第二十八話 契約の更新
50万の魂が眠る「脳の聖域」を後にしたアビスとリディアは、静寂に包まれた通路を戻り、再びマジンZの残骸が横たわる地下ドームへと帰還していた。 ドーム内には、まだ焦げ臭い匂いが漂っている。
だが、殺気は消えていた。
都市管理AIアーカーシャとの「停戦」が成立した今、敵意を持って襲いかかってくるロボット兵はもういない。
あるのは、戦いの終わりを告げる静けさと、天井の照明装置が放つ無機質な光だけだ。
「……終わりましたね」
リディアが、ふぅーっと長く息を吐きながら、その場に座り込んだ。
緊張の糸が切れた途端、蓄積していた疲労が一気に押し寄せてきたようだ。
彼女はリュックを下ろし、その中から砕け散った「黒い聖剣」の柄を取り出した。
刀身を失い、ただの黒い棒きれと化したかつての相棒。
それを撫でるリディアの瞳には、寂しげな色が浮かんでいた。
「ごめんね……。私の力が足りなかったから……」
リディアが謝罪の言葉を紡ぐ。
だが、その横に立っていたアビスは、興味なさそうに鼻を鳴らした。
「感傷に浸るな。形あるものはいずれ壊れる。それが道具の宿命だ」
「道具だなんて言わないでください! ……この子は、アビスさんと私を繋いでくれていた、大切な……」
言いかけて、リディアはハッとして口をつぐんだ。
そして、恐る恐るアビスを見上げた。
今、アビスは「魔人」の姿をしている。
漆黒のロングコート、銀色の長髪、そして深紅の瞳。
戦闘が終わり、静寂が戻っても、アビスは魔人の姿のまま佇んでいた。
その背中には、以前のような「いつ犬に戻されるか」という緊張感も、呪いによる強制力に怯える様子も微塵もない。
リディアは、手の中にある砕け散った「黒い聖剣」の柄を強く握りしめた。
この剣は、彼を縛る鎖であり、彼を「ハウス」の一言で犬の姿に変えるための唯一の鍵だった。
それが失われた今、彼を縛る術は何もない。
もう二度と、彼をあの愛らしい姿に戻すことはできないのだ。
「……アビスさん」
「なんだ」
「戻らないん、ですね。……ワンちゃんに」
リディアの声が震える。
それは、アビスが真の自由を取り戻したことへの祝福と、自分を繋ぎ止めていた「首輪」がなくなったことで彼がどこかへ行ってしまうのではないかという大きな不安が入り混じった声だった。
アビスは無言で、自分の手を見つめた。
握りしめ、開く。
指先まで満ちる魔力。
以前のように「時間制限」に怯える必要もなければ、「ハウス!」の一言で無力化される屈辱もない。
魂の奥底に刻まれていた、あの忌々しい鎖の感触が消え失せている。
「……ああ。鎖は切れた」
アビスは、ドームの空気を震わせる低い声で言った。
その言葉の意味を理解した瞬間、リディアの顔から血の気が引いた。
呪いが解けた。
それはつまり、アビスを縛るものが何一つなくなったことを意味する。
彼がその気になれば、今ここでリディアを殺すことも、地上に出て人類を滅ぼすことも、誰にも止めることはできないのだ。
「ひっ……」
リディアが思わず身をすくませる。
その反応を見て、アビスの口元が三日月形に歪んだ。
ゾクリとするような、冷酷で美しい魔人の笑み。
「どうした、リディア。急に怯えだして」
アビスが一歩、リディアに近づく。
カツーン……。
硬質な足音が、リディアの心臓を直接叩くように響く。
「わ、私は……」
「貴様も理解したようだな。……俺様は自由だ」
アビスが、座り込むリディアの前に立ち、見下ろす。
圧倒的な威圧感。
それは、これまで「ペット」として一緒にいた時とは全く違う、捕食者としてのオーラだった。
「あの忌々しい剣は壊れた。貴様との主従契約も、これでおしまいだ」
アビスの手が、ゆっくりとリディアの方へ伸びる。
その指先には、黒い魔力の火花が散っていた。
