、誰も居ないのにそう言ってしまう。

 家に帰ってやる事と言えば、お風呂に入って寝るくらいで、朝になったらまた仕事。

 唯一の楽しみは二十四時間スーパーで買ったお惣菜をつまみながらビールを飲むことくらい。


 ピーッ


 聞き慣れた電子レンジの音と同時に、私は温めていたものを取り出す。

 今日の晩御飯は唐揚げ、アジフライ、格安コロッケ。

 空腹の体は、夜中になるほど重たい揚げ物を欲してくる。その欲望に抵抗するような心の余裕は私にはない。


「ははっ、何これ、おっかしいの」


 お気に入りの料理系ユーチューバーのチャンネル動画を見ながら、ちびちびとツマミを口に運び、ビールで流し込む。一日の終わりのこの時間だけが、私の癒やしのひとときだ。

 モニターでは、美味しそうな料理を作っていくユーチューバーの姿が映っている。見事な手付きだった。


「そう言えば最近、全然自炊してないなぁ」


 田舎を出て上京してもう六年。

 就職当初は節約も兼ねて結構凝った料理を作ったり、お弁当作りもマメにやっていた。

 でも仕事が忙しくなるにつれ徐々にやらなくなり、今では閉店間際の半額惣菜を狙うただのハイエナと化している。

 画面では、美味しそうなうな丼が映し出されていた。香りが漂ってきそうなほどふっくらとしたうなぎの映像が、我が食卓のわびしさを加速させた。


「くそー、美味そうだな」


 私が一人歯ぎしりしていると、不意にスマホの着信音が鳴り響く。

 こんな真夜中に電話……?

 恐る恐る画面を見ると、実家からだった。なんだろう? とりあえず出てみる。


「もしもし?」

「あ、小春? お母さんだけど。ごめんね夜遅くに」

「ううん、別に良いんだけど。どうしたの?」

「それがね、落ち着いてほしいんだけど――」

「えっ?」


 私は一瞬、言葉に詰まる。


「おばあちゃんが死んだ……?」


 ◯


 久々に見た父方の祖母の顔は、生前のそれとまるで変わりなく、眠っていると言われれば信じてしまいそうなほど穏やかな顔をしていた。


「小春、よぉ休み取れたね」


 布団で横たわる祖母を見つめる私に、母が声をかけてくる。


「東京の仕事は? 大丈夫なん?」

「えっ? うん。忌引って言ったら休みもらえた。まぁ、明後日には帰らなきゃだけど」

「そう、忙しいのに悪いね」

「仕方ないよ。ねぇ、おばあちゃんって何で死んだの?」

「縁側で夕涼みしてたらそのままポックリ。老衰だって。回覧板持ってきたご近所さんが見つけてくれてね」

「へぇ……」


 話を聞きながら、私は久々に拝む親族の顔へと視線を移す。

 誰も泣いている人はいない。

 たぶん、私もみんなも、分かっていた。そろそろ祖母にお迎えが来るってことを。


 夫婦二人で定食屋を開いていた祖母は、ハツラツとしていた人だった。

 でも祖父の死をきっかけに店を閉めて、すっかり年老いてしまった。

 私が子供の頃も、よく晩御飯を祖父母のお店で食べたっけ。



 お通夜が終わり、親族での会食が開かれた。

 通夜振るまいとは言え、その空気は緩く、油断するとちょっとした親族の飲み会みたくなりつつある。


「小春ちゃん、こっちにはいつまで居るんや?」


 叔父のグラスにビールを注いでいると、そう尋ねられた。


「明日の出棺が終わって、夜には帰らなきゃですね。遺品の片付けもあるのに、ろくに手伝えずすみません」

「何言ってんの、今やプロのイラストレーターなんだから胸張りなって。忙しいことくらいみんな分かっとるよ」

「あはは……」


 正確にはウェブデザイナーなんだけどな。思わず乾いた笑いが溢れる。

 私の元々の夢はイラストレーターで、ウェブ制作会社に入社した当初も、いつかはイラスト一本で食べていこうと本気で思っていた。しかし忙殺される日々の中で、いつしかその闘志はくすみ、すっかりと色あせてしまっている。


