第三話2
食事を終えると、リシェルは椅子から立ち上がり、テーブルを軽く拭った。
「マリアさん、ごちそうさま。すごくおいしかった。ありがとう。」
にこやかに返すマリアに、シオンも礼を述べる。
「とても美味しかったです。本当にありがとございます。」
マリアは「いいっていいって。昨日の今日だからね。準備なんてできないだろうと思っただけよ。」と笑い、手を振った。
そのまま二人は借りた部屋へ一旦戻る。
鍵を開けて中に入ると、木の香りとわずかな陽射しが迎えてくれる。
「これからは、ここで作って食べることになるな」
「私が作るわよ?」
迷いなく言い切るリシェルに、シオンが目を細める。
「へぇ……できるのか?」
「っ……できるに決まってるでしょう!」
むっとする様子に、シオンは笑みを深めた。
「いや、別に疑ってるわけじゃないんだ。ただ……お前が台所に立つ姿って、想像できなくてな」
「失礼ね……!」
リシェルは腰に手を当て、胸を張る。
「そもそも一緒に旅してた間、交代で料理してたでしょ?野営のスープくらいだけど。本気を出したら驚くんだから」
「ほぉ?ハードルあげて大丈夫なのか?」
「……見てなさい!後悔させないわ!」
言い切ったものの、リシェルは少しだけ視線を逸らす。
「……その、あなたが全部食べてくれるなら……ちゃんと頑張る」
「お、おう…楽しみにしてる。」
シオンも赤くなりながらまっすぐな言葉にで返す。
リシェルもその言葉に胸の奥が妙に熱くなり「……ふん」と鼻を鳴らしてみせたが、耳の先が赤いのを隠せなかった。
「じゃあ、早速買い出しね」
「今から?」
「当たり前でしょ。作るって決めたんだから、準備しないと」
立ち上がったリシェルは、腰に手を当てて言う。
「しっかり期待しときなさい!」
「ああ。わかった。」
シオンは嬉しそうに笑った。
石畳を踏みしめるたび、かすかな反響が足元から伝わってくる。
朝の日差しはすでに強く、石の隙間に残る朝露を白くきらめかせていた。
通りを進むと、街はすでに祭りの準備で活気に包まれていた。
木槌の「コンコン」という音、布を張る「バサッ」という音、花飾りを編む女性たちの笑い声――それらが途切れることなく耳に届く。
風に乗って焼きたてのパンや香辛料の香りが漂い、胸の奥までくすぐられるようだった。
「まだ始まってもいないのに、この賑やかさか」
「お祭りって、準備のときが一番楽しいって言うものね」
リシェルは足を止め、色鮮やかな布が風に揺れるのをじっと眺めた。
その時、通りの角にある小さな屋台からおばさんが手招きしてくる。
「お二人さん、味見していかないかい?」
差し出されたのは、油から上げたばかりの小さなパン。
リシェルが一口かじった瞬間――
「……あつっ!」
反射的に口を半開きにして、必死に息を吹きかける。
その仕草にシオンは思わず笑ってしまった。
「大丈夫か?」
「うん……少し驚いただけ。」
そう言いつつ、もう一口かじって、今度はゆっくりもぐもぐと噛みしめる。
「……うん、外はカリッとしてるのに、中はふわふわ。香りもすごくいいわ。とっっっってもおいしい!」
素直な感想に、屋台のおばあちゃんが嬉しそうに目を細める。
「ありがとね、お嬢ちゃん。あんた言葉まで可愛いわね!そこに彼氏はお熱なのかしら?」
と、おばちゃんが楽しそうに笑う。リシェルの真っすぐな褒め言葉への照れ隠しだったんだろう。だが…
「たしかにそれは、間違いないな」
平然と答えるシオンにおばちゃんも目を丸くし言葉を理解してから「あらあら、ごちそうさま」と笑った。
