第二話前半
あれから一月、馬上の旅は続いていた。
西日が傾き、海風が潮の香りと港町の喧騒を運んでくる。
黒髪の青年──シオン・ナイトフィードは、馬上で無言のまま前を見据えていた。
その隣には、褐色の肌と金の髪を揺らす美女──リシェル。鎖骨から胸元にかけて刻まれた隷属紋は、夕陽を受けて鈍く光っている。
この街ではまだ、二人の噂は届いていない。
ようやく噂の届かない地まで到着したのだ。
だが、通りすがる人々の視線はリシェルよりも、その隷属紋に向けられていた。
──あの美女は、あの男の所有物だ。
視線が、そう納得する様を告げているようだった。
「ねぇシオン、あそこの屋台寄ってもいい?」
リシェルが指差すのは、街道沿いの露店。焼き貝、干物、香辛料……色とりどりの品に目を輝かせている。
「わかった。」
意気揚々と馬を降りたリシェルは、貝を焼く匂いに釣られて駆け足で露店を巡る。
「私、昔から魚介が好きなのよぉ。」
と上機嫌にリシェルが笑う。
やがて両手に焼き貝の串を抱えて戻ってくると、片方を差し出した。
「ほら、あーん──」
熱々の汁がシオンの頬に飛び、彼は眉をひそめる。
「……熱っ」
「ご、ごめん!」
「いいよ。大したことでもないし。にしても、コレ、美味いな。」
「うん!でしょ!買ってくれてありがとね!」
リシェルの満面の笑顔にシオンは息を詰まらせた。
やがて、港町アーヴェルンの門が近づくと、門番の視線がリシェルに流れる。
その目には好奇心と、わずかな警戒が混じっていた。
シオンは彼らの視線を真正面から受け止め、低く告げる。
「俺の連れに不躾な視線を投げるな。不愉快だ」
「あ、ああ、すまん。」
門番は一瞬たじろぎ、すぐに道を開けた。
「……そんな言い方しなくても」
「だが、不快だろ?」
「……まぁ、そうだけど」
「なら、文句はないだろ?」
「はいはい、わかりましたよ、ご主人様」
港町アーヴェルンは、夕刻の喧騒で満ちていた。
波止場からは荷を積む船員たちの掛け声、魚市場からは威勢のいい商人の呼び声が響き、香辛料と潮の匂いが入り混じっている。
厩ギルドに馬を返し、2人は徒歩で大通りを進む。
その横でリシェルは、あっちを見ては「わぁ」、こっちを見ては「すごーい」と目を輝かせる。
足が止まりそうになるたび、シオンが軽く腕を引いて歩かせた。
「ねぇ、あそこの串焼き……」
「さっき食ったばかりだろ」
「別腹ってやつよ。ちょっとだけ寄ろ?」
「却下だ」
「お願い〜」
「大人しくついてこい」
「……むぅ。もう一ヶ月も一緒にいるんだし自由にさせてくれてもいいじゃない!」
「却下だ。」
そのやり取りの最中、路地から数人の若い船員が現れた。
彼らはリシェルの胸元の隷属紋に気づき、下卑た笑みを浮かべる。
「よぉ、嬢ちゃん。ご主人様は俺らと交渉する気はないか、聞いてくれねーか?」
シオンは無言で一歩前に出る。
視線だけで船員たちを射抜き、低く鋭く告げた。
「交渉する気はない。二度と声を掛けるな。」
空気が一瞬、凍る。
船員たちは鼻で笑いながらも、一歩下がって去っていった。
「……さっきからやりすぎじゃない?」
シオンはリシェルを一瞥し、淡々と告げる。
「……お前は目を引くんだ。気をつけろ」
その言葉に、リシェルは一瞬、胸の奥が熱くなるのを感じた。
(……そんなふうに思ってくれてるんだ。ふふ、そんなに私を独占したいの?)