 嘘はついてないのに、何だか騙しているようで居たたまれなくなって、私はビールを取りに行くついでに部屋を出た。


「うわ、めっちゃ食材あるなぁ」


 冷蔵庫のビールを取ろうとしたところ、ずいぶん沢山の食材が置かれていることに気がついた。真新しい物が多い。冷蔵庫に入っているのは最近購入したものだろう。

 よく見ると、キッチン周りには調味料もかなり揃っていた。それに調理器具もホコリを被っておらず、全体的に手入れされているとわかる。

 祖父は厨房に立っていたこともあってよく料理をしていたけれど、配膳係だった祖母はどうだったろうか。少なくとも、こんなに調味料を使うほど料理家ではなかった気がする。


 変だな……と思いつつ、私は缶ビールを取り出すと、そのまま口に運んだ。

 リビングからは親戚たちの会話が聞こえており『結婚』なんて単語が飛び出している。今の私にとっては、最も避けたい話題だ。

 ため息を吐いて、何となく祖母の部屋に逃げ込む。


 すると、棚の上に小さな神棚があることに気がついた。手のひら大の透明な水晶と、ほとんど中身がなくなった水の入ったグラスが置かれている。


「なんだこれ?」

「あぁ、それね。おばあちゃんが大事にしていた水晶よ」


 いつの間にか背後に母が立っていた。


「元々はおじいちゃんの形見でねぇ。ずっと大切にしてたわねぇ」

「へぇ、おばあちゃんが……」


 何だかこの水晶には見覚えがある。私はそっとその水晶に手を伸ばした。


「あっ、これ……」


 思い出した。

 これ、満腹龍神様だ。


 ◯


 私がまだ高校生だった頃。祖母がこの水晶を拝んでいたのを見たことがある。

 グラスにミネラルウォーターを注いでお供えして、仰々しく拝んでいた。


「おばあちゃん、何やってるの?」

「満腹龍神様に手を合わせてるんだよ」

「満腹龍神様?」


 聞き慣れぬどこかポップな名前に、私は興味を持った。


「そう、満腹龍神様。ご飯を授けてくださるとってもありがたい神様よ。お願いすると何でも三つだけ、好きな食べ物を食べさせてくれるの」

「へぇ、すごい」


 ドラゴンボールみたいな設定だな、なんて感じながらも、興味を惹かれた。


「おばあちゃんは何か食べさせてもらったりしたの?」

「ええ。とっても大切なものを食べさせてもらったわ。とっても美味しい、かけがえのないものを」

「へぇ?」


 気になるようなそうでないような、我ながら適当な返事をする。


「ご飯をもらうにはどうすれば良いの?」

「お水をあげるの。お水が大好きな神様だから。それから、毎日しっかりお祈りする事」

「お祈りかぁ、ハードル高そう。私、作法なんて知らないし」

「作法は何でも良いの。ただ、手を合わせて拝む。それだけで、神様は気持ちを受け取ってくださるからね」


 ◯


 もうずいぶん昔の話だけれど、それは昨日のように鮮明な記憶だった。

 不思議と魅力のある龍神の水晶。

 見ているだけで、心が癒される気がする。


「お母さん、この水晶も処分されちゃうの?」

「えっ? どうかしら。でも、誰も引き取りたがらないでしょうねぇ、そんな古ぼけた水晶」

「そっか……」


 私はじっと水晶を見つめる。何だか無性に惹かれてしまうのは、この中に祖母との思い出が宿っているからだろうか。


「ねぇ、これ、もらっても良い?」

「えっ? そうねぇ……、まぁ、別に良いんじゃないかしら。あんたなら、おばあちゃんも納得してくれるでしょ」

「やったね」



 実家から戻った私は、早速水晶をキッチンにある適当な棚に飾った。

 飾られた水晶を見て、私はかつて祖母がそうしていたように、両手を合わせて拝んでみる。


「そう言えば水が好きなんだっけ」


 私は水晶を飾っている棚にグラスを置くと、そこに水を注いだ。


「油断しすぎて入れすぎた……」


 我ながら攻め過ぎた。

 グラスに注いだ水は、ほとんど表面張力で保っている。地震でも来たら途端にこぼれるだろう。


「まぁいっか。これからよろしくね、満腹龍神様」


 その日はそんなことを言って眠りについた。



 異変に気づいたのは、翌日の朝になってからだ。



「やばいやばい、遅刻じゃん! 連休明けで寝坊とかシャレにならないって!」


 帰省で疲れていたせいか、すっかり二度寝してしまった。

 顔を洗い、髪型を整え、簡単な化粧を施す。朝食は……無理か。でも、せめて水くらいは飲んでおきたい。


