感情のない国
ノクレム国では、国民が感情を表に出すことが法律で禁止されている。笑ったり泣いたりすることははしたないことであり、感情は心の中に秘めておくことこそが美徳であるとされていた。人々が感情を出していないかを見張る警察も存在し、定期的に国中の街をパトロールしている。
そんな環境の中でペルという男は異端児であった。彼は子供の頃からどうやっても自分の感情を殺すことができず、よく笑いよく泣いた。そのため国からは危険人物として指名手配されていた。警察も彼の逮捕を目指していたが、彼は捕まる前に逃亡して姿をくらましていた。
しかし彼は国外へ逃げることはしなかった。この国の人たちに感情を与えようと、警察から姿を隠しながらさまざまな街に姿を現しては、人々の前に現れてふざけて笑いをとることを繰り返した。
国民の中でもペルを人間として最低だという者もいた。この国では彼のような生き方をすることは許されないし、法律的にも倫理的にも間違っているのである。そのような教育を受けて、それを正しいと信じてきた人たちからすれば、彼のような男は受け入れがたかった。
しかし一方で、こっそりと彼のことを応援する人たちもいた。普段の鬱屈しても吐き出せない感情を彼は満たしてくれるのだ。それでもそういう人々でさえ、彼を全面的に支持することは憚られた。あくまで彼は犯罪者であり、国に追われている男なのだ。
ある日の昼過ぎ、チャヅヤという街にペルが訪れた。彼は人々の前に姿を現すや、奇声をあげて踊りを始めた。その奇妙な光景を前に、人々はつい真面目な顔を崩さずにはいられなかった。
そんな人々の中にいた少年のライトもまた、ペルという人間を前に魅力を感じずにはいられなかった。しかし彼に近づくことはできない。誰もが彼と関係を持とうとはしなかった。
その後ペルはいつものように姿を消した。その日の夕方のことである。警察がチャヅヤに現れ、そのうちの1人の男が住民たちに告げた。
「ここに昼間、ペルが現れたという情報があった。そのためこの街は警察により完全に包囲してある。やつを逃がしはしない。もしやつを見かけた者があればすぐに通報するように。もし匿おうという者があればそいつも同罪とする」
その日の夜、両親が出かけていたため、ライトは家で1人で留守番をしていた。すると庭の方でかすかな物音がしたのが分かった。恐る恐る庭の方に目をやると、そこには疲れ果てた顔でこちらを見る男がいた。それは昼間に街で奇声をあげて踊っていたペルその人であった。
「まだこの街にいたの?この街にはもう逃げ場はないよ」
「分かっているさ。だから警察が去るのを待っているんだ。しばらく見つからなければ、やつらも俺が街を出たと思って諦めるに違いない。だからほんのしばらくでいいんだ。俺をここで匿ってくれないだろうか?」
「分かったよ。母さんと父さんが帰ったらちゃんと話してみる」
「ありがとうよ。恩に着る」
と言ってペルは深々と頭を下げた。
やがてライトの両親が家に帰って来た。そしてライトが事情を話してペルを匿うことが決まった。
「そんな暗い顔をするなよ」
部屋の隅で1人塞ぎ込むライトにペルは声をかけた。
「どうしてそんな風にいられるの?この国では感情を出してはいけないのに」
「どうしていけないんだ?」
「それが決まりだからさ。間違ってるって思ってるのかもしれないけど、それに従わないとこの国では無事ではいられない。そんなこと分かってるだろ?」
「そうだな。でも感情を出さずに生きていけなんて到底できない相談だよ。そんなのは生きていないのと一緒さ」
「じゃあこの国から抜け出せばいいじゃないか?どうしてこの国にいることにこだわるの?」
「俺はなこの国の人たちに素直になってほしいんだよ。みんな大笑いして大泣きして過ごしていたいはずじゃないか。でもこうしてお前たちにも迷惑をかけていると思うと、たしかに俺はこの国にいるべきではないのかもしれないな」
それに対してライトは何も返すことができなかった。たしかに人間は笑いたければ笑うし泣きたければ泣く、それは自然の摂理である。しかしこの国の常識はそれとは逆である。誰しもがわが身を危うくするようなことはしない。だが果たして狂っているのはどちらなのだろうか。
次の日の朝早くだった。
「全員大人しくしろ」
と言って、ライトの家の中に警官隊が数名押し寄せた。
「ここにペルがいるはずだ。黙って差し出せ」