なんて考えながらリシェルは口元だけで小さく笑った。
やがて、港沿いの宿屋を見つけた頃には空は群青に染まっていた。
店主がかなり高めの料金を告げると、リシェルはすぐにシオンの背中に回る。
「……こんな高いとこ大丈夫なの?」
「当たり前だ。お前は宿泊費がかからないからな」
「はぁ? それどういう意味」
「所有物」
シオンは自分とリシェルを交互に指さしてにやりと笑う
「……っ! アンタねぇ!」
「ギルド的には動く荷物って扱いらしいぞ。」
「荷物が勝手に歩いて喋ったらびっくりするわよ!」
「確かにな。まっ、それでも荷物だな」
「じゃあ今度から運搬料を請求するわよ?」
「俺の物が俺に請求する気か」
「物じゃないって言って!」
「……あははは!」
そう言いながらも、シオンは二人分きっちりと宿代を支払った。
物だと言い張っておきながら、扱いは人としてのそれだ。言葉と裏腹に扱いは丁寧だったりする。リシェルはその背中を見つめ、ふっと口元を緩める。この一ヶ月でこんなやりとりばかりだ。リシェルにとってこのやりとりも不快ではなかった。むしろ……。
(……やっぱり、悪くないかも)
そんなふうに思っていた。そして、夜になれば毎晩のように求められリシェルからも求める。
やがて夜が明け、港町アーヴェルンの空は早朝の光に包まれていた。
遠くからカモメの鳴き声が響き、潮の香りが開け放した窓から流れ込む。
リシェルは布団の中で小さく身じろぎした。
肌に残る熱と、昨夜の記憶が鮮明によみがえる。
(……あたし、どうかしてる)
胸の奥がじんと熱くなる。すぐに心の中で言い訳が浮かぶ。
(これも……隷属紋のせい…)
そう思えば、少しは楽になれる気がした。
ベッドの端で腰を上げると、既に支度を整えたシオンが窓辺に立っていた。
「起きたか。朝飯を済ませたら出るぞ」
リシェルの葛藤を嘲笑うかのようにシオンは憎らしいほどに平然としていた。
「……あんた、本当に朝から平気な顔して」
「……大切なものは手に入ってるしな…。」
そこで少しシオンの顔が曇る。一瞬のことではあるが度々そういった表情を見せる
その表情の陰りには気づいていたリシェルだがその意味は分からなかった。
ふと、シオンの言葉を思い返す。
大切なものって言うのが自分のことだと理解すると、リシェルの心臓が一瞬跳ねる。
「……言うわね。あたしが戦利品ってこと?」
「そうかもな。」
「なら、とびきり高価な代物よね!」
「そうだな。 大事にしないとな」
シオンは優しく満足そうに微笑んだ。リシェルはその眩しい笑みを照れる感情から見続けることができなくなり、誤魔化すように髪を払って誤魔化す。
(まったく……夜はあんな要求しときながら、朝になるとこれなんだから。嫌われようとする素振りは見せるくせに…。)
リシェルは小さく息を吐き、外套の襟を直した。
潮の香りが混ざる冷たい空気に、胸の奥だけが妙に熱い。そんな思いを胸に抱きながら支度を整える。
先に廊下へ出たシオンが、軽く振り返って顎をしゃくる。
「どうした?」
「なにもないわ…ただ…」
視線が重なっただけで胸が詰まり、言葉が続かない。慌てて階段へと足を向けた。
「ただ、なんだよ?」
背後から追いかけてくる声。振り返れずに、リシェルは小さく答える。
「……なんでもない」
「そうか……恨みたいなら恨んでくれて構わないから」
「え?」
弱々しいその声に、胸の奥がかき乱される。
一階に降り立つと、港町の朝の活気が一気に押し寄せてきた。潮の匂い、焼きたてのパンの甘い香り、荷を担ぐ人々の声。それらは賑やかで力強いのに、リシェルの胸のざわめきは静まらない。
「ん?焼きたての看板が出てる。」
通りの角を指差すシオンの声に、リシェルは思わず笑みを浮かべる。
「……ふふ、いいわね」