 適当なコップに水を注いでいると、ふと棚に飾っていた昨日の水晶に目が行った。

 そこで変化に気づく。


 水が減っていたのだ。


 グラスにあれだけなみなみと注いでいた水が、上から一センチくらい減っている。

 こぼれたのかと思ったが、辺りに濡れた痕跡はなかった。


「何これ、蒸発した?」


 果たしてこんな勢いで蒸発したりするものなのだろうか。

 思わず腕組みしたが、そんなこと言っている余裕がないことにも気がつき、私は慌てて家を出た。



「部長、急なお休みをいただきありがとうございました」

「あぁ、構わないよ。こう言う時はお互いさま。それより、仕事が溜まってるから、また今日から頼むよ」

「アハハ……はい」


 結局その日も終電まで働いて、帰宅する頃にはすっかり深夜だった。

 駅からの帰り道をトボトボと歩く。帰るのが遅過ぎて近所のスーパーすら開いていない。コンビニも微妙に遠くて、寄る気力も湧かなかった。


「はぁ……復帰初日からクタクタだよぉ」


 家に帰り、崩れ落ちるようにベッドに倒れ込む。

 一体いつまでこんな生活が続くんだろ。

 思考がどんどん負の螺旋に落ちていく。


 そんな時、不意にぐぅ……と間抜けな音が鳴り響いた。疲れていても腹は減る。


「……なんか食べよ」


 適当に戸棚を探す。

 しかしながら、無情にも冷蔵庫は空っぽだった。カップ麺の買い置きすらしていない。


「最悪だ……」


 時刻は深夜の二時で、もはや外に出るのも億劫だ。

 そんな時、ふと満腹龍神の水晶が目に入る。何でも食べさせてくれる便利な神様。こういう時こそ、私に温かいものを提供してほしい。


「頼むよぉ、龍神様ぁ。ナムナム」



 ――その願い、聞き届けたり。



 不意に、そんな声が、確かに脳裏に響いた。

 次の瞬間だった。


 水晶から虹色の七色の光が、強く強くにじみ出て、室内を照らした。

 思わず目を背けてしまうほどの光で、その輝きは収まるどころかますます強まり、私の視界を覆い尽くした。


 しばらく時間が経ち、恐る恐る辺りの様子を伺う。

 先程放たれた光はもうすっかり鳴りを潜めており、広がるのはいつもの我が家の光景だった。


「夢……?」

「夢じゃないぞ」


 背後から声がして、思わず振り返る。


 目を疑った。

 そこに、龍が居た。


 まるまると太って、立派な角とお髭を生やして、全身を爬虫類の様な鱗で覆われた、二足歩行の龍が玄関に、立っていたのだ。

 驚きのあまり声を無くす私を見て、目の前の太った龍は「ほっほっほ」と穏やかな笑みを浮かべる。


「おぉ、よく寝たわい。外に出るのは、かれこれもう十年ぶりくらいかのう」

「何これ……幻覚? 私、疲れすぎてとうとう幻覚見ちゃった?」


 目の前の妖怪をペタペタと触る。蛇に触れた時の様な爬虫類特有の感触が、確かにそこにあった。恐怖感などはなく、むしろ物珍しさや好奇心が私を満たしていた。

 すると「これこれ」と妖怪は声を出す。


「ほっほ、そう驚くもんでもない。儂を呼んだのは、お前さんなんじゃから」

「私が呼んだ……?」

「そうじゃよ」


 龍は、静かに頷く。


「儂の名は満願福腹之神まんがんふくふくのかみ。満腹龍神と、そう呼ばれておるよ」

「あなたが満腹龍神様? おばあちゃんが言っていた?」


 まさか逸話や伝説とばかり思っていた満腹龍神様が本当に居ただなんて。一体誰が信じるだろう?

 こうして実物を目の前にしている私ですら、まだ信じられない。でも、これが夢でないのであれば、信じざるを得ない。


「おばあちゃん、と言うとお前さんはトメの孫かね?」

「孫の小春だよ。おばあちゃんを知ってるの?」

「もちろんじゃ。最後に儂を呼び出したのがトメじゃったからのう。トメは健在かね?」

「死んだんだ、つい最近……。それで私がこの水晶をもらったの」

「そうか、亡くなってしもうたか。人の一生は、実に短く儚いな」


 龍神様は沈んだ顔をする。疎遠だった古い友達の訃報を聞いたかのような、どこか穏やかな寂しさを感じた。


「それで、あなた本当に満腹龍神様? ご飯を食べさせてくれるっていう?」

「本当じゃよ。ただし、条件がある」

「条件?」

「儂が与える食べ物は、一人につき三つまで。期限は一ヶ月じゃ。それから、毎日供え物として水を入れること。祈りも欠かしてはならん。どれか一つでも破れば、儂は水晶に帰る」

