第二十七話 アーカーシャ
マジンZの巨大な残骸を背に、アビスとリディアは、ドームの奥に開かれた通路を進んでいた。
先ほどまでの戦闘の熱気とは裏腹に、その通路は凍えるように冷たかった。
壁も床も、継ぎ目のない白い樹脂のような素材で覆われている。
足音すら吸い込まれる静寂。 空気は無臭で、湿度も一定に保たれているようだが、どこか生物的な生々しさを欠いた、作り物めいた清浄さが漂っていた。
「……なんか、お墓みたいですね」
リディアが、身を縮こまらせながら呟いた。
彼女の動物的な勘が、この先に待つ「何か」に対して、生理的な拒否反応を示しているのだ。
「フン。当たらずとも遠からず、といったところか」
アビスは前を見据えたまま、低い声で応じた。
彼の魔眼は、この壁の向こう側にある異質な魔力――いや、生命エネルギーの揺らぎを既に捉えていた。
それは、一個の強大な個体ではない。
無数の、数え切れないほどの微弱な魂が、一つの意思のように蠢いている感覚。
不愉快な感覚だ。
個を捨て、群れに埋没した軟弱な魂の集合体。
「来るぞ、リディア。……心して見ろ。これが、魔法を捨てた愚か者どもの成れの果てだ」
通路の突き当たり。
装飾の一切ない、巨大なガラス質の扉が、二人の接近に合わせて音もなく左右にスライドした。
プシュゥゥゥ……。
扉の向こうから、冷気と共に、青白い光が溢れ出した。
二人は、その光の中へと足を踏み入れた。
「――っ!?」
その光景を目にした瞬間、リディアは息を呑み、言葉を失った。
そこは、広大な円筒形のホールだった。
天井は遥か高く、ドーム状になっている。
そして、その広い空間を埋め尽くすように、無数の「柱」が林立していた。
太さ一メートルほどの透明な円柱形カプセル。
淡いブルーの溶液で満たされたそのカプセルが、何千、何万本と規則正しく並んでいる。
まるで、巨大な図書館の書架のように。
あるいは、墓標のように。
だが、リディアを戦慄させたのは、カプセルの数でも、美しくも不気味な青い照明でもない。
カプセルの中身だ。
透明な溶液の中に、プカプカと浮かんでいる「それ」。
無数のコードや電極を繋がれ、微かに脈打っている、灰色の塊。
「これ……って……」
「脳だ」
アビスが、事も無げに言い放った。
「人間の、な」
リディアは思わず口元を押さえた。
見渡す限りのカプセル。
その全てに、人間の脳が入っている。
それらが、ただ静かに、培養液の中で眠っている。
『――ようこそ。我々の聖域へ』
声が響いた。
これまでのスピーカー越しの音声ではない。
脳の中に直接響いてくるような、重層的な声。
男の声、女の声、老人の声、子供の声。
数千、数万の声を重ね合わせ、一つの意志として統合したような響き。
「あなたが……アーカーシャ、ですか?」
リディアが、震える声で虚空に問いかける。
『左様。私はアーカーシャ。この都市管理システムの名称であり、同時に、ここに眠る50万人の市民の総称でもあります』
カプセルの列が一斉に明滅した。
まるで、言葉に合わせて呼吸しているかのように。
『かつて、我々は恐怖していました。限りある資源、終わらない争い、そして制御不能な「魔法」という力の暴走に。……肉体があるから、痛みがある。個があるから、争いが生まれる。ならば、全てを捨てて一つになればいい』
アーカーシャの声が、淡々と歴史を語る。
『我々は肉体を捨て、脳を保存し、意識をネットワークで統合しました。ここでは飢えも、病も、孤独もありません。全ての知識を共有し、全ての感情を平均化し、永遠の安らぎの中で「正解」だけを導き出す。……これこそが、科学が到達した究極の平和。人類の進化の最終形です』
「進化、だと……?」
アビスが、低い、地を這うような声で唸った。
彼はカプセルの一つに近づき、ガラス越しに中の脳を睨みつけた。
その深紅の瞳には、かつてないほどの嫌悪と軽蔑の色が浮かんでいた。
「笑わせるな。これが平和? これが進化だと?」
アビスが振り返り、両手を広げてホール全体を指し示した。
「ただの標本じゃねえか。痛みがない? 当たり前だ、死んでいるのと同じなんだからな。争いがない? 結構なことだ。だが、そこには勝利の快感も、敗北の屈辱もねえ。……そんなものは『生』とは呼ばん。ただのデータの集積だ」
魔人は、個の頂点に立つ存在だ。
欲望のままに生き、力で全てをねじ伏せ、己の存在を世界に刻みつける。
彼にとって、個性を捨てて均一化されたこの光景は、生理的に最も受け入れがたい「醜悪」そのものだった。
『……理解不能。貴方のような野蛮な魔導生物には、この高潔な精神の統合は理解できないでしょう。個への執着こそが、争いの火種なのです』
「ああ、分からねえな。分かりたくもねえ」
アビスの掌に、漆黒の炎が灯った。
ゆらりと揺れるその炎は、見ているだけで魂が吸い込まれそうなほど深い闇色をしている。
「貴様らの言う『平和』とやらは、俺様にとってはヘドが出るほど退屈なんだよ。……安心しろ。その永遠の安らぎごと、灰にしてやる」
アビスの殺気が膨れ上がる。
本気だ。
彼は、この施設の、いや、ここに眠る50万人の脳全てを焼き払うつもりだ。
彼にとって、これらはもはや人間ではない。
ただの不快な「部品」でしかない。
「消えろ、ヘル・フレ――」
アビスが炎を放とうとした、その瞬間。
「ダメですッ!」