扉を開くと、湯気を立てる黄金色のパンがずらりと並び、小麦の甘い香りが迎えてくれる。やがてその温が心の奥に残った影を溶かしていく。
「どれにする?」
「うーん……あれ、いい匂い」
指差した丸パンをシオンはためらいなく二つ買い、紙袋を差し出す。
「あ、ありがとう」
「おう。残したら食うから安心しろ」
「ぷっ、なにそれ。別に残さないわよ。でも、わかった。ありがと。」
「あぁ。まっ、俺は優しいからな!」
「あははは、ほんと何よそれ。……もう。優しさならもっと別に使ってよね。」
そんなやり取りに、頬が自然と緩んでしまう。
(恨まれようとするくせに、優しくしてくる。)
突き放すようでいて、温もりをくれる。
胸に広がるこの感情の正体を、リシェルはまだ言葉にできない。
ただ、心が揺れて、苦しくも温かいその感覚に、自分が強く囚われていることだけは確かだった。
二人は港町を抜け、ギルドへ向かって歩きながらパンをかじる。
焼きたての熱が広がりとてもおいしい。
「……あったかい」リシェルが呟くと、
「そりゃ焼きたてだしな」とシオンが笑う。
「もう!そうじゃなくて……」言いかけて、視線を落とし、パンをもう一口かじる。
横で歩くシオンは、何も言わずに少しだけリシェルの歩幅に速度を合わせた。
リシェルには港町の喧騒と焼きたてパンの香り。
それに、隣で歩く彼の足音が、どうしようもなく心地よかった。
その後、二人は港町の大通りを抜け、ギルドの重厚な扉の前に立った。
往来には依頼を終えた冒険者たちが集い、武器の金属音や笑い声が混ざり合っている。
革鎧の匂い、酒場から漏れるざわめき……それらは、かつてリシェル自身も当たり前のようにいた場所の空気だ。
だが、今は違う。
先ほどまでの温かかった所から急に色を失ったような場所。
扉を押し開けて中へ踏み入れた瞬間、ざっと視線が集まる。多くは一瞬で興味を失い、それぞれの会話や作業に戻っていく。
だが、いくつかは粘つくように彼女に留まり、隷属紋を見ては、刻まれたリシェルがどんな醜態を晒しているのか……そんな想像をしては、口元に薄く笑みを浮かべる。隷属紋とは、実際にそういう用途で使われている。
犯罪者が生き残るために与えられた烙印、誇りを失った者の証。それが隷属紋だ。
露骨に舐めるような視線、値踏みするような眼差し。
それらは軽蔑とも好奇ともつかぬ熱を帯び、彼女の肌を撫でるように這い上がってきた。
羞恥、苛立ち、そして自嘲――幾つもの感情が同時に胸の奥でせめぎ合う。
彼女はそれを表に出さないよう、視線をまっすぐ前に向ける。
だが、わずかに肩が強張る仕草を、後ろを歩くシオンは見逃さなかった。
「……気にすんな」
「なっ……! 気にしてなんかないわよ!」
思わず振り返って抗議するリシェルに、シオンは口の端を上げる。
「だったら命令だ――堂々と歩け、リシェル」
その言葉が発せられた瞬間、胸奥に焼き印のような熱が走る。
隷属の制約が全身を縛りつけ、足が自然と前へ出た。
背筋が伸び、視線は真っ直ぐに――逆らおうとしても、体は命令に従ってしまう。
「なんで命令なのよ!」
「お前がうつむいて歩く必要なんてない。それだけだ」
そう言って歩調を合わせ、わざと人目を引くように彼女の背を軽く押す。
「ちょっ……やめ……!」と慌てる声は、先ほどまでの硬さを薄め、わずかに笑みを含んでいた。
「ほんと…ばか…」
石造りの壁が外の光を遮り、ギルド内は薄暗く落ち着いた空気に包まれる。
それでも、背後からの視線は完全には消えない。
だけど、自分の隣にはシオンがいる。彼なら私を守ってくれると思うとリシェルの足取りは少しだけ軽くなった。
カウンターの奥では受付嬢が営業用の笑顔を浮かべていた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」
「再登録を頼む。何もなければこの港町を拠点にするつもりだ」