「なるほど」


 祖母の話とほぼほぼ相違はない。

 魂でも抜かれるかと思ってドキドキしていたから、ひとまずはホッとした。

 安心したら忘れていた空腹感が戻ってくる。間抜けなお腹の鳴る音が、部屋に響いた。


「ほっほっほ。それじゃあ夢か現実か確かめるために、早速一つ頼んでみるかい?」

「食べたいものったって、そんな急には……」


 そこで私はふと思い出し、パソコンの画面に先日見ていた動画を映した。


「これ、これがいい……。この画面の人が作ってる、このうな丼。いっつもこの時間に飯テロしてくるコレ! お願い満腹龍神様!」

「そう慌てなさんな」


 龍神様はテーブルまでトボトボと歩いていくと、そっと机の上に手をかざす。何が起こるのかと見守っていると、瞬きをした次の瞬間、机の上にフタ付きの丼物の器が登場した。

 あまりの早業に、何が起こったのかもわからない。


 すると龍神様は「開いてごらん」と私を促した。


 私はゴクリと唾を飲み、ゆっくりと丼のフタを開く。

 瞬間、醤油の焦げたような香ばしい香りと、山椒の芳醇な香りが私の鼻孔を刺激した。

 そして次に飛び込んできたのは、表面を醤油ダレにコーティングされたプリップリのうなぎの姿。

 炊きたてのご飯は粒が立っており、うなぎのタレに包まれてもなおその存在感を主張する。


 いかにも作りたてですと言わんばかりの、身も皮も艷やかなうなぎの姿がそこにあった。


「さぁ、食べてごらん」

「う、うん……」


 私は促されるまま席に座り、恐る恐る箸を手に取る。

 ほぐしたうなぎの身は箸をスルスルと受け入れ、簡単に剥がし取ることが出来た。私はそれを、ご飯と一緒に持ち上げ、恐る恐る口に運ぶ。


 ハッとした。

 口の中でホロリととけたうなぎは、タレの掛かったご飯と奇跡的にマッチする。

 うなぎの脂がご飯で中和され、一口噛むごとに旨味は広がり、感動が脳髄を駆け抜けた。


 箸が止まらない。空いていたお腹が、歓喜の声を上げる。

 一口、二口、三口。

 加速した箸の勢いを止めるものは、何も無かった。


 やばいやばいやばい、めっちゃうまい。

 食べていると、嬉しいのか悲しいのかよくわからない涙が溢れ出てきた。

 かつての祖母の言葉が思い起こされる。



 ――疲れた時は心が寒くなっているから、温かいものを食べなさい。



「小春、美味しいかい?」


 尋ねる満腹龍神様に、私は泣きながらうなずいた。

「美味しい……めっちゃ」


 その日、私の凍った心は、満腹龍神様のうな丼ですっかり溶けた。

 そして思う。

 満腹龍神様は、本物なのだと。


 ◯


 こうして、我が家に不思議な龍の神様がやってきた。

 満腹龍神様が我が家に滞在できるのは最長一ヶ月。

 その間に、私はあと二つ、食べたいものを出してもらわねばならない。

 しかし、満腹龍神様が我が家に来て二週間経っても、私は何のご飯を食べるかを決めかねていた。


 でも一つ、変わったことがある。


「ただいま」

「おかえり」


 いつもの時間、いつもの帰宅。

 返ってくる、穏やかな声。

 私を待ってくれている、満腹龍神様がいるのだ。


「小春、今日も遅かったのう」

「後輩の男の子の手が遅くてさ、そのサポート。満腹様はなにやってるの?」

「映画を見ておった。これがまた面白くてのう」


 満腹龍神様は色んな時代を渡り歩いてきたらしく、我が家にもすぐに順応し、電子機器にもすぐに馴染んだ。

 私はそんな神様を、いつしか満腹様と呼ぶようになった。


 夜中に帰って、家に誰かいる生活は、割と悪くない。

 しかも満腹様は、料理こそしてくれないものの、ちょっとした洗濯物とか、掃除とか、皿洗いも引き受けてくれるのだ。

 人畜無害で、話もよく聞いてくれて、文句も言わない。

 同居人としては最高だ。


「小春ちゃん、彼氏でも出来た?」


 そんな事を急に尋ねてきたのは、社内食堂でたまたま一緒になった、三つ先輩の水卜さんだった。

 予期せぬ言葉に、思わず「うぇっ!?」と声が出る。


「な、何言ってるんですか? 急に」

「隠さなくても良いよ。私そう言うのは鼻利くんだよね」


 水卜さんはそう言って、私の顔をじっと覗き込んでくる。


「整った髪と、いつもより行き渡った化粧、余裕のある表情……」

「はい?」

「ずいぶん生活に余裕が出来たみたいですねぇ? 早乙女小春さん?」

「いや、だから誤解ですって……いませんから、彼氏」

「本当に?」

「出来てないですし、候補もいないです」


 すると水卜さんは「なぁんだ」とつまらなさそうに肩を落とした。


「小春ちゃん、何だか表情が変わったからてっきりそうなのかと思っちゃった」

「表情が変わった?」

「うん。以前は死ぬすんぜんの社畜の顔してたけど、今は表情が明るいよ」

「死ぬすんぜんの社畜って……」


 ひどい表現だと思ったが、あながち間違いでもない。

 満腹様が来てからというもの、確かに生活に余裕が出来たし、心も不思議と穏やかだからだ。

 その理由は満腹様が穏やかで、私がどれだけ愚痴を吐いても、泣き言を言っても、暗いことを言っても動じず受け止めてくれるからだろう。


「たぶん、ちょっとお休みもらったんで、それで気力が戻ったんだと思いますよ」

「つまんないの。いじろうと思ったのに……」

「人の恋路で遊ぼうとしないでください」


 すると水卜さんは何だか遠い目をした。


「最近さぁ、何だか思うんだよね」

「何をですか?」

「家で一人で飯喰っててさぁ、『あぁ、私ずっとこのまま独りなのかな』って」

「水卜さんでもそう言うの考えるんですか?」

「そりゃ考えるよ。小春ちゃんは感じたことない? 家で独りで御飯食べると、何だか少し味が違うなって」

「味が違う……ですか」

「たまに実家に帰って家族とご飯食べるんだけどさ、これが妙に美味しく感じるんだよね。それで、レシピとか教わって家で作るんだけど、全然美味しくないの。同じものなのに、味が違うっていうか、味気ないなって」