「――っ! な、なに言ってるのよっ!」
リシェルは一気に顔を赤くし、シオンの腕を軽く小突くがシオンはまったく動じない。
「変なこと言わないで! もう……っ!」
リシェルは顔に熱さを感じてぷいとそっぽを向く。
賑わう市場を、二人は肩を並べて歩く。
通りには香辛料の香りや焼き菓子の甘い匂いが入り混じり、色とりどりの布や果物が視界を彩る。
ふと、シオンの視界の端に――黒いフードを目深にかぶった人物が立っているのが映った。
こちらを見ている……そう思った瞬間、その姿は人混みに紛れて消えてしまう。
「……どうしたの?」
「いや、なんでもない」
短く答え、シオンは歩を進めた。
肉屋の前で、リシェルが足を止める。
「この牛肉、いいわね。これくらいのほうが美味しいわよ」
迷いなく指差すリシェルに、店主が満面の笑みを向ける。
「お嬢ちゃん、見る目があるな。ひと手間かけて今日ようやく並べられるようになったばかりの上物だ」
その言葉に迷いなく2人は購入を決めた。
続いて、八百屋では新鮮なマッシュルームと香り高いハーブを選び、パン屋でパイ生地用の小麦粉も買い込む。
買い物袋が増えるたび、シオンは自然とそれを受け取っていた。
「ちょっと、私も持つわよ?」
「せっかく作ってくれるんだ、これくらいはする。」
そう言って荷物を渡そうともせずにシオンは笑う。リシェルはそんなやり取りをどこか嬉しそうに視線をそらした。
昼も過ぎ市場の喧騒を背にして歩いていると、小道の一角に小さなアクセサリー屋台があった。
棚には色とりどりの飾りが並び、昼下がりの陽光を受けてきらきらと輝いている。
リシェルの足がふと止まる。
彼女の視線の先には、細い銀鎖に、淡く青く光る石が下がったネックレス。
その青は、空でも海でもない、どこか懐かしさを感じさせる色だった。
「……気になるのか?」
「んー、そうね。少しだけ良さそうって思って……なんとなく、目が離せなかっただけよ」
そう言って軽く首を振り、先を歩き出すリシェル。
だが、シオンは屋台のおばあさんに声をかけた。
「これを」
「ありがとね。それにしてもお目が高いねぇ。古くから“心を澄ませる石”って呼ばれてるこの祭りの時期しか手に入らない特別品だよ。」
店主の言葉にシオンは反応する。
「へぇ~、それはピッタリだ。」
『心を澄ませる』それを聞いて隷属紋の影響を少しでも減らせるんじゃないかと期待して代金を支払った。
「はい、これ」
少し先を歩いていたリシェルを呼び止め購入した物を渡す。
「えっ……何?」
「似合うと思ったから」
差し出された小箱を受け取ったリシェルは、一瞬戸惑ったように瞬きをした。
やがて、小さく息を吐き――首にかけた。
「……ありがとう」
その声は素直で、そしてほんの少し照れくさそうな喜びを含んでいた。
その後もさまざまな屋台をめぐり、売られているものに舌鼓をうち、まだ祭りではないというのに二人はその時間をしっかりと楽しんだ。やがて夕暮れとなり通りは昼間よりも人が増え賑わいが大きくなっていた。
食材の入った袋を片手に、シオンとリシェルは肩を並べて歩く。
「ちょっと多く買いすぎたかも」
「いや、これくらいでいいだろ。明日も必要になるんだしちょうど良いだろ?」
「……それでいいならいいけど……?」
軽いやり取りを交わしながら歩いていると、シオンの視線がふと人混みの先で止まった。
黒いフードを深くかぶった人物――顔は影に隠れ、ただこちらをじっと見ている。
その目だけが妙に冷たく、鋭い光を放っていた。
シオンがわずかに眉を寄せる。
ーーアイツ昼間の奴か?