シオンが冒険者証を差し出すと、受付嬢は慣れた手つきで確認し、帳簿に目を落とす。
「はい、ではこちらに署名を……」
その横で、リシェルが一歩前に出た。
「じゃあ、私も登録を――」
「かしこまりました――失礼ですが、ギルドカードを拝見しても?」
受付嬢の笑みは変わらないが、視線がわずかに胸元の隷属紋を見る。
リシェルは胸に手を差し入れ、谷間からカードをつまみ出す。
その瞬間、シオンの視線が一瞬そこに流れたのを敏感に感じ取り、リシェルはふっと口角を上げて得意げな顔になる。
「……お前、バカなのか?」
「はぁ!? 今のどこが?!」
「胸元からカード出すとか、完全に見せつけてんじゃねーか」
「なっ……そ、そんなつもりじゃ――」
「じゃあなんでそんな得意げな顔してんだよ」
「……っ!」
顔を赤くし、言葉に詰まるリシェルを見て、シオンはニヤリと笑った。
そんなやり取りの最中、受付嬢がカードを受け取り、目を通した瞬間、淡々と言い放った。
「あなたは再登録の必要はありません」
「え、なんで!?」
「そのカードはすでに“所有物”として登録されています。」
リシェルの得意げだった表情がピタリと止まり、わずかに眉と頬が引きつる。
シオンは小さく笑い、肩をすくめた。
「ほら、言っただろ」
リシェルは受付嬢のあっさりとした一言に、ギルド内のざわめきが一瞬だけ耳に届かなくなった。
その場の空気が遠のき、自分だけが取り残されたような感覚。
「……は?」
呆けた声が思わず口から漏れる。
シオンはというと、まるで自分には関係ないとでも言いたげに肩をすくめ、軽い笑みを浮かべていた。
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない!」
リシェルは机に身を乗り出し、受付嬢とシオンの間に割って入るようにして詰め寄る。
周囲の冒険者が気配を消して耳をそばだてているが、今の彼女には関係なかった。
「契約のあとかな? あの後、宿に着く前に話したはずだが?」
「なっ!! あんな状態の時に覚えてるわけないでしょ!」
思わず声が大きくなり、後ろの席からくすくす笑いが漏れる。
シオンはわざとらしく顎をさすり、遠い目をしてみせた。
「……あぁ、そうだな」と呟き、リシェルの反応を楽しんでいる。
受付嬢は、慣れているのか半ば呆れた笑みを浮かべつつ、淡々と書類をまとめる。
「……お二人とも、仲がよろしいようで。では、登録はシオン様のみで完了いたします」
「仲いいわけないでしょ!」
小声で突っ込むリシェルに呟くようにシオンは同意を示した。
「……そうだな」
「だから仲良くなんて――え?今なんて…」
シオンは言葉を続けず、ただ口角をわずかに上げて肩をすくめる。
その曖昧な仕草だけで、リシェルの心はざわついた。
(睨み返すつもりだったのになんなのよ!)
後ろで見ていた冒険者の一人が、「リア充爆ぜろ」とブツブツと呪詛を振りまいていた。
リシェルは反射的に振り向いて睨むと深くため息をつく。
「……もう、わかったわよ! それでいい!」
投げやりな言葉を吐いた。
そんなリシェルをシオンは曖昧な笑みを浮かべ、肩をすくめて笑うのだった。
「で、腕慣らしにちょうどいい依頼はないか?」
カウンターに肘をつきながら、シオンがギルドの受付に声をかける。
受付嬢はにこやかにシオンの情報を読む。
「えーと、等級は…うわっ?!すごい!一流なんですね!」
その後、数枚の依頼票を手元で仕分け、その中から一枚を差し出す。
「うーん…シオン様なら――こちらはいかがでしょう。近くの倉庫で魔物の目撃情報です。ここからも近いですし、腕慣らしには最適かと」
シオンは依頼票を受け取り、一瞥して口元をわずかに吊り上げた。
「……悪くないな」
シオンが署名を終え、依頼票を置く。
その直後、リシェルも名を連ねようとしたが、シオンが横目で見て口を開く。