「へぇ……」

「結局さ、誰かと食べるご飯が一番美味しいのよ。だから小春ちゃんも早く彼氏作りな? まだ若いんだからさ」

「水卜さんもそんな年齢変わんないでしょ」


 そこで、ふと思いつく。


「ところで、水卜さんに質問なんですけど」

「何さ?」

「『何でも好きな物を食べて良い』って言われたら、水卜さんなら何食べます?」

「えらい急だね。何で?」

「今朝通勤中にふと思いついちゃって。水卜さんなら、何か面白そうな物、思いつきそうじゃないですか」

「私を何だと思ってるのかね、君は」


 水卜さんは眠そうな顔で私を見つめた後、何やら考えるように腕組みした。


「うーん……本当になんでもいいなら、マンガだな」

「マンガ?」

「そ。マンガに出てくるオリジナルのご飯とか食べてみたい。想像と期待を裏切らないようなやつ。小春ちゃんは食べたくない?」

「あー、確かに。興味ありますね」


 オリジナルのマンガ飯か。

 食べたいものと言われて、流石にそれは頭の中になかった。さすがは水卜さんだ。着眼点が他の人とは違う。


 マンガ飯といえば、私は食べてみたいものが一つだけあった。

 昔、幼い頃に見たファンタジーマンガに出てきた料理だ。


 伝説の七つの食材を探しに行くというマンガに出てきた食材『ゴールデンしもふりビーフ』を用いたすき焼きである。

 他にもフェニックスの黄金卵や豊穣土の長ネギなど、色々な食材を用いたそのすき焼きは、幼心に何度も憧れたものだ。

 ちゃんと火は通っているのに、弾力があって、一口噛むごとに肉汁がぶわっと溢れ出すジューシーなお肉。

 濃厚なダシに絡んだ上品な甘味ある長ネギと、太陽の光を吸収したかのような黄金色に輝く卵。


 どれもこれも現実には存在しない代物な訳であるが、そんな物を果たして再現することが出来るのだろうか。


 その日の帰り道は、何だか妙に足取りが軽かった。

 電車の中でも、何だか心が浮足立っているのを感じる。

「すき焼きかぁ……何となく、昔、おばあちゃんとも食べたっけ」


 ○


「おばあちゃんご飯食べに来たよ。今日は何?」

「よく来たね小春。今夜はおじいちゃん特製のすき焼きだよ」

「本当……!?」


 突然の今夜はすき焼き宣言に、幼い頃の私は胸を弾ませたものだ。

 席につき、足をぷらぷらさせながら待っていると、やがてダシが煮える良い香りと共に、お鍋でグツグツと煮えたお肉が姿を現す。

 それを見た当時の私は、まるで宝物を見つけた時のように、目を輝かせたのだ。


「ねぇ、食べていいの!?」

「もちろん。たくさんお食べ」


 祖母の言葉にいざなわれるように、お箸を伸ばす。

 口にしたお肉は、とっても柔らかくて美味しくて。


「これこれ、そんなに慌てなくても、たくさんあるからね」

「だって美味しいんだもん!」


 心なしかいつもより会話ははずみ、顔に笑みが浮かんだのを覚えている。

 そんな私を見て、祖母は嬉しそうに言ったのだ。


「やっぱりご飯は――」


 ○


 そこでハッと意識が戻る。

 気づけば、もう最寄り駅に到着していた。


「ヤバッ、降りなきゃ」


 慌てて電車を飛び降りる。

 今はずいぶんと遠くなってしまったあの記憶が、何だか無性に懐かしく思えた。



 家に帰った私は、早速満腹様に尋ねてみた。


「満腹様って食べ物だったら何でも出せるんだよね」

「そうじゃよ」

「じゃあさ、それがこの世に存在しないものでも出せる? 例えばその……マンガのご飯とか」

「大丈夫じゃよ」

「やっぱダメかぁ……」


 うん? とそこで我に返る。


「って、本当に?」

「わしが出せない食べ物は、この世に存在せんからのう」


 意外だった。

 満腹龍神様が何でも出せることに疑いはなかったが、まさかここまで出来るなんて。

 これが、神様の力か。


「それじゃあ満腹様、よろしくお願いします」

「ほっほっほ、任すがよい」


 満腹様が手をかざすと、不思議な光がテーブルの上に満ち溢れ、香ばしい匂いが部屋に漂って来た。

 鼻腔を刺激され、ついついお腹の音が鳴るのと同時に。

 立派な肉の入ったすき焼きが、机の上に出現したのだ。


「すごい……」

「ほっほっほ、どんなもんじゃ」


 湯気とともに、ダシが焼ける香ばしい香りが漂っていて。

 鍋のそこに敷かれた大量のお肉と、焼き豆腐や糸こんにゃく、お麩、それに青々とした長ネギというお決まりの具材達。

 そして何よりも、器に入った黄金色に輝く卵。

 私がマンガで読んで憧れたすき焼きが、そこに出現していた。


「これ、もしかしてゴールデンしもふりビーフのお肉?」

「ほっほっほ、もしかせんでもその通りじゃて」


 私は恐る恐る、箸でお肉をつまむ。

 想像以上にずっしりとした感触だった。


「た、食べて良いよね?」

「そのために出したからのう」

「では、遠慮なく……いただきます」


 ガブリと、思い切って大口で一口。

 瞬間、私の世界の常識が変わった。


 ぐにゅぐにゅぶよぶよの噛み応えなのに飲み込みやすい肉質。汁はそんなにないが噛めば噛むほど味が滲み出てくる。噛み切るごとにプツンと繊維が弾け、濃厚な旨味が口に広がり、味は牛肉のような重量感のあるものに似ていながらもサラリと流れ込んでくる。