その直後、前方の屋台から声が上がった。
「おい! さっき置いといた干し肉がなくなってる!」
巡回中の警備員がすぐさま駆け寄り、屋台の前は小さな人だかりになった。
シオンが黒フードを警戒していると
「おい、そこのお前」
低い声に呼び止められる。
警備員の一人が、リシェルの胸元に視線を落としていた。
「……おまえ隷属紋持ちだな?」
「だから何?」
リシェルの目が鋭く細められる。
警備員が口を開きかけた瞬間――
シオンが一歩、前に出た。
その動きはあまりに自然で、気づけばリシェルの視界は彼の背中で埋まっていた。
「用があるなら、俺に言え」
淡々とした声なのに、不思議と拒めない重みがある。
警備員の足が、わずかに止まった。
その間、シオンは視線を逸らさず、相手を黙らせる圧を漂わせている。
「……おい!」
別の方向から、別の警備員が駆けてくる。
片手で若い男の襟首をがっちり掴んでいた。
「犯人も干し肉も見つかった!早くこい!」
先ほどまで詰め寄ってきた警備員が、わずかに顔をしかめる。
「……そうか」
それだけ言って背を向けたが、謝罪の言葉はない。
ざわめく人混みが再び流れを取り戻していく中、リシェルは小さく鼻を鳴らした。
「……まったく。あれ私を疑ってたわよね?」
「そうだな。」
「…あれは、ムカつくわ。」
「ああ、たしかにな。」
短く返しながらも、シオンの視線は人混みをゆっくりと巡る。
さっきの黒フード――あいつは確かに、リシェルの胸元を見ていた。
ただの通行人が、隷属紋を意識してあの距離から視線を止めるだろうか。
偶然か、それとも――。
胸の奥に、鈍い警戒がじわりと広がる。
まさか、リシェルが狙われている……?
そんな考えが頭をかすめ、シオンは無意識に彼女の肩越しに警戒した。
通りを抜け、二人が借りているアパートの前まで戻ってくる。
門扉のそばでは、マリアがほうきを手に地面を掃いていた。
パサパサと枯れ葉が集まり、夕暮れの光にきらめく。
「おかえり。おやおや、たくさん買ってきたねぇ」
顔を上げたマリアが、にやりと口角を上げる
「ういういしくていいねぇ。まるで新婚さんみたいじゃないか」
マリアのからかいがリシェル感情を一気に溶かしていく。新しい感情に塗り替えていく。
「――っ! だ、誰が!」
リシェルは慌てて荷物を抱え直し、頬を赤く染めたままそっぽを向く。
「ぜ、全然違います! まったく!」
「はいはい、そういうことにしとくよ」
マリアはおかしそうに肩を揺らす。
「……なんで笑ってんのよ」
「さーな。」
「……ふん」
鼻を鳴らしながらも、リシェルはまんざらでもない表情で、部屋の中へと足を進めた。
その横顔を見て、シオンは小さく笑いをこぼし少し安心した。
部屋に戻ると木のテーブルに食材を広げ、リシェルは手際よく野菜を仕分け始める。
「ちゃんと見てなさい」
「はいはい、見てますよ」
シオンは椅子に腰を下ろし、腕を組む。
口調こそ軽いが、その視線は一瞬も彼女から逸れない。
「……ちょっ!意味が違う、」
「え?見るって見る意外の意味があんのか?」
「そ、それは……なんていうか…そっそう!!様子を見ておきなさいって意味で!」
「あっはは、わかった。様子を見とくんだな」
シオンの笑い声が、台所に響く。
リシェルはむっとしたまま顔を背けたが、その口元はほんの少しだけ緩んでいた。
そして黙って野菜を取り出し、包丁を手に取る。
刃がまな板を軽く叩く音が、規則正しく響き始める。
その合間に、ちらりと視線を送ると――シオンはまだこちらを見ていた。
見られているとわかると、無意識に手の動きが少しだけ丁寧になる。
オーブンの前で生地を整えながら、もう一度、横目で様子を窺う。