「お前の署名はいらないぞ?」
「は?」
「俺が受ければ、お前は自動的に同行扱いだ。……俺の荷物だからな」
「……っ!」
リシェルは息を詰め、悔しげに睨み上げる。
「荷物って言うな!」
「はいはい。」
シオンは口の端を吊り上げ、さらに続ける。
「まっ、お前も嬉しいだろ?」
「誰が嬉しいのよ!」
「じゃあ、嫌なのか?」
「べ、べつに……隷属紋で仕方なく従わされてるだけよ!」
「へぇ?」
シオンがわざと興味深そうに顔を近づける。
「……な、なによ」
「……そういうことにしといてやるよ」
シオンが軽く鼻を鳴らす。
そのやり取りを横目で見ていた近くの冒険者二人が、ひそひそと声を交わしていた。
リシェルの耳にうっすら届いたその会話に、頬がわずかに熱を帯びる。
「な、なに勝手なこと言ってんのよ、あのおっさん……!」
小声で呟くが、それに気づいたシオンがからかってきそうであわてて口をつぐんだ。
受付嬢はそんな二人を見送りながら、柔らかな笑みを浮かべる。
「では、お気をつけて、行ってらっしゃい」
こうして再登録早々、シオンの腕慣らしも兼ねた依頼が始まる。
もちろん、リシェルも本人の意思に関係なく――。
※
波止場に夜の帳が降りる頃、港の空気は潮の匂いを孕んだ重たい風に包まれていた。倉庫街の灯りはまばらで、海鳴りと船の軋む音が闇の奥に沈んでいる。
その静寂を破ったのは、甲高い金属音だった。
「──来るぞ!」
シオンが低く叫ぶと同時に、甲殻を擦り合わせるような耳障りな異音が近づく。倉庫の隙間から、湿った闇をかき分けるように数体の魔物が現れた。濡れた外殻が月光を弾き、無数の脚が石畳を打ち鳴らす。
リシェルは腰の短剣を抜き、迷わず前へ出る。
「この程度なら楽勝よ!」
挑発めいた笑みを浮かべると同時に、一体が正面から突進してきた。鋏のような腕が振り下ろされ、風を裂く。リシェルは半歩横にずれて回避、そのまま甲殻の継ぎ目に刃を滑り込ませた。鈍い感触とともに鋏が飛び、夜気に溶けた。
「リシェル、後ろだ!」
振り返るより早く、シオンの双剣が閃き、迫る魔物の脚を根元から断ち切った。血飛沫すら浴びずに、彼は流麗な動きで構えを崩さない。
リシェルは一瞬だけ笑みを深めた。
「……やるじゃない」
その勢いのまま2人で十数体の魔物を狩る。
倉庫付近にいたモンスターを討伐し終えた瞬間、倉庫の奥から巨体が影を揺らして突進してくる。他より一回りも二回りも大きく、甲殻が擦れる低い唸りが地面を震わせた。
リシェルは迎撃に動く──はずだった。だが、足元の瓦礫に足を取られ、わずかに体勢が崩れる。
「──っ!」
迫る巨影。鋏が月光を反射し、視界を覆ったその瞬間、シオンの腕が彼女の腰を引き寄せた。強い力で引き寄せられ、魔物の突進が空を切る。
至近距離で、熱を帯びた息が耳にかかる。
「……油断するな」
鋭い声が、まるで刃のように胸に突き刺さる。
リシェルは一瞬だけ心臓が跳ねるのを感じ、視線を逸らした。気まずさを誤魔化すように、かすかに笑みを作る。
「……ありがと」
その声は、戦場の喧騒の中でも妙に柔らかく響いた。
二人は視線を交わすと、大型の魔物へ向かって駆け出した。
巨体の魔物は、八本の脚を大きく広げ、二人へとじりじり迫ってきた。
甲殻に覆われた頭部が低く沈み、紅い複眼が獲物を射抜くようにぎらりと光る。
夜気が張り詰め、潮の匂いが鼻を突く。
「脚を狙う!」
シオンの短い意思表示と同時に、彼は左へ、リシェルは右へと駆け出した。
魔物は即座に反応し、鋏を振り下ろす。
空気が裂ける音が耳を打ち、シオンが片手を払うように振ると瞬時に魔力が集まり分厚い盾が形を成す。
迫る鋏をその盾で受け止め、弾き返す。
跳ねた鋏が荒唐無稽な場所に振り下ろされ、鈍い衝撃音と共に地面が抉れ、砂塵が舞い上がった。
