11話 断罪の幕間
リリーがその本を見つけたのは偶然だった。
屋敷には父が各地で集めた様々な本が収められた小さな図書室がある。幼い頃のリリーは外で走り回るのが好きで、勉強は少し苦手だった。
そのためか、積極的に図書室に行くことはなかったが、その日は何かに惹かれるように図書室に足を運んだのだ。
運命の強制力、と言えばいいのだろうか。見る人が見ればきっとその幽鬼のような様子にギョッとして足を止めたことだろう。だけど、運命に定められたかのように、リリーは誰ともすれ違うことなく図書室に入り、その本に手を伸ばす。
机の上に置かれた一冊の本にはタイトルはなく、なぜその本に興味を持ったのかは覚えてない。
ただ、それを読まなければいけない、と考えていた。
薄汚れた表紙を撫で、導かれるように本を開いた瞬間、空気が逆流する。紙とインクの匂い、それと一緒に誰かの声が耳の奥で弾ける。
その瞬間からリリーの頭の中に膨大な記録が流れ込んだ。
陽だまりの中で、幸せそうに笑い合う家族。
暗転。
誰かの棺の前で、必死に涙を堪える兄。
暗転。
歯止めが効かなくなっていくリリー。
暗転。
愛したかった人に裏切られたリリー。
暗転。
リリーを見限った父の後ろ姿。
暗転。
助けを求めるリリーに背を向けた兄。
暗転。
世界に絶望し、失意の中、首を切られた――自分の恐怖に染まった顔。
暗転――?
途切れることのない、映画のワンシーンを切りはりしたようなコマ送りの映像が見える。
世界が何度目かの暗転を迎えたあと、足元からヒビが入り真っ逆さまに落ちていく感覚に囚われる。
かひゅっという乾いた息を呑む音と共に、幼いリリーは頭の許容量を超えて流れ込むその記録に、立っていられなくなった。
机に手をつきながら、膝から崩れ落ちる。その拍子に手に掴んでいたその本が音を立てて床に落ちる。まるで、信じていた世界が崩れるような音に、リリーは目を見開く。
自分の身に何が起きたのかわからず、リリーは必死にその情報を飲み込もうと努力するが、記録はリリーを嘲笑うように容赦なく襲いかかってくる。
その記録の中で、リリーは自分という存在を見失いそうだった。誰かに助けてもらいたかったのに、運命の悪戯か、その場には誰もおらず伸ばした手は誰にも掴んでもらえなかった。
――あなたはだれ?
私はアンネット侯爵の娘、『リリー・アンネット』よ。
――私はだれ?
あなたは私の代替え品。『リリー・アンネット』が『物語』を歩むために必要な、パーツの一つにすぎないわ。
――その体は、私のもの?
いいえ、違うわ! この体は私……『リリー・アンネット』のものよ! 私こそが本当の『リリー』になるんだから。
――でも、私は……私は…………!
あなたみたいな紛い物はもういらないわ。今日から私が『リリー』なんだから!
パキンっと世界が割れる音。その瞬間から、幼いリリーの意識は小さな箱に無理やり押し込められたように、どこへもいけなくなる。
リリーの世界は、色を失い、静寂の中に落とされた。
彼女の誕生に世界が祝福をもたらし、役者が揃った演劇のように『物語』が動き出す。
悪女『リリー・アンネット』の『物語』が始まった瞬間だ。
*
『物語』の『リリー』はとても傲慢に、とても自由に、とてもリリーらしくない振る舞いを見せた。
人が変わったようなその態度になぜか気がつく人はいなく、だれもがその偽物を本物として扱った。
意識のずっと奥底で、「私はここだよ!」と叫ぶリリーの声は誰にも届かない。まるで、『リリー・アンネット』は初めからそうであったかのように、周囲の人々は、家族ですら彼女の態度を受け入れた。
初めこそリリーは自分の体を――『物語』を取り戻すために意識の向こうで必死に抵抗した。だが、『物語』に働く強制力はただの意識に過ぎないリリーにはどうすることもできなかった。
当然のように家族の愛を一身に受け、当然のように生涯を寄り添う人を決めた。当然のようにリリーのフリをして愛嬌を振り撒き、当然のように他人を蹴落とした。当然のように、当然のように、当然のように――。
「…………っ違う!!」
分厚いガラス越しに見ることしかできない『リリー・アンネット』の『物語』に、リリーは唾棄する思いで拳を叩きつける。
こんな『物語』は認めない。
――私の人生は、私だけのものなのに! どうして、そこに立っているのは私じゃないの!?
何度も、何度も拳を叩きつける。手から血が滲み出ても、痛みで感覚が麻痺してきても、見せ続けられる『物語』をどうしても受け入れることはできなかった。
その『物語』の結末が、自分の破滅に繋がっていると知っていてなぜ、何も思わず受け入れることができるというのか。
今からでも気持ちを入れ替えて、改心すれば取り戻せる繋がりもあったはずなのに。
『リリー』は母を喪っても、兄に嫌悪されても、父に見限られても『悪女』を演じることをやめない。
誰からも後ろ指を刺される、寂しい役だったとしても。彼女は舞台で踊ることをやめられない。
『物語』が終盤に差し掛かったとき、ふとリリーは『リリー』もただの操り人形なのだと悟った。
自由を求めて自分の体を乗っ取ったあの子も、結局は誰かの『物語』に動かされているだけなのだと。
なら、誰が――?