 そして何より、その肉のパンチを包み込む、フェニックスの卵の濃厚な味。

 脂っこいお肉を、卵で包むことで、味をまろやかにし、更にコクを引き出してくれている。


「ウマッ! ウンマッ!! ウマすぎコレっ! なにコレ!?」

「ほっほっほ、慌てて食わんでも肉は逃げんぞい」


 満腹様は美味そうに肉を頬張る私を見て、愉快愉快と笑った。

 ガツガツと、貪るようにご飯を食べて、ふと手を止める。



 ――結局さ、誰かと食べるご飯が一番美味しいのよ。



 不意に、水卜さんの言葉が思い起こされた。

 そんな私を、不思議そうに満腹様が見つめている。


「どうしたんじゃ? 小春。もうお腹一杯かい?」

「えっ、いや……あのさ。よかったら、満腹様も一緒に、食べない?」

「わしもかい? 構わんが……どうしたんじゃ? 急に。それは小春のためのご飯じゃから、遠慮することはないぞ?」

「うん。なんかね……美味しいんだけど。私一人で食べても寂しいっていうか。今日ね、会社の先輩が言ってたんだよ。『誰かと食べるご飯が一番美味しい』って。それで、考えてみたら、昔すき焼き食べた時、おばあちゃんも似たようなこと言ってたなぁって」