シオンは肘をつき、落ち着いた顔をしているが――口元にはわずかに嬉しそうな笑みを浮かべている。
それを見た瞬間、リシェルは耳の先まで赤くなり、慌てて視線を生地に戻した。
やがて、香ばしい匂いが厨房いっぱいに満ちていく。
メニューは、こんがりと焼き色のついたパイ包みと、付け合わせの彩り野菜。
リシェルはオーブンから慎重に皿を取り出し、シオンの前へと置く。
「はい、熱いから気をつけて」
シオンはフォークを手に取り、一口すくって口へ運んだ。
噛んだ瞬間、サクッという軽やかな音とともに、肉汁と旨味が広がる。
「……うまい」
静かに、しかし確かに込められた感嘆の声。
「当然よ」
リシェルの唇がわずかに弧を描く。
だがその直後、視線を外して肩をすくめた。
「言ったでしょ、私が本気を出せば驚くって」
「いや、おどろくってレベルじゃねーぞ。これだけで店をやれるって。」
「ちょ!それは言い過ぎよっ!!」
そう言いながらも、彼女の嬉しそうに笑った。
???Side(祭り三日前の夜)
古びた倉庫の奥。湿った木の匂いが漂う中、机の上に置かれたランタンの灯がゆらめき、二人の影を壁に映していた。
粗末な椅子に腰かけた黒フードの男と、その奥に鎮座する枯れ枝のような老人――声の響きだけで、地位と冷酷さがわかる相手だ。
「……例の隷属紋持ちを確認しました」
黒フードは低く告げた。
「昨日、大通りで見かけたのです。あれは――国ひとつを買えるほどの値がつくのではないかと。」
「それほどか?」
「はい。噂通り『絶世』の言葉が霞むほどの美女です。」
「ふむ……どうやって連れ出すか…それが問題か」
上座の男は、骨ばった指先で顎をゆっくりとなぞる。
彼の中でその女を拐うことは決まった。その後は売るもいい、自身の手籠めにして飽きたら売ってもいい。それほどまで価値のある女ならばぜひ手に入れたい。
「僭越ながら例の水晶を使えばよろしいかと」
「……ほう?」
「水晶は“干渉器”。持ち主が対象に触れる必要はありますが、隷属紋に干渉させ洗脳状態を作れます。混雑した祭りの中なら人と人がぶつかってもおかしな話ではありません。少し対象に触れるだけで洗脳は可能です。」
「ふむ…」
「あとは所定の位置まで向かうように命令し時間のかかる所有者登録の書き換えはそこでしてしまえばいいわけです。」
「わかった。それに関してはお前にまかせる。うまくやれ。」
「はっ!!」
「本題の件は予定通りやれ。ミスは許さん。その女も気になるがコチラがコケては意味がない。そこだけは必ず失敗するなよ。わしもお前も物理的に首が飛ぶぞ。」
「はっ!承知しました。」
会話はそれで終わった。
ランタンの灯がふっと消えると、室内は墨を流したような闇に沈む。
そして、湿った夜気を切り裂く足音だけが、静かに遠ざかっていった――。
※
夕暮れの街路を歩くシオンとリシェル。
目的地は、この街の冒険者ギルド――指名依頼の呼び出し状に従っての訪問だ。
封書はすでに開封済み。
祭りの期間中、高位魔道具を裏で売買する組織が動く可能性があること。
そして、その組織が「隷属紋持ち」の人身売買にも関与している恐れがあること――そこまでが、二人の頭に入っていた。
「……しかし、差出人の名前が書かれてなかったのは気になるな」
「ギルドマスターってだけじゃ分からないよね」
「まあ、行けば分かるか」
ギルドの重い扉を押し開けた瞬間、奥から落ち着いた低い声が響いた。
「……来たな、シオン」
その声に、シオンの足が止まる。
「――バルドさん!? なんであんたがここに!」
姿を現したのは、よく日に焼けた浅黒い肌に短く刈った茶色い髪にめ切りそろえた綺麗な髭を持つ大柄な男――バルド=グレン。