より深く考えようとしたとき、リリーの意識は引っ張り上げられるように一気に浮上する。何をしても変わらなかった状況が動き出したことに驚いて目を丸くした瞬間、リリーの横を彼女の代わりに落ちていくように誰かが通る。
ふわりと広がった髪の隙間から覗く横顔は、悔しさと恐怖で染まっている。その誰かは、先ほどまで舞台でスポットライトを一身に浴びていたはずの『リリー・アンネット』だった。
リリーが彼女に気づいたように、『リリー』も彼女に気づく。お互いの視線が絡み合った時、彼女の思念が流れ込んでくるのを感じた。
初めて自分の意思でこの体を動かした時の感動。
陽の光の暖かさ、眼下に広がる大地の呼吸、草木の匂い。
感覚が実感に変わった時、『リリー』は言葉にならない想いを胸に抱いたのだ。
自分だけの『物語』を、明日を、生きることのできる喜び。それは、希望というスポットライトとなって『リリー』を照らした。
舞台上の役者が、どれだけ手を伸ばしても届くことのないその光を、『リリー』は愚直に追い求めた。
兄とうまく付き合えず、母親の急な別れにも涙を流せず、伏せった父にかける言葉も持たず。
愛した人から愛が返ってこなくても、笑顔を浮かべる悪魔のような女に全てを奪われても。
それでも、『リリー』はこの『物語』の終わりがハッピーエンドであることを信じて突き進んだ。
それが、幼いリリー・アンネットの居場所を奪った、自分にできる唯一の贖罪だと信じて――。
「あなた…………!」
自分の代わりに深く暗い場所に沈んでいく彼女にリリーはなんと言葉をかけたらいいのかわからなくなる。
自分の居場所を奪い、好き勝手振る舞った彼女が、本当は悔やみ、いつかこの体を返すときにより良い未来を届けられるようにと願っていたことを知った。敵だと思っていた『リリー』はその一生をかけてリリーに報いようとしていたのだ。
「……っ探して!」
堕ちていく彼女は最後の力を振り絞ってリリーの腕を力強く掴む。その強さに思わず顔を顰めるが、彼女の決死の覚悟にリリーは口を閉ざす。
「私たちの『物語』を、書き換えようとするあいつを!」
あいつ、というがきっと彼女はその正体を知らない。『物語』に縛られた、演者にしかなることができなかった彼女では、それが誰かを調べることができなかったのだろう。
「『物語』のその先にたどり着く方法を!」
一際大きな波に揺られるように、繋がれていた二人の手は一瞬にして離れてしまう。リリーは咄嗟に離れた手をもう一度繋ごうとしたが、体はぐんぐんと光の方へ引き上げられ、対照的に彼女の体は闇に堕ちていく。
「お願い、私たちの――『悪女リリー・アンネット』の真実を見つけて!」
最後にその声が聞こえたかと思ったら、リリーの視界はゆっくりと開かれ、その世界はまるでスポットライトに照らされたように目一杯の光に包まれていた。
その眩しさに目を細めながら、光に目が慣れるのを待つ。その間にも、民衆の罵倒する声が耳に入ってくる。
見せしめのために作られた、簡易的な断頭台。その上に、リリーは手を後ろに縛られた状態で座らされていた。
彼女はゆっくりと息を吸う。
土埃の汚れた匂いに、断頭台に蔓延る鉄の錆びた匂いが入り混じっている。
唾を撒き散らしながら、悪女リリー・アンネットの死を望む人たちの顔は醜く歪み、本当に同じ人なのかと疑いたくなるほどだ。
――あぁ、これが、『リリー』が身を置いていた舞台なのね。
ガラス越しではわからなかったこの『物語』の異常性にようやくリリーは気付き、なんでもっと早くに彼女のことを知ろうとしなかったのかと後悔する。
――今更、何を後悔しても遅いわ。誰も私を助けないし、誰も私の話を聞いたりしないもの。
それが運命ならリリーは受け入れようと思った。最後に交わした『リリー』の願いを叶えてあげられないのは、心残りだったが。
「大罪人リリー・アンネット。最後に言い残すことはあるか」
ジュリエットを横に侍らせ、尊大な態度でリリーに尋ねるルイス王子に、リリーが何かを懇願することはもうない。
全員の視線がリリーに降り注がれる中、リリーは空を見上げる。いつ見ても変わらず、青い空が美しく広がっていた。
「……叶うのならば、今度こそ、自由な明日を――」
小さく呟かれた声は誰にも届かなかった――はずだった。
民衆の一番後ろ。
彼女の祈りにも似た願いを拾い上げたのは、蒼い瞳を持つ一人の男だった。
後悔と絶望の涙で顔を歪めたその男は、最後の瞬間まで彼女を助けようとしていた。だからこそ、彼は彼女の最後の望みをはっきりと聞き取ることができた。
――だが、それだけだった。




