最終話
夏祭りから一か月、ベレリアはすっかり日常を取り戻していた。
夏を過ぎたというのに外はまだ温かく、陽射しも柔らかい。独特の香りが市場を包み、魚や果物を売る声がのんびりと響く。そんな街で、シオンとリシェルは新婚のような穏やかな日々を送っていた。
昼間は適度に依頼をこなし、夕暮れには市場で買い物をし、夜は家で二人きりの時間を過ごす――そんな生活だ。互いの想いは変わらず、必要なときにははっきりと言葉にして伝え合える関係を保っている。
その平穏を破ったのは、ベレリア冒険者ギルドからの呼び出しだった。
石造りのギルド本部、二階の応接室。扉を開けた先に立っていたのは、清廉な輝きを放つ銀髪の女性だった。
腰まで届く真っ直ぐな髪と、翡翠色の瞳。完璧な美貌というよりも、守ってやりたくなる柔らかい印象を持つ。
「……あなたが、シオン様ですね」
彼女は丁寧に一礼した。名はエレナ・ヴァルフレア。王国の使者であり王国が有する封印部隊の騎士であり所謂聖女だ。今回は特別な依頼を携えてきたという。
「このたび、我が国より重要な護衛任務を依頼いたします」
説明を引き継いだのは、ギルド長バルドだった。
「封印されていたヴァンパイアロード“グラディス”の再封印儀式――その護衛だ。封印が弱まって、眷属どもが動き出してる。復活なんざされたら王族どころか、この大陸ごと危うい。……で、この依頼をお前に推薦したのが、この俺だ」
シオンは目を細め、顎に手を当てる。
「ずいぶんと厄介そうな依頼だな」
「だからお前達に頼むんだ。報酬は遊んで暮らせるほどの大金だぞ?」
バルドの言葉に、場が一瞬静まった。
リシェルはシオンの隣に立ち、腕を組んで口を開く。
「敵は高位の吸血種。儀式の最中に襲撃があれば、護衛側にも相当な覚悟が必要よ」
その声は冷静で、淡々としていたが、内容は明確な警告だった。
しかし、彼女の視線は常にシオンへ向けられている。彼女には決定権がない。隷属紋を刻まれた彼女の意思は、最終的に主であるシオンの判断に従うしかないのだ。
しばし沈黙が流れ、シオンはゆっくりと口を開いた。
「俺たち以外の護衛は?」
「王国から正式な騎士がつく」
「ん?俺達が必要な理由が見当たらないが?」
「そうだな。通常業務は護衛だがイレギュラーが起きた場合の保険だと思ってくれ。ヴァンパイアロードは経験あるだろ?」
「ああ、そういうことか。そっちの方で期待されていると?」
「最悪の場合だ。そうならなければそのまま帰ってきて終わり。報酬はさっき提示した額だ。受けるか?」
「……報酬によっては受けよう」
その一言に、エレナの表情が安堵に緩む。
「ありがとうございます、シオン様。あなたならきっと受けていただけると信じておりました……」
と、可愛らしく微笑んだ。
バルドはニヤリと笑い、手を叩いた。
「わかった。」
「報酬に関してだが…、二人きりで話せないか?少し交渉したい。」
短く切り出したシオンに、バルドが頷く。
応接室の奥、窓際の席にはエレナが控えていた。銀色の髪が淡い光を受け、儚げな雰囲気を際立たせている。
彼女は首を傾げたが、すぐに立ち上がり、柔らかな礼をして部屋を後にした。静かに閉じられた扉の音が、妙に長く響く。
リシェルは当然のようにその場にとどまろうとした。
しかしシオンが「外で待っていてくれ」とだけ告げ退出を促された。
残されたのはシオンとバルドの二人。外の廊下では、リシェルがシオン達を気にしつつ待っていた。
リシェルがシオンにあんな言い方をされるのは初めてだった。戸惑いと同時に、胸の奥がきゅっと縮む。
(……どうして?)