「知らないよ。ここにいるはずがないだろ?」
ライトは反論した。なぜ彼らにそのことがばれているのだろうか。それとも彼らは1軒ずつこのように虱潰しで探しているのかもしれない。それならばまた救いはある。だがその時、ライトの父が
「ライト、黙っていなさい。この奥にペルはいます」
と言ったことでもはや成す術がなくなった。
ペルは引っ捕らえられて連れて行かれた。それはたった一瞬の出来事であった。
ライトを静止した父は何事もなかったかのような顔で虚空を眺めている。だがライトには分かっていた。彼が昨日の夜のうちに警察に通報したに違いない。
「どうしてペルのことを売ったんだ?ここで匿っていれば逃がせられたはずだ」
「私はこの家の主として災難を持ち込むわけにはいかないのだ。やつを匿えば我らの身が危ない」
「人でなしだよ、父さんは。ただの意気地無しだ」
「いい加減にしろ。そんなに取り乱すんじゃない。どこで誰が聞いているか分からないんだ」
ライトはもはやこの父と話すのが嫌になった。何もかもが間違っている。この国は狂っている。みんな騙されている、そう思うと居ても立ってもいられなくなり、彼は目的もなく外へと駆け出した。
ペルの裁判は国民へと公開され、彼に対して反論の機会も与えられずに死刑となった。それは感情をむき出しにして生きようとする人間に対しての見せしめであった。
ペルは殺される直前、銃を構える警察たちの前で大笑いしてみせた。彼らは人間がこれほどまでに笑顔を見せて声を上げている様を見たのは初めてのことであった。この国で生きている限り、人間のそのような光景を見ることはできないのである。
彼の死は国中の人々の心を突き動かした。人々はこの国の狂気に気づき、武器を手にとって政府に反乱を起こした。感情を抑えられていた人々がそのような動きを見せるのは初めてのことだったが、ぺルの死がその引き金を引いたのである。
反乱軍はやがてライトたちのいるチャヅヤの街の近くまで押し寄せた。政府からは反乱軍を迎え撃つことを命令されており、街の人々は集まって今後の方針を話し合った。
反乱軍とともに戦おうという者はほとんどおらず、兵力の多い政府に従うべきだという意見が圧倒的多数であった。それに異を唱えたのがライトである。
「いつまで政府の奴らに従うんだ?今に国中で反乱の狼煙が上がる。その勢いに乗るべきだ」
それに対して誰も何も答えようとしなかった。感情を抑えつけられて生きてきた彼らは、黙り込むことに慣れてしまっている。いわばそれがこの国の政府の狙いであった。国民が感情を持たなければ自分たちに逆らう意思を持つことも、それを言葉により共有することもない。
「みんなは奴隷だ。この国の奴隷だよ。そうやっていつまでも黙り込んで頭を下げて生きていけばいい。自分の意思なんて持つことなく、そしてそのまま死んでいけばいいんだ」
ライトがそう叫んでも同調する者はなく、誰もが下を向いて俯いていた。
その時、ライトの父が口を開いた。
「皆さん、私は自分の保身のためにペルという男を政府に売ってしまった。彼を殺したのはこの私です。この国の本当にあるべき姿を知っていたのは彼だけだった。私は本当に愚かなことをしました。もうこんな日々は懲り懲りです。ペルを慕う人々が国中で立ち上がりつつある。きっと政府は倒れます。この機に乗じない手はありません」
そう言って彼は深々と頭を下げた。
この親子の言動に人々は心を動かされたのか、一人ずつ立ち上がって2人への追随を誓い始めた。やがてそれはその場にいた全ての人の共通の結論となった。
その日の晩、チャヅヤの人々は街にある政府の役所を占領した。そして次の日には反乱軍と合流し、首都へと向けて進軍した。やがて国中のさまざまな街で反乱軍が蜂起し、政府はあっけなく崩壊した。反乱は成功したのである。
政府が倒れた夜から未明にかけて、国中の人々は宴を開いた。大声で叫んだり笑ったりして感情を共有し合った。それは人々が長きにわたって密かに抱き続けた夢であった。
チャヅヤの街ではそんな光景を、ライトの親子が眺めていた。
「父さん、これでペルも報われるね」
「ああ、だがこれだけでは彼への償いにはならない。彼にこの景色を見させてあげられなかった。それは私のせいだ」
ライトの父の目からは涙が流れていた。
空は少しずつ白みがかかってきた。光が差し込み始めて、道がぼんやりと照らされ始めている。