「さあ、どうする? 命乞いでもしてみるか? それとも、その白い聖剣で俺様と殺し合うか?」
試すような問いかけ。
リディアは、震える手で白い聖剣の柄を握りしめた。
だが、すぐにその手を離した。
「……戦いません」
「ほう? 死ぬ気か?」
「違います。……アビスさんは、私を殺しません」
リディアは、真っ直ぐにアビスを見上げて言った。
恐怖で涙目になりながらも、その瞳だけは揺るがない。
「なんでそう言い切れる? 俺様は魔人だぞ。破壊と混沌を愛する悪の権化だ」
「だって……アビスさんは、私の相棒ですから」
リディアの言葉に、アビスの眉がピクリと動く。
「それに、さっきのマジンZとの戦いも、ロボット兵のところでも……アビスさんは、私を守ってくれました。本当に悪い人なら、あんなことしません」
「……チッ。買い被りすぎだ」
アビスは舌打ちをして、伸ばした手を引っ込めた。
そして、リディアの隣にドカッと腰を下ろした。
魔人と勇者が、瓦礫の上で並んで座る。
奇妙な構図だ。
「……正直に言えばな」
アビスが、天井を見上げながら独り言のように話し始めた。
「俺様自身、驚いているんだ」
「え?」
「呪いが解ければ、すぐにでも破壊衝動が暴走するかと思っていた。……かつて俺様が『災厄』と呼ばれたようにな」
千年前のアビスは、力の塊だった。
溢れ出る魔力を制御できず、ただ本能のままに破壊を撒き散らすだけの災害。
だからこそ、古代の勇者は彼を封印し、呪いという枷で縛るしかなかったのだ。
「だが、今は違う。……静かだ」
アビスは自分の胸に手を当てた。
そこにあるのは、燃え盛る破壊の炎ではない。
静謐で、しかし力強い、制御された魔力の鼓動だ。
「力が暴走しない。殺意が湧かない。……まるで、誰かが手綱を握っているようにな」
「手綱……ですか?」
「ああ。だが、それはあの黒い剣のような強制的な鎖じゃない。……もっと、内側にあるものだ」
アビスは横目でリディアを見た。
この無鉄砲で、お人好しで、世話の焼ける勇者の少女。
彼女と過ごした日々が、脳裏をよぎる。
無理やり散歩に連れ出された朝。
下手くそな手作り料理を食わされた夜。
強敵を前に、背中を預けて戦った瞬間。
そして、犬の姿の自分を、人間と同じように扱い、心を通わせてくれた温もり。
それらの記憶が、アビスの中に、かつては存在しなかった「何か」を形作っていた。
それは、「感情」であり、「理性」であり、人間が「心」と呼ぶものに近い何かだった。
(……フン。まさかこの俺様が、人間ごときに飼いならされるとはな)
アビスは自嘲気味に笑った。
だが、それは決して不快な感覚ではなかった。
自分の力を、自分の意志で完全にコントロールできているという全能感。
今の自分なら、世界を滅ぼすことも、救うことも、思いのままに選べる。
それが、「本当の自由」ということなのかもしれない。
「……リディア」
アビスが名を呼ぶ。
「は、はい!」
「勘違いするなよ。俺様はもう、貴様のペットではない」
アビスは立ち上がり、コートを翻してリディアに向き直った。
その態度は尊大で、傲慢そのものだ。
「俺様は魔人アビス。この世の全ての魔の頂点に立つ絶対強者だ。人間に指図される覚えもなければ、首輪をつけられるつもりもない」
「……はい」
リディアが俯く。
やっぱり、お別れなのだろうか。
自由になったアビスは、どこか遠くへ行ってしまうのだろうか。
寂しさがこみ上げてくる。
「だが」
アビスが言葉を継ぐ。
リディアが顔を上げる。
そこには、悪戯っ子のようにニヤリと笑う魔人の顔があった。
「俺様一人で世界を巡るのも、いささか退屈でな。……それに、俺様の荷物を持つ下僕や、退屈しのぎの話し相手が必要だ」
アビスはそこで言葉を切り、少しバツが悪そうに視線を逸らした。
