4話 繰り返される「物語」
「リリー・アンネット」の人生は一冊の「物語」に収まるほど短く、味気なく、簡潔に収まるものだった。
その「物語」は誰が書いたものかは分からない。だけど、それを屋敷の蔵書室で見つけ、触れたとき、幼いリリーの人生は「物語」に支配されることになる。決してレールの外れることのない、「リリー・アンネット」の終焉までが描かれたそれは、まさしくリリーの人生を一変させた。
本来のリリーの意識は「物語」に閉じ込められ、代わりに「物語」の「リリー」が意識を乗っ取った。
そして、リリーが次に自分の意思で体を動かせたのは、リリーが万民の嫌悪に晒され、断罪の刃が振り下ろされるときだった。
何もかもが手遅れすぎる状況に、リリーが必死に叫ぶ弁明の声は誰にも届かない。
そうして、一度目の人生は幕を閉じる。
世界の悪女として、断罪されるのが「リリー・アンネット」が歩む「物語」の結末だった。
――だが、誰も疑問を抱かず、誰も彼女の死を当然のように受け入れる中で、とある人物だけが唇を強く噛み締めて、悔しそうにその光景を見つめていた。
石を投げるかのごとく罵詈雑言を叩きつける群衆の中で、男は、スッと手を伸ばす。遥か遠くにいて、決して手の届くことのない稀代の悪女へ――否、「物語」に翻弄された哀れな少女に。
男がずっと探し続けていた彼女を見つけたときには、全てが取り返しのつかないところまで進んでいた。
まるで運命は男を嘲笑うように、彼女の命を攫っていってしまう。そのことが、どうしても許せなかった。無力な己を恨みさえした。
聞くに耐えない群衆の中で、伸ばした手をグッと力強く握りしめる。
男は否定した。彼女が幸せにならない「物語」を。
男は拒絶した。彼女が涙を流す「明日」を。
男は決意した。彼女が笑う「未来」を取り戻すと。
――たとえ、何度繰り返すことになろうとも、「リリー・アンネット」の「物語」を書き換えてみせる、と。
そうして時は渡る。
彼女の存在をアンカーにして、「物語」をやり直した。
閉じていく世界で男――ヴィンセントは、未来を射抜く決意を秘めた眼差しを憎むべき運命に向けた。
*
グラディアント王から一ヶ月の猶予をもらったリリーは自分のこれから歩むべき人生について、自室で考えていた。
これまでは「リリー」の観測者として、手を伸ばすことも許されない陰の立場として生きてきた。この「物語」から抜け出すことができたのなら、やってみたいことをずっと考えてきたはずなのに、いざ「物語」の主人公になってみると何を選べばいいのか分からなかった。
それだけ、リリーは自分の意思で何かを選ぶことができなかったとも言える。
鏡の前に立ってみて、自分の頬や腕を触り、くるりとその場で回ってみて全身を確認してみる。見た目は「リリー・アンネット」なのに、中身が別人になったなんて言ったら、周囲の人は一体どんな反応をするだろうか、と意味もなく想像する。
おおかた、頭がおかしくなったか、精神系の魔法をかけられたと思われるのだろう。
それはそれで愉快だし、異常者として修道院に送られて、目下の問題である結婚についても解決できるかもしれない、とぼんやりと考える。
ある意味、自暴自棄とも言えるその選択をリリーは頭を振って追い払う。最終手段としては有効かもしれないが、せっかくの人生を棒に振りたくはなかった。
それならば、やはりリリーはこの一ヶ月の間に、自分の未来を決めなくてはいけない。
「やっぱりヴィンセント殿下のことをもう少し知るところから始めなければいけないかしら」
顎に指を添えて思索の海に沈む。脳裏に浮かぶのは美しい金色の髪と穏やかな笑顔だった。
鋭さを宿すこともあるその瞳は、決して私に注がれることはなかった。けれど、蕩けるほど甘い眼差しを思い返すと、胸の奥が熱くなり、頬が赤く染まってしまう。
初めて人から純粋な好意を受けて、舞い上がる初心な少女のような自分の反応に余計に恥ずかしくなる。
リリーは深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。ヴィンセントの態度はリリーにとっては新鮮で、心を弾ませるものだったが、それだけでないことも頭の中では理解していた。
「ヴィンセント殿下は確実に何かを知っている……きっと、私が人生を繰り返していることも。「物語」の存在のことも」
それは初めての手がかりと言っても良かった。
一度目の人生で意識を「物語」に乗っ取られた後、意思を取り戻したのは処刑される時だった。考える暇も、自分の状況を整理する間もなくリリーは処刑人の手によって命を散らした。
そして迎えた二度目の人生では、早くから記憶を取り戻したこともあって、あらゆる本を遠ざけて過ごしていた。なのに、その「物語」はいつの間にかリリーの目の前にあって、彼女の意識を「物語」の奥底に沈ませる。
運命に抗おうとしても、「物語」の矯正力は強く、二度目の人生もリリーは失敗した。
だけど、一度目と二度目の「物語」は全てが一緒だったわけではない。要所を除いた細かいストーリーは少しずつ変化しており、リリーはその小さな変化に賭けるしかないと踏んだ。