「トメがかい?」


 私は頷く。


「『ご飯は家族みんなで食べるもんだよ』って、よく言ってた」


 すると満腹様は、それはそれは、何だか全てを包み込んでくれそうなほど、優しい笑みを浮かべた。


「……小春は、わしを家族だと思ってくれておるのかな?」

「うん。まだ一緒に過ごした時間は短いけどさ。なんか満腹様、本当のおじいちゃんみたいなんだもん」

「ほっほっほ、そう言ってくれたのは小春が初めてじゃのう」


 満腹様はごきげんな笑い声を上げた後、ゆっくりと対面に座った。


「それじゃあ、一緒に食べよう、小春」

「うん。いただきます」


 二人であーだこーだ言いながら食べるご飯は、何だかいつもと少し違った味がして。

 ご飯を家族で食べる大切さが、少しだけ分かった気がする夜だった。


 ○


「ふぅ、お腹いっぱい。もう食べられないや」


 食事を終え、パンパンになったお腹を叩きながら、私は座椅子に背中を預ける。

 満腹様はというと、食べ終わったお皿を台所で丁寧に洗ってくれていた。


「ねぇ、満腹様」

「なんじゃ? 小春」

「本当に、満腹様は一ヶ月過ぎたら本当にいなくなっちゃうの?」


 尋ねると、少しの間のあと、満腹様は「そうじゃよ」と泡だらけの手でお髭を触った。

 お髭に泡がついて、それに気づかない満腹様は何だか可愛らしい。

 ずっと居てほしいな、と切に思う。


「期間延長とかは、出来ないの?」

「わしは神様じゃからのう。神様にはいろんな人を導く役目があるんじゃよ。万人が、神様の導きを受ける資格を持つからの」

「そうか、そうだよね。私が独り占めにしたら、次の人が満腹様のご飯、食べられなくなるもんね……」


 一ヶ月経つと、満腹様は帰ってしまう。

 あと一つ、何か頼んでも満腹様は帰ってしまう。


 それなら唯一無二、これ以上ないってくらいの、どれだけお金を積んでも二度と食べられないようなものが良いのかもしれないけれど。

 そんなもの思い当たるわけがなかった。


 ◯


 満腹様と一緒に過ごせる時間が、残り一週間を切った。

 なるべく満腹様と一緒に過ごしたいのだけれど、社会はそれを許さない。

 朝イチで会社に行って、夜終電ギリギリで家に帰る生活は、相変わらずだ。

 忙殺されて、クタクタで、しんどかったけれど。


「満腹様、ご飯一緒に食べよう」


 二人でご飯を食べる習慣だけは、おろそかにしないようにした。


「小春や、疲れているなら、無理にご飯を作ろうとしなくても良いんじゃぞ?」

「いいの。私が一緒に食べたいんだ。満腹様と」


 それまでは、帰って食べるお惣菜とビールだけが楽しみだったのに。

 今は、満腹様と食べるご飯が楽しみで、疲れていても自炊するのが苦じゃなくなっていた。


 私は知ってしまったのだ。誰かと一緒に――満腹様と一緒に食べるご飯は、暖かくて、私を癒やしてくれるのだと。


 満腹様と過ごせるのは今だけ。この時間が過ぎ去れば、また私は一人になってしまう。

 だから、出来るだけ、満腹様と過ごせる時間を大切にしたいんだ。


 ご飯を食べながら、ふと思う。

 祖母はどうだったんだろう。

 祖父も死んで、家族との同居も断って。

 かつて定食屋だった古びた建物で、死ぬまで暮らしていた。


 寂しくなかったんだろうか。何を考えていたんだろう。

 私はそれが、分からないでいた。


 ◯


 流れるように時が過ぎた。

 満腹様が私の家に来てから、もうすぐ一ヶ月。

 明日には、私の元から去ってしまう。


「小春、最後のご飯は決まったかい?」


 いつもの穏やかな表情の満腹様に、私は静かに首を振る。

 そんな私を見て、満腹様は「そうか……」と髭を撫でた。


「でもいいんだ、私。満腹様と出来るだけ長く一緒に居たいから」

「ほっほっほ。どんな選択をしても良い。小春が後悔しなければな」

「うん。……じゃあ、満腹様、行ってくるね」

「行っておいで、小春」


 今日の仕事次第では、日を跨いでしまう。

 そうなったら、家に帰る頃にはもう、満腹様は居ないだろう。


「もっとちゃんとお別れしといたほうが良かったかな……」


 でも、これで良いのかもしれない。

 だって、この二週間、後悔しないように行動してきたじゃないか。


 覚悟を決めて出社した私だったが、その日の仕事は拍子抜けするほどすぐ終わった。


「みんなお疲れさま。今日はもう上がっていいよ」

「えっ?」


 私は時計を見る。いつもは三、四時間の残業が当たり前なのに、まだ定時だった。


「課長、本当にいいんですか?」

「あぁ、今日の案件はそれほど立て込んでないからね。たまには早く帰りなよ」

「あ……ありがとうございます。それじゃあ、お先に失礼します。お疲れさまでした」

「お疲れさまー」


 部署の皆に頭を下げ、逃げるように会社を後にする。

 まだ陽が昇っている間に電車に揺られ、家路につくのが久しぶりで、何だか信じられなかった。

 電車の窓から見える夕陽は美しく煌めいており、私を労ってくれているような気さえする。


「龍神様とご飯が食べられる……」


 今日が、龍神様と一緒にいられる最後の日。

 何を食べようか。


 お鍋でもいいし、奮発して焼き肉でもいい。いつも通りの和食も悪くない。

 駅前のスーパーに寄ろうか、精肉店で高級肉を買ってしまうか。


 色々考えを巡らせていて、ふと、祖母のことが頭に浮かんだ。


 祖母は最後に、龍神様に何をお願いしたんだろう。

 最後となると、きっと一番食べたかったものを選ぶに違いない。


 だって祖母は、いつも好きなものを最後に食べる人だったから。


 タイミングを見計らったように、電車が最寄り駅に止まった。

 改札を抜け、家へと向かう。

 最初はゆっくり歩いていたのが、徐々に早足になり、やがて駆け足になった

 エレベーターが待ちきれず、階段を段飛ばしで上がり、慌てて玄関のドアを開く。


「た……ただいま!」

「どうしたんじゃ小春。今日はずいぶん早いのぅ」

「満腹……様……私、決めた」

「うん?」

「最後のご飯、決めたよ……」


 私は、知らないとダメだと思った。

 祖母が何を満腹様に望んだのかを。

 祖母が最後に食べたものは、きっと祖母にとって特別な代物だったはずだ。

 だから。


「おばあちゃんが最後に龍神様にお願いしたご飯を出してほしい」


 ○


「それじゃあ小春、準備は良いかい?」

「うん、お願いします、龍神様」