かつてシオンが新人だった頃、冒険者のイロハを教えてくれた恩人だ。
今はこの街のギルドマスターを務めているという。
「知り合いなの?」
リシェルが小声で尋ねる。
「まあな。俺が、駆け出しだったときに世話になった恩人だ」
「話は読んだな?」
「ああ。祭りの裏で高位魔道具の取引があるかもしれないって話だろ」
「それだけじゃない」
バルドの声が低くなる。
「その連中は、隷属紋持ちの人間を闇で売り買いしている可能性がある。しかも、この時期にしか出回らない高価な魔道具も多数ある。祭りの混乱は奴らにとって格好の隠れ蓑だ」
バルドは引き出しから小型の金属器を取り出す。
針状の触角が三本突き出し、握ると淡く光る。
「“魔導感知器”だ。魔力反応を探知できる。もし奴らが高価な出力の高い魔導具を使えばソイツが反応するだろうよ。盗んだ商品を使うやつなんていねーし。気休め程度でしかないかもしれねーがな。まぁ。間抜けにも試射するようなヘマをしてくれりゃ大助かりなんだがな。
」
シオンは頷き、受け取る。
「……気をつけろよ。お前はともかく、そっちの嬢ちゃんは目立つ」
「わかってます。ご心配ありがとうございます」
その言葉に、バルドの口元がわずかに緩んだ。
ふと、シオンが真剣な目で問いかける。
「……バルドさん。俺にこの依頼を回したのは、リシェルが一緒にいるからですか?」
バルドは一拍置き、低く笑う。
「いや、依頼を決めたあとに知った。まぁ、成功達成の確率が上がると思ったのは確かだがな。根っこはお前の腕を信じての話だ。」
少し言葉を切って、彼は続ける。
「正直、手紙を出したあとにお前の登録時の特記情報を見てな。嬢ちゃんの名前があった時には、正直驚いたぞ。お前、そういうの――隷属紋なんて嫌いだったろ?」
シオンはわずかに視線を伏せる。
「……他に方法がなかった。それだけですよ。」
〜リシェルside〜
短く、しかし重く吐き出されたシオンの言葉。
その横顔を見たリシェルは、胸の奥がちくりと痛んだ。
――シオンが隷属紋を嫌っていた? 知らなかった……。
私を助けるためだったんじゃないかっていう予感めいたものは過去の経験からあった。けどそれを本人から直接聞かされたわけではない。だから、それに対してどこか懐疑的な自分もいた。できるだけそのことに触れないように考えないようにしていた。
もし彼が本当にこれを嫌っていたなら…。彼はどれほどの嫌悪を押し殺して、あの決断を下したのか。
それを想像するだけで胸が締めつけられる。
助けるためだったとはいえ、誰かの意志を縛る行為を選ぶ――それは、彼にとって耐えがたいはずのことだったんじゃないか?そう言えば…端々で気になる表情を見せていた。その度に「なんで?そんな顔するの?」と自分の心の中でつぶやいていたのを覚えている。
それほど私を助けたかったの?なぜ?あの日まで会ったこともなかったはずだ。なぜこの男はそこまでして私を?考えれば考えるほどにわからなくなる。
しかも、そんな紋を私に刻めば……たとえ生きていたとしても私は彼を恨むかもしれない。恨まれると思わなかったの?助ければ喜ばれるとでも思っていたの?
いや、違う…彼は確かに私に恨まれようとしていた。思い返せば最初の彼の行動は無茶な要求を突きつけて自身を悪く見せようとしていた。
そう考えるとすごくしっくりくる部分もある。嫌われてでも私を助けたかった?自分を押し殺していたのは私だけじゃなくて彼も?それでも、選んだの?
私を助けたいがためだけに…
それは苦しくなかったの?。淡々と、平然を装って。
……あの時の冷ややかな視線も、無機質な声も、全部が私を救うための演技だったの?恨みの矛先を自分に向けて私が、生きる糧にするための演技?