休憩室の椅子に腰を下ろしながらも、落ち着かない。
さっきまで傍にいたエレナの姿が頭をよぎる。
淡く輝く銀髪に、守ってやりたくなるような雰囲気
――男性に好かれやすいタイプだろう。
自分とは違う、柔らかく可愛らしい印象。
全て自分にないものだ。
リシェルは唇を噛む
そして、彼女は思い出す。
隷属紋の影響で、理性を奪われ、抗えずに身体が勝手に反応してしまったあの夜――。
汗と涙で化粧はぐしゃぐしゃになりひどい姿だった。その一部始終が、偶然居合わせすた冒険者たちの口から街へと広まり、ギルドの酒場では笑い話の種にされた。
(……思い出すな、バカ)
頬に熱がこもるのを感じ、慌てて視線を落とす。
そんな自分に比べ、エレナはきっと、どんな時でも品を崩さないのだろう。
隷属紋なんて刻まれていない、自由な身。
守られることに慣れ、誰からも穏やかに扱われる
(……まさか、シオンが報酬にあの子を隷属させるなんて……)
そこまで考えて、リシェルは首を振った。
「ない……そんなわけ、ない」
彼が隷属紋を嫌っていたことは知っている。
それでも、不安は胸の奥で燻り続けた。
馬鹿なことを考えてることは分かっていた、だけど、そう思うくらいにリシェルの胸はざわつく。
※
シオンは、リシェルが静かに部屋を出ていく背中を見送った。だがその視線の奥には、未練と覚悟が絡み合い、思考は深く迷い込んでいた。
ようやくこの時が来た。
思ったよりも早い解決になりそうで嬉しいようで嬉しくない。
だが、元からその覚悟はしていた。
最初は恨まれてでも生きる希望をわかせたかった。だけど、その必要は早い段階でなくなっていた。
気づけばリシェルに甘えて素の自分で彼女と過ごしている。あるがままの感情を伝え、彼女との時間に幸福を感じていた。だが、それもこれで終わる。隷属紋でねじ曲げられた感情も、これで本来の彼女に戻すことができるだろう。
その時、俺に向けてくれていたあの愛情もなくなる…。
覚悟はできている。できていたはずだ。ずっとこのままなんて…それは…許されない…。情けないが未練しかない。
ああ、決心が鈍る。
もっと長く共にいたいと願ってしまう。
彼女を知れば知るほどに手放したくないと感じてしまう。だけど、それじゃダメなんだ。ちゃんとケジメはつけないと…。
縛ったままなら今までの意味が…ない…。
彼女の人生を彼女に返す時が来た。
ただ、それだけのことだ。
ああ、情けない…未練ばかりだ…
気持ちが固まることはない。未練しかない。だが、時間は待ってくれない。シオンは見せかけの覚悟を決めて話し始めた。
「金はいらない」
シオンの言葉が少し震える。だが、その言葉にバルドの表情が一変する。
「ほう、そいつはまた……大盤振る舞いだな。で、ボランティアってわけじゃねーだろ?何が欲しい?」
「リシェルを――隷属紋から解放してほしい」
今度は短く、はっきりと。
その願いに、バルドの視線が鋭くなる。
「……お前、何を言ってるか分かってんのか? あいつが何をやらかして、今ここにいると思ってる」
バルドは、シオンのお気に入りであるリシェルに好意的だ。しかし、それはシオンが隷属紋を刻んでまでそばに置きたかったと理解しているからだ。彼女が犯した罪を考えれば、隷属紋の解放となると話は別だった。彼の心の内では、個人的な感情と、罪に対する公正な判断とが、複雑に絡み合っていた。
「分かってる。罪の重さも、背負わされた理由も。だからこそ、あの刻印は……俺の本意じゃない…」
言葉を探し、シオンは息をついた。
「最初から解放するつもりだったんだ。機会さえあればいつでもそのつもりでいた。」
バルドは深く椅子に沈み、机を指で軽く叩く。
「気持ちは分かる。だがな、そう簡単に“はいそうですか”とはいかねぇ。王国の許可が必要だ。ギルドの一存じゃ動けん」
「バルド、アイツは罪を犯してないよ。ハメられただけだ。」
「ハメられた?だとしても、賞金稼ぎを何人もやってるだろうが。」
「それに関しては確証はないが…たぶん殺しちゃいない。」
「ほぉ?なにか掴んでんのか?」
「一応な。だから、この依頼は受ける。金も名誉もいらない。欲しいのはアイツの自由だけ。それだけ価値のある依頼だと思ったから、俺は受けようと思った。実際はどうなんだ?」
バルドが片眉を上げた。
「お前、本気か?」
「ああ。本気だ」
その瞳には、一切の迷いがなかった。