その一瞬の死角を突くように、リシェルが地面を蹴って低く滑り込み、脚の関節へ双短剣を突き立てた。
硬い手応えの直後、甲殻が割れ、黒い液体が勢いよく吹き出した。
魔物は甲高い悲鳴を上げ、頭部を振り回す。
怒り狂った魔物が巨体を持ち上げ、脚を乱暴に振り払う。
その一撃が地面を叩き割り、石片が弾丸のように飛び散る。
リシェルは軽やかに後方へ跳び、破片を避けながら着地した。
シオンはその隙を見逃さない。
即座に盾を消し手元に魔力を凝縮させると、巨大なハンマーを錬成する。
柄だけで彼の背丈を超え、先端の金属塊は月明かりを浴びて鈍く輝く。
大きく振りかぶった瞬間、足元の石畳が軋み、空気が唸りを上げる。
「──砕けろ!」
全身の力と共に振り下ろされた一撃が、甲殻を粉砕し紫電をはしらせ轟音を響かせた。
衝撃波が周囲に走り、砕けた殻片が飛び散る。
巨体はぐらつく。
しかし、まだ終わらない。
バランスを崩したまま魔物が鋏を唸らせ襲いかかる。
シオンは腰を沈め、瞬時に二刀剣を錬成して交差させ、その力をいなした。
火花が散り、甲殻のきしむ音が耳に響く。
「今だ!」
シオンの声が戦場を突き抜ける。
リシェルは瓦礫を踏み台に跳び上がり、月明かりを背負って一直線に魔物へと迫る。
片方の短剣を露出した柔らかな肉へ深々と突き刺し、もう一方でその奥を一閃、内部で風の魔法を発動させる──鋭い切り裂き音が魔物を両断した。
2つに分かれた巨体が地響きを立てて崩れ落ちる。
衝撃で周囲の瓦礫が跳ね、静寂が訪れた。
荒い息を吐きながら、二人は互いを見やった。
シオンは武器を魔力の粒子へと還し、安堵の笑みを浮かべる。
リシェルの背後には、煌々と丸い月が夜空を照らしていた。
「……月の女神みたいだ」
思わず零れた言葉に、シオンは自分で口を塞ぎ、耳まで赤く染める。
「っ……は、はぁ!? な、なにそれ……」
リシェルはそんなシオンに気づくことなく思わず後ずさり、彼女も耳まで赤くなってうつむく。
「そ、そんなこと……言うなんて……」
唇を噛み、視線を泳がせながらも、頬が緩むのを止められない。
「……ばか」
小さく呟いた声は、潮騒と夜風に溶けて消えていった。
そんな中、どうにか自分を落ち着けたシオンが疑問を口にする。
「にしても、これだけの魔物が引き寄せられるなんて普通じゃないな……」
戦いの余韻を残したまま、シオンが倉庫の方へ鋭い視線を向ける。
リシェルも短剣を収め、少し息を整えて頷いた。
「ええ……何か原因があると思うわ。」
リシェルの言葉にシオンが頷く。
「あの倉庫、怪しいわね。」
「……捜索したほうがいいよな?」
シオンが短く言うと、リシェルは腕を組み、小さく息を吐いた。
「そうね。どうせ放っておいても、また同じことが起きるだけだし」
「だよな。被害を考えると、原因を突き止める価値はあるよな。」
「うん……しかたないわね。依頼以上の仕事になるけど中に入って調べましょう」
二人は頷き合い、重い扉へと歩み寄った。シオンが押し開けた扉の向こうには、薄暗く静まり返った倉庫の内部が広がっていた──
倉庫の中は思った以上に整理されており、非常に行動しやすい。持ち主は几帳面な性格だったのだろう。
そんな中、倉庫の奥、古びた棚の上にぽつんと置かれた拳大の水晶玉が、淡く揺らめく光を放っていた。
その光は呼吸するかのように脈打ち、周囲の影を優しく揺らしている。
「……綺麗……」
リシェルは無意識のうちに歩み寄っていた。瞳は光を映して揺らめき、まるで夢の中を漂っているようだ。
「おい、待てリシェル。」
シオンが慌てて手を伸ばすが届かない。
リシェルの指先が水晶玉に触れる。
瞬間、光がぱっと弾け、彼女の胸元に刻まれた隷属紋が一瞬だけ眩く輝いた。
「……っ」
わずかに虚ろな表情を浮かべたが、次の瞬間には元の彼女に戻っていた。
「……あれ? 私、今……何を……」