三度目の人生も概ね同じ道を辿る。だけど、唯一違ったのは、干渉できなかったはずのリリーが、ほんのわずかだけ「リリー」に干渉することができた点だ。
「三度に渡る人生でも、「リリー」の想いも結末も変わっている。最初はそういうものなのかと思っていたけど、私以外に「物語」を知っている人がいるということは、ヴィンセント殿下が何かをした可能性もあると考えられるかしら……?」
リリーは机に置かれた一冊の本を見つめる。その本に書かれた「物語」こそ、「リリー・アンネット」の一生だった。
書かれている結末は三度繰り返す中でも変化はない。だけど、確かに結末も細部の内容も変わっている。
その変化が、ヴィンセントによるイレギュラーの影響だとしたら。
リリーが真の意味で「物語」から解放されるためには、彼の助けが必要なのではないか。
「でも、それとこれとでは話が別だわ。私の個人的事情に巻き込むために、殿下との婚約を利用するわけにはいかない…………あんな、真っ直ぐにあ、愛を伝えられる人なんだから」
全身でリリーに愛してると伝えてくれたヴィンセントのことを思い出し、リリーは誰も見てないのに恥ずかしそうに両手で顔を隠す。
「リリー」がルイスに愛を囁くときはこんなに情熱を持っていたのだろうか。だとしたら、たとえ「物語」の登場人物の一人だったとしても、「リリー」の愛情は本物だったと言えるだろう。少なくとも、今のリリーにはそれほど深い愛を抱くことは難しかった。
一人で百面相を繰り広げていると、部屋の扉をノックする音が聞こえた。その音が部屋に響いた瞬間、机の上の「物語」が、風もないのにページをめくったことに、リリーは気が付かなかった。
リリーはこほんと小さく咳払いをして気持ちを切り替えると、「どうぞ」と言って入室を許可する。
「リリー様、ヴィンセント殿下よりお手紙が届いております」
「殿下から……?」
中に入ってきたメイドの口からヴィンセントの名前が出る。その瞬間、高鳴る心臓の音から目を逸らしつつ、リリーは冷静を装ってメイドから便箋を受け取る。ふんわりと花の香りが漂う便箋には、綺麗な字で彼の名前が書かれていた。
「使者の方がリリー様からの返事をお待ちになっておりますが、いかがなさいますか?」
「大事な要件かもしれないから、ここで確認するわ。少し待っていてちょうだい」
リリーがそう言うとメイドは小さく頷いて、リリーが手紙を読むのを待つ。
リリーは封蝋を丁寧に剥がすと、中身に目を向ける。
『麗しき朝の光に包まれる中、リリーはどのように過ごしているだろうか。本日、もしも暇があれば一緒に街へと出向き、束の間のひとときを共にできれば嬉しいのだけれど……。都合が良ければ、正午に馬車を回すから、使いのものに返事を渡して欲しい』
手紙の内容がうまく理解できず、リリーは三度も読み返した。だけど、何度読み返しても書いてあることは同じで、思わず固まった顔でメイドに視線を向ける。ある時からリリーの態度が軟化したことにようやく慣れてきたメイドだったが、それでも常とは違う彼女の様子にメイドも首を傾げる。
「リリー様? 何か問題でもありましたか……?」
一国の王子からの手紙に問題などあるわけないと思いたいが、リリーにはルイスの一件があったためメイドも固まる彼女を見て心配になった。
しかし、リリーはそんなメイドの心配など届いていないようで、徐々に顔を赤くすると、視線を手紙とメイドの間で行ったり来たりさせる。
「ヴィンセント殿下が……殿下が、一緒に街に行こうって…………」
男性と何かをしたことも、誘われた経験も今のリリーにはなく、突然の誘いにどうしたらいいのかわからなくなる。ただ困惑していただけのリリーだったが、それを見たメイドは「リリー様に新しい恋の予感が……!?」と察して目をカッと見開く。
「リリー様、そのお誘いはぜひ受けましょう!」
「え、えぇ……?」
突然鼻息を荒くして乗り気になったメイドにリリーは置いていかれる。リリーが返答に困っていると、それを了承と捉えられたのか、メイドは「すぐにお返事をしてきます! そうしたら、我々が腕によりをかけてリリー様を磨き上げますから!」と言って部屋から出て行ってしまった。
「ちょっと! まだ、何も言ってないわ……って、もうあんなに遠くに…………」
何かを勘違いしているメイドを引き止めようとしたが、それは叶わず。けど、生き生きとしている彼女に水を差すこともできず、リリーは仕方がないか、と苦笑を漏らす。
「……ある意味、これはチャンスかもしれないわ。ヴィンセント殿下が何を知っているのか……なんの目的があるのかを知るいい機会かもしれない」
メイドの姿を見送った後、リリーは手元の手紙に改めて目を落とす。気品漂う、洗練された文字の羅列に、自然とリリーの頬も緩くなる。
――手紙一つで人の心をくすぐることのできるヴィンセントは、もしかしたら、言葉に魔法を宿す天性の才を持っているのかもしれない。
そんなことを考えながら、リリーは手紙を大事に封筒の中に戻すと、クローゼットの一番上の段に閉まった。
そこはリリーが大切なものをしまう場所だった。