いや、実際には迷いしか無かった。だが、そんな感情はおくびもださないように努めた結果だ。
沈黙が、部屋を満たす。時計の針の音すら聞こえそうなほどの嫌な間。
やがて、バルドは大きく息を吐いた。
「……分かった。やれるかどうかはわかんねーが、その願いを叶える方向で動こう」
「感謝する」
シオンは深々と頭を下げた。
「ただし言った通り、隷属紋の解放は王国への正式な依頼になる。すぐには無理だ。だが、俺の方からしっかりと願い出ておく。ダメな時は金で満足しろ。」
「ああ、わかった。」
二人は短く握手を交わした。
リシェルside
外の廊下で待っているリシェルは、まだ小さな不安を胸に抱えたまま――。
シオンが、いま何を話しているのか、恐れながら扉が開くのを待っていた。
扉の向こうで、低く短い会話の気配が途切れた。
リシェルは椅子の縁に腰掛けたまま、思わず膝に力が入る。
手のひらは汗でじっとりと湿っていた。
やがて取っ手が回る音。
開いた扉から、先に姿を現したのはシオンだった。
その表情は読み取りづらく、笑ってもいなければ険しくもない。
ただ、まっすぐこちらを見据えて歩いてくる。
「待たせたな」
短くそう告げる声に、リシェルはとっさに立ち上がった。
「……話、終わったの?」
「ああ」
それだけのやり取りで、沈黙が落ちる。
シオンはリシェルの視線を受け止めたまま、しばし口を開かなかった。
その沈黙がかえって胸の鼓動を早める。
問い詰めたい気持ちと、知るのが怖い気持ちがせめぎ合った。
廊下の向こうでは、ギルド職員が行き交い、紙の束を抱えた若い受付嬢が軽く会釈をして通り過ぎる。
そんな何気ない日常の動きが、二人の間の張り詰めた空気をほんの少しだけ和らげた。
シオンはふと手を伸ばし、リシェルの肩に触れる。
その掌は温かく、そして妙に落ち着いた力加減だ。
「…大丈夫だ。心配すんな」
短く、しかし確信を帯びた声音。
それだけで、理由も分からないまま、胸の奥に少しずつ安堵が染み込んでくる。
けれど同時に、すぐに聞き返してしまう。
「何が大丈夫なの? 何を話してたの?」
シオンは片眉を上げ、わずかに口の端を緩めた。
「そんな大した話じゃないよ」
軽く受け流すような声音。しかし、その奥に何か隠している気配があった。
リシェルはそれをはっきり言葉にできない。
まだ出会って三ヶ月――互いをすべて分かるほどの時間ではないのだと、改めて思い知らされる。
胸の奥に引っかかりが残ったまま、それでも今は問い詰められなかった。
答えが返ってこない予感がしたからだ。
「……分かった」
それは同意ではなく、諦めにも似た一言だった。
その時、別室の扉が開き、バルドが銀髪の女性を伴って姿を現した。
柔らかな光沢を帯びた長い髪、白磁の肌、そして整った微笑――エレナ・ヴァルモンド。
上質な香水のような気配を漂わせながら、まっすぐシオンへと歩み寄ってくる。
「シオン様、報酬の件がまとまり正式に依頼をお受けくださったと伺いましたわ」
おっとりとした声色に、リシェルは思わず背筋を伸ばす。
だがエレナの視線は、シオンのみに注がれていた。まるでリシェルはそこに存在しないかのように。
「ああ、詳細を詰めよう」
シオンは短く答え、ギルド中央の大きなテーブルに向かう。
エレナもすぐ傍に歩み寄り、椅子を引いて座る。その距離は、肩が触れそうなほど近い。
リシェルは一歩離れ、黙って成り行きを見守るしかなかった。
打ち合わせである以上、邪魔はできない。
それに――エレナは一度も、ほんの一瞥すらリシェルに向けなかった。
当然だと言わんばかりに、完全に視界から外している。
「出発は明後日。儀式は今月末、国はずれにある地下墓所で行われます」
エレナは地図を広げ、指で場所を示した。
「必要な物資はすべて王国側で手配済みです。聖水、銀製の武具、護符も揃えてあります。
私がシオン様にお願いしたいのは――戦力としての護衛最悪の場合に対しての対処ですわ」
「戦力、前に出て戦えと?」
「いえ、どちらもです。私の護衛をしつつ戦って頂きます。封印が弱まれば眷属が必ず集まります。儀式の妨害は避けられません」
そのやり取りの間も、エレナは自然に身を寄せ、地図を示すたびシオンの袖口に指先がかすかに触れる。
当人たちは何の意図もなくやっている――それは頭で分かっているのに、リシェルの胸の奥はざわついた。
(……近すぎじゃない?)