首を傾げるリシェルに、シオンが駆け寄って肩を掴む。
「大丈夫か!?」
「え……? うん、大丈夫よ。ただ、あんまりにも綺麗だったから……気づいたら触って…」
「気づいたらって……。危ないだろ」
シオンの真剣な目に見つめられ、リシェルは少しだけ唇を尖らせる。
「ふーーーん。そんなに心配してくれるなんて、優しいのね」
「からかうな、ホントに何もないんだな?」
「ふふっ、大丈夫よ。」
リシェルはシオンがそこまで必死になるなんて思ってなかった。それが妙に嬉しく感じた。
シオンはふと我に返り耳まで赤くして視線を逸らし、水晶玉を慎重に包む。
「と…とにかく、これは持ち帰る。原因は……まだ別にあるのかもしれないし探索を続けるぞ。」
「はいはい、頼れるご主人様」
二人は倉庫のさらに奥へ進んだ。
「……足跡があるな」
シオンが床の埃を指差す。そう新しくもない足跡が棚の裏手へと続いている。
「ここ、ただの倉庫じゃなさそうね」
リシェルは腰の短剣に軽く手を添えながら、シオンの隣に並ぶ。
棚をずらすと、そこには隠し扉のような板張りの壁が現れた。わずかな隙間から、ほの暗い光が漏れている。
「開けるぞ」
シオンが手に錬成した大鎚で扉をぶち破ると、奥には簡素な作業机といくつかの書類、そして魔法陣が描かれた台座があった。
その上には黒い金属で作られた指輪がひとつ置かれている。
「……これが、魔物を引き寄せてた原因?」
リシェルが近づこうとすると、シオンが腕を伸ばして制した。
「待て。魔法陣に踏み込むな」
「……あら、さっきは止めてくれなかったのに?」
「間に合わなかったんだ。だから今度は止めてるだろ」
「ふふ、ありがとう」
シオンは大槌から細長い棒へと変化させる。
それは魔力を凝縮して形作ったもので、伸縮自在に音もなく台座の上に伸びると、指輪を引っ掛けて手元まで引き寄せた。
それと同時に床に描かれた魔法陣がきえる。
「……これは一体なんだ?」
シオンは指輪を手に取り、机の上に置かれた書類に目を通した。
そこには複雑な魔法式とともに、魔物を引き寄せる術式の説明が記されていた。
「……この装置が魔物を呼び寄せてたみたいね」
「そうだな。装置の核が指輪だったてことで原因は分かった。ギルドに戻って報告しよう」
シオンは古びた指輪を袋に入れてその口を固く結んだ。
「ええ、そうね。さっさと片付けて休ませてもらうわ」
リシェルは背を伸ばし、ふうっと息を吐く。
「どうした?何か不調が出たのか?」
シオンの焦った声がリシェルにとって妙に心地よかった。
「ないわよ。この一晩でどれだけ働かされたと思ってるの?」
「あぁ、そういう事か…まっ、俺も疲れてるけど……」
「じゃあ、一緒に寝る?」
「え…?」
シオンはその呟きを取り繕うようにゆっくりと歩み寄る。
「……じゃあ帰ったら、何をしてもらおうか?」
「――っ!?」
意味を瞬時に理解したリシェルの肩がびくりと震え、耳の先まで赤く染まる。隷属紋の熱がじわじわと強まった。
「ま、まさか……そ、それって……!」
シオンは口角をわずかに上げ、視線を絡めたまま低く囁く。
「期待した?」
シオンが意地悪に笑う。
「っ……だ、誰がそんな……!」
否定しようとする声は裏返り、足がわずかに後ずさる。
その反応に、シオンの目はますます愉しげに細まった。
「冗談だよ。……帰ったらゆっくり休んでくれ」
「~~っ……!」
リシェルは悔しそうに唇を噛み、赤い顔を隠したまま早足に倉庫を出た。
外気の冷たさが頬に触れても、その熱は収まらなかった。
後半へ続く
読んでくださり、ありがとうございました。
最終話まで無事に書き上げることができましたので、テンポよく投稿していければと考えています。
後日談として続編を描く予定ではありますが、最終話をもって一旦連載は終了とさせていただきます。