10話 始まりの記憶
ゆっくりとリリーに顔を向けるエルリック。その探るような鋭い眼差しにリリーは目を見開きながら息を呑む。
なんで、と考えていると彼はリリーの疑問に答えるように話し始める。
「俺の知ってる妹は、傲慢で、わがままで、人の話なんて聞いたりしない。侯爵家の人間として、それなりの教養はあるが、あの夜の日のように大立ち回りができるほどの度胸もなければ、根回しができるほど器用でもない」
スラスラと読み上げるように指摘されることに、リリーは返す言葉もない。彼の言い分は何も間違っていない。エルリックは妹のことを毛嫌いしていが、その分よく見ていたようだった。
何も言い返さないリリーにエルリックは確信を得たように瞳を光らせる。
「そして、何より、リリー・アンネットはルイス殿下を裏切ったりしない」
「……っ!」
「なら、殿下を見限ったお前は――一体誰なんだ?」
リリーはエルリックの問いにどう言い訳を並べればいいのかわからない。他のことならどれだけでも言い繕うことはできるのに、自分の――『物語』についてのことに関しては言葉にすることが難しかった。それは、言っても信じてもらえないという思いもあれば、リリー自身『リリー・アンネット』がどうなっているのか知らないのだ。
だから、彼の疑問にリリーは答える言葉を持っていなかった。
「なんとか言ったらどうだ。ここには俺とお前しかいないんだ」
それでも黙り込むリリーにエルリックは仕方なさそうに深いため息を吐いた。頭を乱雑に掻き乱すと、先ほどまでの探るような鋭い視線から一変させ、妹を案ずるかのような静かな温もりを浮かべる。
「散々お前を避けていた俺が言うのはおかしいのかもしれない……だけど、俺は今のお前が、その…………心配、なんだよ」
気恥ずかしいのかほんのりと顔を赤く染め、エルリックはむすっと怒ったような表情をする。思いもよらない兄の言葉にリリーは先ほどとは違う意味で目を丸くする。エルリックが『リリー』のことをちゃんと見ていたことも驚きだったが、きっかけはなんであれリリーを案ずるその姿は今まで見たことがなかった。
――いや、違うわ。お兄様は、ずっと昔…………今のようにいつも私のことを心配してくれていたわ。
まだ『物語』の表紙が開かれる前のこと。三度も人生を繰り返す今のリリーには遠い昔の記憶すぎて思い出すこともなかった幼い日々のこと。
幼く、兄の後ろをついて走り回る自分と、そんなリリーを優しく抱き上げてくれたエルリック。
大切で、ぬくもりに溢れた忘れてはいけなかった記憶をリリーは思い出していた。
「お前が……リリーが今一番大変なのはわかってるつもりだ。ルイス殿下のこと、昨日の事件のこと、隣国の王子のこと。問題が山積みで、周囲の状況に振り回されるのもわかる」
優しい声色のエルリックの言葉にリリーの視線は自然と兄に向かう。先ほどまでの怯えを孕んだものではなく、エルリックの言葉の真意を理解しようとする気持ちでエルリックを見る。
「答えられないなら、それでもいい。だけど、できることなら一つだけ教えてくれないか…………俺の知る『リリー』はもういないのか」
唯一知りたがったエルリックの質問に答える言葉をリリーは持ち合わせていなかった。というのも、リリー自身『物語』の『リリー』がどこにいるのか知らないのだ。リリーの意識に統合されたのか、それとも意識のずっと奥底で眠っているのか。今のリリーに知る術はなかった。
「…………わかりません」
「……っ! はは、お前は否定しないんだな。自分が『リリー』じゃないことを」
笑ったエルリックの顔にはわずかな痛みが滲んでいる。その表情を見たリリーも眉を寄せて、痛みに耐えるように唇を噛み締める。
「いや、違うな…………俺の知る『リリー』も、俺の知らないお前も――どっちも俺の妹であることは変わらない」
「…………!」
「今更かって思うかもしれないが、俺はお前のことを信じたい。だから、何があったのか教えてくれ」
そこにいるのはただ妹のことを心配する兄の姿だけだった。どうしてエルリックが突然こんな話を始めたのかはわからない。だけど、兄の言葉をリリーは素直に信じたいと思った。一人では抱えきれないことも、エルリックとなら前に進めるような気がした。
リリーの返事を待つエルリックに、リリーはぎゅっと手を握りしめ覚悟を決める。
荒唐無稽で、嘘のような話。
『物語』に支配された『リリー・アンネット』の始まりからその結末まで。
リリーは小さく息を吸うと、ゆっくりと話し始める。
ずっと誰にも話すことのなかった、一人の少女の『物語』を――。
*
少女は小さく息を吸う。
「……! …………リリー!」
ぼうっと空を見上げていた少女は遠くから呼ばれる声に反応して顔を向ける。視線の先には、珍しく体調がいいのか外に出てきている母とそれに寄り添う父、そして元気よく手を振る兄の姿があった。
「リリー! 何してるんだ? 早くこっちにおいで!」
まるで小さな子供を叱る大人のように兄は少女に近づくと、その手を握って引っ張る。兄として妹の面倒をちゃんと見たいようで、とても張り切っているのがわかった。
その微笑ましい様子を両親は少し離れたところから見守っていた。
何気ない家族のひととき。
この時の少女は、この先にどんな未来が待っているのか知らなかった。
――それが、すでに書かれていた『物語』の始まりだったことも。