声に出せば、ただの嫉妬だ。
しかもこれは真面目な打ち合わせ。文句のつけようもない。
けれど――。
シオンがエレナの言葉を受けて淡々と答える、その声や間合いが、普段より柔らかく聞こえる。
それはリシェルの思い込みに過ぎないと分かっている。
だが、自分の中で膨らむもやもやは止められなかった。
「では、詳細は後ほど文書でお届けします。……シオン様、よろしくお願いいたします」
エレナは美しい所作で軽く頭を下げた。
その視線は最後までリシェルを通り過ぎたままだ。
打ち合わせが終わった頃、外はもう昼を過ぎていた。
一行はギルドの扉を押し、明るい日差しの下へ出る。
石畳を渡る風が昼の匂いを運んでくる中、エレナは足を止め、シオンに向かって微笑んだ。
「では、ここで失礼いたしますわ。……ごきげんよう、シオン様」
優雅に裾を揺らし、馬車へと向かっていった。
残されたシオンとリシェルは、並んで石畳を歩き出す。
冷たい風が頬を撫でても、リシェルの胸の奥に湧いた火は消えない。
それは誰にも悟られない、小さな炎のように、静かに燻り続けていた。
リシェルはエレナの背中を、ほんの一瞬だけ目で追ってしまう。
胸の奥に、理由のはっきりしないもやもやとざわざわが残る。
(……あの人、シオンにどう映ったんだろ)
「今日は外で食べて帰るか」
不意にシオンの声が耳に届く。
「……あんたが行きたいなら、どこでもいいわよ」
努めて平静に返しながら、頭の中では別の言葉が渦巻いている。
(どう思った? かわいいとか思った? 優しそうって思った?)
聞けばいいだけのことなのに、唇が動かない。
万が一「そうだ」なんて言われたら――その後、自分がどんな顔をしていいのか想像できなかった。
「じゃあ、この先の角曲がったとこの肉串でも食うか。久しぶりだしな」
シオンは何も知らないように軽く笑う。
その笑顔を見たら、ますます聞けなくなってしまう。
ただ小さく頷いて、二人は並んで歩き出した。
石畳の上を響く足音が、妙に大きく感じられる帰り道だった。
二人は人気のある屋台の軒先に腰を下ろし、焼きたての肉串を受け取った。
香ばしい匂いが漂い、腹の虫が小さく鳴く。
シオンは豪快にかぶりつき、口角を上げた。
「やっぱここの肉はうまいな」
「……そうね」
味は確かに美味しい。けれどリシェルの胸の奥では、別の感情が邪魔をして素直に味わえなかった。
ふと、シオンが思い出したように言う。
「そういや、あのエレナって人、すごく丁寧な物言いするんだな。王都の貴族ってみんなあんな感じなのか?」
心臓がどくん、と跳ねる。
(……やっぱり、エレナのこと、印象に残ってるんだ……)
「そう……かもね」
平静を装って返したつもりだったが、声が少し硬くなる。
シオンは構わず続ける。
「王国の物資もちゃんと揃えてくれてるみたいだし、戦力としてなら気が楽だな」
「そうね……」
話の内容は依頼の確認にすぎないのに、エレナの名が出ただけで胸の奥がざわつく。
(聞きたい……シオンは、エレナをどう思ったのか……でも、聞いたら、自分が気にしてるってバレる)
モヤモヤとざわざわが絡み合い、串を持つ手に力が入りすぎて木の軸がきしむ音がした。
シオンはそんなリシェルの内心など知らず、空を見上げて言う。
「さて、食ったし帰るか」
「……ええ」
昼の光の下、二人の影が並びながら家路へと伸びていった。
家に着くと、鍵を回す音と同時にほっと息がこぼれた。
靴を脱ぎながら、ふとシオンの横顔を盗み見る。
(今、聞けば……でも……)
心の中で何度も往復する言葉。口に出してしまえば、ただの嫉妬だと悟られる。それが怖くて、唇は閉じたままだ。