その時、時折見せる辛そうな顔が頭をよぎった……
よく考えるとそういう表情をするのは決まって私が自己嫌悪で沈んでいた時だ。彼も辛かったけど嫌われようとしてた?
いや、でもそんなはずはない。それならたびたび見せる優しさはなに?
私なら…
そう考えたらなんとなくわかってしまった。
嫌われたい人間なんてどこにもいない。自分の行いが評価されない苦しみは分かる。
彼も迷っていたのだろう。嫌われようと無茶な命令をした翌日に見せた優しさはそんな彼の葛藤だったのかもしれない。
あの時は私は自分の事ばかりだった。
彼の苦しみも彼の優しさも彼の迷いも彼の苦悩も何もわかっていなかった。今ですらわかっているのかなんてわからない。ただの思い込みかもしれない。
でも…
私が、そう思ってしまったんだ。
そう思った瞬間、痛みと同じくらい、彼への想いが強くなっていく。
胸の奥で、ひそやかな熱が広がる。
痛みに似た熱――けれどこれは、嫌悪でも恐怖でもない。
もっと深く知りたいと願う、甘くて苦い衝動だ。
もし、あの時の彼の指先が震えていたのなら。
もし、その手の中で私を守るために何かを捨てていたのなら。
気づけば私は彼を抱きしめていた。
シオンの体がわずかにこわばる。
「……っ、おい、急にどうした」
珍しくシオンの戸惑った声が響く。
その瞬間、背後から喉の奥で笑いを押し殺すような声がした。
「おお……。こいつぁ…」
バルドが腕を組み、にやにやとこちらを見ていた。
「依頼前に惚気とは、余裕だなシオン」
「……惚気じゃない」
「はいはい、ま、依頼の途中で消えなきゃいーさ」
バルドの茶化すような下品な冗談に、シオンは眉をひそめたまま短く返事をし、私の肩を軽く押して距離を取った。
それから簡単な打ち合わせを終え、私たちはギルドを後にした。
扉をくぐった途端、シオンはやや早足で歩き出す。
「……さっきの、どうした?」
「どうって……感謝、かな」
「感謝って……あんな人前で抱きつく感謝は初めてだぞ」
「いいじゃない、減るもんじゃないし」
「……減らないけど……変な噂は増えるぞ?」
そう言って耳のあたりをかきながら、少しだけ視線を逸らす。
「――別にいいわよ。アンタとなら、いいと思えた」
その瞬間、シオンの歩みがわずかに乱れた。
「……は?」
「聞こえなかった?もう一度言おうか?」
「いや、聞こえた……けど……お前、それでいいのか?」
普段の落ち着いた声が、珍しく引っかかるように揺れている。
「ええ、もちろん」
からかうように視線を向けると、彼は視線を逸らし、耳のあたりを掻いた。
「え?おまえ、なにを…」
その狼狽ぶりに、思わず口元が緩む。
――ああ、やっとだ。
いつも私を翻弄してくるこの男を、初めて言葉で翻弄してやった。
気づけばリシェルから彼の唇に軽く唇を重ねていた。
勝ち誇るように微笑むと、彼はまだ戸惑いを隠せないまま、わざとらしく咳払いをする。
私はそのまま前を向き、少し鼻歌まじりに歩き出す。
隣では、戸惑うシオンがついてくる。
「……なんか今日はペースが狂う…」
「そうね。たまにはこういう日があってもいいでしょ?」
振り返らずに言うと、彼は小さく息を吐き、肩をすくめた。
夕暮れの風が心地よく頬を撫で、遠くで祭りの準備に追われた喧騒が聞こえる。
それは、昼間の張りつめた空気を洗い流してくれるようだった。
「……まあ、悪くない一日だった」
「でしょ?」
ほんの一瞬、歩調がそろう。
その重なった足音が、なんとなく心地よかった。
読んでくださりありがとうございます。