「……それに、貴様のあの殺人的な味の料理も、毎日食わされているうちに、どうやら俺様の胃袋の方が順応してしまったらしい。……責任を取ってもらおうか」
「え……?」
リディアが瞬きをする。
それは、「料理が美味しい」という褒め言葉では決してない。
むしろ「毒に慣らされた」という文句に近い。
けれど、それはアビスなりの、「これからも貴様の作った飯を食ってやる」という最大のデレでもあった。
「特別に許可してやる。……リディア・クレセント。貴様を、俺様の『相棒』として再契約してやろう」
「相棒……!」
リディアの瞳が輝く。
「ただし! 条件があるぞ」
アビスが人差し指を立てる。
「一つ、飯は一日三食、お前が用意しろ。不味くてもいいが、量は減らすな。二つ、金が必要な時はお前が支払え。俺様は『金』なんて庶民的なものは持っていないからな。三つ、俺様に『お手」とか『お座り』とかの屈辱的な命令はするな。……いいな?」
それは、あまりにも人間臭く、そしてアビスらしい条件だった。
リディアは、こみ上げてくる嬉しさを抑えきれず、立ち上がってアビスに飛びついた。
「はい! 喜んで! よろしくお願いします、アビスさん!」
リディアがアビスの首に抱きつく。
勢い余って、二人して瓦礫の上に転がりそうになる。
「おい! 離れろ! 俺様の高貴なコートが汚れるだろうが!」
「えへへ、嬉しいです! アビスさんがいなくなっちゃうかと思って、ドキドキしました!」
「チッ……。泣くな、鼻水をつけるな!」
アビスは文句を言いながらも、リディアを引き剥がそうとはしなかった。
その手は、躊躇いながらも、そっとリディアの背中に回された。
ポン、ポン。
不器用な慰め。
かつては「呪い」で繋がれていた主従関係。
今は、互いの意志で結ばれた対等な契約。
「黒い聖剣」は失われたが、その代わりにもっと強固な絆が、ここに生まれたのだ。
「……さて。いつまで抱きついている気だ」
しばらくして、アビスが呆れたように言った。
「そろそろ行くぞ。こんな地下の空気は体に悪い」
「あっ、はい! すみません!」
リディアは慌てて離れ、涙を拭いて笑顔を作った。
「行きましょう、アビスさん! 地上に戻ったら、お祝いのご馳走ですね!」
「フン。期待せずに待っていてやる」
アビスが歩き出す。
リディアがその隣に並ぶ。
身長差は頭一つ分。
歩幅も違う。
だが、二人の歩調は不思議と合っていた。
地下ドームの出口へ向かう道中、リディアがふと思い出したように尋ねた。
「あの、アビスさん。一つ疑問があるんですけど」
「なんだ」
「アビスさんはもう自由なんですよね? 魔法も使い放題なんですよね?」
「当然だ」
「じゃあ……移動する時、わざわざ歩かなくても、魔法でビューンって飛べたりしないんですか?」
アビスの足が止まった。
彼はバツが悪そうに視線を逸らし、咳払いをした。
「……飛べるには飛べるが」
「が?」
「……俺様一人ならな。貴様みたいな重い荷物を抱えて飛ぶのは、美学に反する」
「むぅっ! 私そんなに重くないです!」
「うるさい。黙って歩け。……それとも何か? 俺様の背中に乗りたいとでも言うのか?」
アビスが意地悪くニヤリと笑う。
リディアは頬を膨らませた。
「乗りませんよ! ……でも、アビスさんがワンちゃんの時は、私が背負ってあげてたじゃないですか」
「あのな。それとこれとは話が別だ」
「えー、ケチですー」
「誰がケチだ、誰が」
いつもの口喧嘩。
だが、その声色は以前よりもずっと明るく、弾んでいる。
二人の背中が、地下通路の闇の向こうへ遠ざかっていく。
魔人と勇者。
世界で最も相容れないはずの二人が、今、最強の「相棒」として、新たな旅路への一歩を踏み出したのだった。