「お湯沸かすか? 昼も歩いたし、甘いものでも飲む?」
キッチンに向かうシオンの背中は、いつも通りの気安さを纏っている。それなのに、胸の奥はまだざわざわと落ち着かない。
「……うん」
短く返事をして、リシェルはソファに腰を下ろす。ふわりとクッションに沈み込みながら、視線はシオンを追い続けていた。
(あんなに近くで話して……優しそうに見えたの、私だけ? それとも本当に……)
答えのない問いが頭の中を巡る。
やがて、湯気の立つカップを手にシオンが戻ってくる。ソファに腰を下ろした瞬間、リシェルは自然を装って体を寄せた。肩と肩が触れる。
「おい、こぼすぞ」
「平気」
囁くように返し、さらに身体を預ける。香り立つ湯気が二人の間に揺れ、シオンの体温がじわりと伝わってきた。
(……この距離なら、少しは落ち着く)
胸の奥のモヤモヤとざわざわは完全には消えない。それでも、こうして触れていると「自分の場所」を確かめられる気がする。
「そういや……明後日にはもう出発だな」
不意にシオンが呟く。
(明後日……)
言葉の響きに、時間が急に短くなったような感覚が押し寄せる。任務の緊張よりも、その間にまた誰かにシオンを取られるかもしれないという得体の知れない不安が勝った。
カップをテーブルに置き、リシェルは思い切ってシオンの腕を抱き込む。
「……どうした?急に」
「別に。ただ……今のうちに」
小さな声は、ほとんど溶けるように消えていった。
シオンは肩をすくめるだけで、拒む様子はない。むしろ逆に、抱きつく腕をほどこうともしない。
その温もりに包まれながら、リシェルはやっと息を吐いた。
(……明後日までは、この距離でいよう)
シオンの腕に頬を寄せたまま、胸の奥のざわざわがどんどん膨らんでいく。
(……やだ。このままじゃ、また……)
目を閉じても、昼間の光景がよみがえる。エレナの微笑み。シオンの何気ない視線。
(消したい……全部……)
気づけば、唇が勝手に動いていた。
「……命令して」
自分の声なのに、やけに小さく、熱を帯びて聞こえた。
一瞬で頬が熱くなる。言った直後、喉の奥がひくりと鳴った。
(なに言ってるの、私……)
シオンは少し目を細め、無言でリシェルを見下ろす。
その沈黙が、返事よりも心臓を速く打たせた。
やがて、低く、短く。
「……目、閉じろ」
その言葉だけで、全身が熱くなるのを感じた。
理屈も、迷いも、全部押し流される。
※
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、白いシーツを照らしている。
横で眠るシオンの呼吸は深く、穏やかだった。
(……ずっと、こうしていられたらいいのに)
昨夜の温もりがまだ肌に残っている。けれど同時に、胸の奥には得体の知れないざわつきが広がっていた。
「明日には出発」
その事実が、心を締めつける。依頼の緊張よりも――エレナにシオンを奪われるかもしれない不安の方が強い。
起こさないようにベッドを抜け出し、キッチンでカップに水を注ぐ。唇を湿らせても、そのざわめきは消えない。
(依頼中……私のそばにいてくれる? それとも――)
答えは出ないまま、再び寝室へ戻ると、シオンは相変わらず無防備な寝顔を見せていた。
その頬にそっと触れ、確かめるように目を閉じる。
(……せめて今日だけは、離さない)
――そして翌朝、依頼当日。
冷たい空気と緊張感が、二人を包み込んでいた。
読んでいただきありがとうございます。
最終話になります。
長いエピソードとなるので分割して掲載いたします。
よろしくお願いいたします。