アビスの前に、リディアが立ちはだかった。
両手を広げ、魔人の視界を遮るように。
「……あ?」
アビスの手が止まる。
彼は不機嫌そうに目を細め、眼下の少女を睨み下ろした。
「どけ、リディア。こいつらは敵だぞ。俺たちを殺そうとした。それに、こんな醜いガラクタども、生かしておいても世界のためにならん」
「それでも、ダメです!」
リディアは引かなかった。
彼女は、背後のカプセル群を一瞥し、そして真っ直ぐにアビスを見上げた。
「彼らは敵でした。私だって、殺されかけました。……でも、この人たちは、今はもう戦えません。武器も持ってないし、抵抗もしてない。……ただ、そこにいるだけです」
「それがどうした。無抵抗なら殺しやすい。それだけのことだ」
「違います! ……無抵抗な相手を一方的に殺すのは、戦いじゃありません! ただの虐殺です!」
リディアが叫ぶ。
「それに……アーカーシャさんは言いました。『我々』って。……形は変わってしまったけど、このカプセルの一つ一つに、かつて生きていた人たちの心が、記憶が残ってるんです。……まだ、生きてるんです!」
「生きてる? これがか?」
アビスは鼻で笑った。
「管に繋がれて、水に浮いて、夢を見てるだけの肉塊が、生きていると言えるのか?」
「言えます!」
リディアは即答した。
「心があるなら、それは『人』です。アビスさんが犬の姿になってもアビスさんなのと同じように……姿が変わっても、命の重さは変わりません!」
「……っ」
アビスが言葉に詰まる。
犬の姿。
それを引き合いに出されるのは、彼にとって痛いところだった。
確かに、姿が変わっても魂は変わらなかった。
『……勇者リディア。貴方の主張は非論理的です』
アーカーシャの声が割って入る。
『我々は敵対存在です。貴方たちを排除しようとしました。論理的に考えれば、貴方たちが我々を破壊し、将来の憂いを断つのが最適解なはず。……なぜ、庇うのです?』
リディアは、アーカーシャに向かって答えた。
「論理とか、計算とか、そんなの知りません。……ただ、私は勇者だから。目の前で、誰も傷つけさせたくないだけです。それが例え、敵だった人でも!」
青臭い、子供の理屈。
綺麗事だ。
戦場では真っ先に死ぬタイプの思考だ。
だが、その真っ直ぐすぎる瞳には、一点の曇りもなかった。
アビスは、その瞳を知っている。
どんな絶望的な状況でも、自分を信じ、共に戦い抜いてくれた、相棒の瞳だ。
数秒の沈黙。
アビスとリディアの視線が交錯する。
殺意と、意志。
魔と、聖。
やがて、アビスは深く溜息をついた。
「……はぁ。心底、呆れた女だ」
アビスの手から、漆黒の炎が霧散して消えた。
「アビスさん……?」
「勘違いするなよ。俺様は別に、こいつらを認めたわけじゃない。……ただ」
アビスはコートの襟を直し、そっぽを向いた。「俺様の相棒が、そこまで言うなら……その顔を立ててやるのも、魔人の度量というものだ」
それは、アビスなりの最大の譲歩だった。
かつての彼なら、邪魔する者は味方ごと焼き払っていただろう。
だが、今の彼は違う。
リディアとの旅が、犬としての生活が、そして「相棒」としての絆が、彼の中に微かな――しかし確実な変化をもたらしていた。
「……ありがとうございます、アビスさん!」
リディアの顔がパァッと輝く。
「フン。礼には及ばん。……その代わり、今日の晩飯は豪華にしろよ。あと、肩も揉め。全力でな」
「はい! お任せください!」
アビスは、再びカプセル群に向き直った。
殺意は消えているが、その瞳にある冷ややかさは変わらない。
「聞いたか、アーカーシャ。……このお人好しの勇者に感謝するんだな。本来なら、今頃貴様らは灰になっていたところだ」
『……理解不能。……論理的矛盾。……しかし』
アーカーシャの声に、初めて感情のような揺らぎが混じった。
それは、困惑か、それとも――安堵か。
『現在の状況を、「停戦」として処理します。勇者リディア、魔人アビス。貴方たちの行動データは、我々の予測演算モデルには存在しないものでした』
「予測できたら、面白くねえだろうが」
アビスはニヤリと笑った。
「未来ってのは、計算で弾き出すもんじゃない。……俺様たちが、力ずくで切り拓くもんだ」
『……記録しました。貴方たちの旅路に、興味深いデータが得られることを期待します』
カプセル群の照明が、ゆっくりと輝きを弱め、穏やかな薄緑色へと変わっていった。
それは、敵意の消失を示すサインだった。
「行くぞ、リディア。ここは薬品臭くて敵わん」
アビスが踵を返す。
「はいっ!」
リディアは、最後にもう一度、無数のカプセルたちに深々と頭を下げた。
「さようなら。……どうか、安らかに」
二人は並んで、来た道を戻り始めた。
その背中を、50万の沈黙した瞳が見送っている。
魔人は、殺さなかった。
勇者は、守り抜いた。
かつて世界を二分して争った二つの種族が、今、小さな「共存」の形を見つけたのだ。 地下深くに眠る、悲しい科学の墓標の前で。
「あ、そうだアビスさん。出口までの道、覚えてます?」
「……知らん。貴様が先導しろ」
「ええっ!? 私も方向音痴ですよ!?」
「知っている。……まあいい、壁をぶち破って直進すれば地上に出るだろ」
「ダメですってば! 無駄な破壊は禁止です!」
静寂な通路に、二人の漫才のような掛け合いが響く。
それは、いつもの日常が戻ってきた証でもあった。