「ほっほっほ、その願い聞き届けたり」


 龍神様が机の上に手をかざすと、まばゆい光が部屋中に広がった。

 すると、どこか懐かしい香りがしてくる。

 香ばしい、揚げ物をした時の独特の香り。

 私が恐る恐る目を開くと。


 机の上にあったのは――コロッケだった。


 意外な品物に、私は思わず目を丸くする。

 一見して、何の変哲もない普通のコロッケだ。変わっているのは形くらい。

 惣菜店やスーパーで売られているコロッケは平べったい印象だが、このコロッケは少し違う。いかにも手料理という感じの、少し分厚い楕円形をしたコロッケ。


「これが、おばあちゃんの選んだ最後のご飯?」

「食べてごらん、小春」

「う、うん……いただきます」


 私は恐る恐る、コロッケを口へと運ぶ。

 一口かじると、サクッと心地よい音がして、口の中にコロッケの味が広がった。

 刹那、私は気づく。

 酷く懐かしい、優しくて、他のお店では食べたことのないような濃厚な味。


「おじいちゃんのコロッケだ……」


 それは、かつて定食屋をしていたころ、祖父が自分に作ってくれたコロッケの味だった。

 子供の頃、両親が仕事で忙しかった時、祖父母と一緒に食べた味。

 覚えてる。小学生のころ、私の絵が地域のコンクールで金賞を獲ったからって、ご褒美にコロッケを食べさせてくれたことを。


 自分の絵を見て、誰かが喜んでくれるのが嬉しくて。

 だから私は、絵に夢中になったんだ。


 あぁ……そうだった。

 私、いつから夢を忘れてしまっていたんだろう。

 あんなに大切な思い出だったのに。

 もっともっと沢山の人に喜んでもらいたい。ただそれだけだったのに。


 気がついたら、私はコロッケを食べながら涙を流していた。

 サクッとしていて、ジャガイモはホクホクで、お肉と玉ねぎの食感もしっかりマッチしていて、ひとくち口にするごとに次が食べたくなって。

 たぶん一生忘れない、大切なコロッケの味だ。


「美味しいかい? 小春」

「うん……おいしい。おいしいよ……」


 ポロポロと、心の疲れや、溜まっていた感情のおりが流れ出るように、瞳から溢れた涙は留まること無くこぼれ落ちた。


 ◯


「不思議だったなぁ」

「何がじゃ?」


 コロッケを食べ終わった私を見て、満腹様は首を傾げる。


「このコロッケ、オーソドックスな玉ねぎと合いびき肉のコロッケだよね。普通のスーパーに置いているのと変わらない具材なのに、なんでこんなに美味しいんだろ。全然味が違うっていうか」

「ゆで卵とマヨネーズが入っとるんじゃよ」

「ゆで卵とマヨネーズ……?」


 予想外だった。


「ほっほっほ、面白い味付けじゃろう? 夫の作る料理の中で、トメは一番このコロッケが好きじゃった。このコロッケを食べた時、トメはいつ死んでも良いと言っておった。でも、それから十年以上……長生きしたのう」

「それはたぶん……おじいちゃんの味を思い出したからだよ」


 祖母の家に行った時、冷蔵庫に沢山の食材が入っていたのを覚えている。老婆の一人暮らしにしては、ずいぶん色んな種類の調味料や食材が存在していた。どの食材もまだ新しくて、定期的に料理をしていたのが見て取れた。

 きっと祖母は、このコロッケを食べて、祖父の味を再現することにしたんじゃないだろうか。

 食堂をやっていた頃の味を、毎日再現していた。それが、祖母の生きる理由になった。食べることが、祖母の命を繋いでくれていた。


 祖母の晩年は、きっと幸せだった。


 ○


 こうして、私は最後のお願いを満腹様に捧げた。

 三つの願いを叶えた満腹様は、間もなく水晶に帰らねばならない。


「満腹様、本当にありがとうね。一緒に過ごしたこと、多分一生忘れない。水のお供えと、お祈りも、欠かさないから安心してよ」

「ほっほっほ、ありがとう、小春。お前さんと別れるのは、ちと寂しいのう」

「ねぇ、本当にもう会うことはないの? またどこかで出会ったりとか……」


 しかし満腹様は、ハッキリと首を振った。

 いつもは私の言う事を否定しない満腹様が、明確にハッキリと。


「二度と会う事はない。それが決まりじゃ。その水晶も、いずれ時が来れば、小春の手から別の人に渡るじゃろう」

「心配だなぁ。割れちゃったりしない?」

「大丈夫じゃ。水晶はまた持つべき人の元にゆく。割れることもない。そう言うふうに出来ている」

「そうなんだ」

「じゃあのう、小春。お前さんと過ごした一ヶ月、実に楽しかったぞ」

「うん。……ねぇ満腹様。最後に一回だけ、抱きしめても良い?」

「ほっほ、構わんよ」


 抱きしめた満腹様は、両手で優しく私を包んでくれる。

 まるで本当のおじいちゃんみたいに、優しい包容だった。

 満腹様の温度を感じた、次の瞬間。

 大きな光が部屋に満ち、私の前から満腹様の姿は消えた。


「ありがとね、満腹様」


 残った水晶に、私は静かに声を掛けた。


 ○


 それから数ヶ月語。

 私は仕事を辞めた。

 正直、辞めることに迷いはあったし、後悔するかもしれないとも思った。

 でも、もう何もしないで諦めてしまうのは、嫌だったんだ。


「ただいま」


 買い物から帰って来ても、もう「おかえり」を言ってくれる人はいない。

 それでも良いと、そう思う。

 私は、満腹様から大切なものを沢山もらったから。


「あとで水、足しといてあげるからね」


 水晶に備えられたグラスの水が減るのを見て、私は微笑む。



 パソコンに接続したペンタブレットに向かい、私は腕まくりをする。

 やる気はバッチリだ。


「じゃあ作品作りから始めるかぁ。とは言え、何を描くべきかなぁ」


 イラストレーターとして活動するには作品がないと話にならない。

 まずは、私の原点――誰かに喜んでもらえるイラスト作りから始めたいのだが……。

 何を描けば良いのだろうか。

 何事も作品作りにはモチーフが必要だ。

 画期的なモチーフはないだろうか。


「そうだっ!」


 私のすぐそばには、最も最適なモデルが居たじゃないか。

 私はウキウキしながら、ペンを走らせた。


 この時描いた『満腹龍神様』と名付けたキャラクターイラストが、後にネットで爆発的な人気を集め、私は某大手企業の専属イラストレーターになるわけだが。

 それはまた、別の話。



 ――了

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