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後日談3-12

〜リシェルSide〜


グロマーズに連れられて城の奥へと向かう。階を下りそれなりに歩くと威厳のある扉がそこにあった。


重厚な扉が低い軋みを立て開く。


グロマーズはその前で深く一礼し、静かな声で告げる。


「申し訳ございません。私がお連れできるのはここまでです。ここから先はエルシェリア様お一人でお願いいたします。」


「……わかりました。」


ここから先が「国民憲章」の眠る領域。部外秘だと聞かされていた。立ち入れる者が限られるのも当然のことだ。


ふいにグロマーズが「あっ」と声を漏らし、思い出したように顔を上げた。


「エルシェリア様、大変失礼いたしました。主より必ずお伝えするよう申し付けられていたことを忘れておりました。」


「それは?」


「この部屋の内部では、すべての魔法が無効化されます。秘宝を盗み出されぬよう、また忍び込まれぬように施された措置です。そして――宗主不在の折にご不安もあろうと、主より武器の持ち込みを許可せよとの仰せで。こちらのナイフをどうぞ。」


腰から外した短剣が差し出される。


「……ご配慮、感謝いたします。確かに、男女二人きりとなれば――余計な憶測を避けるためにも、武器は持っていた方が良いですわね。」


「はい、そのとおりかと。」


「ですが……ナイフより、その剣をお借りしても?」


「こちらを、ですか? かなり重いですが……」


「冒険者をしておりました。剣の方が、馴染みます。」


「かしこまりました。」


ためらいもなく、グロマーズは腰の剣を外し、両手で恭しく差し出した。

リシェルがそれを受け取ると、彼は深く一礼して下がった。


「私は扉の外に控えております。外敵があっても必ず守り通しますのでご安心を。」


剣を帯びたリシェルは静かに室内へと足を踏み入れる。


――途端に、空気が変わった。


重たい静寂と、圧し掛かるような威圧感。

室内は広くはないが、壁際には武具、鎧、宝飾品、古文書、織物……ありとあらゆる「価値あるもの」が整然と並んでいた。まさに宝物庫。


床には淡く明滅を繰り返す術式が刻まれていた。光が脈打つように揺らぎ、呼吸する生き物のように存在を主張している。


(古代術式……? ……信じられない。これほどのものが実在するなんて……)


リシェルは思わず胸の奥が震えるのを感じた。王都ですら見たことのない術式。トップシークレットとされる国民憲章がここに秘されているのも納得できる。


そして――その奥。


読書台の傍らに立つフレイグの姿があった。

台の上には、拳より厚い一冊の本が静かに置かれている。


「ご足労いただき、ありがとうございます。」


「……いえ。妹のためですから。」


素っ気なく答える。だがフレイグは笑みを崩さず、読書台を示した。


「こちらがお話していた物です。」


「これが……?!」


リシェルは目を見開いた。無造作に置かれたその本こそ、国民憲章だというのか。存在そのものが重く、視線を逸らせない。


「分厚いでしょう? 私も初めて目にしたときは驚きました。ですが、本物です。」


「……すみません、想像を超えており驚きました。無礼な態度を謝罪いたします。」


「いえいえ。誰もがそう思うでしょう。それではお読みください。」


フレイグが本を開いた、その瞬間。


プシュッ――乾いた音が響き、霧状の液体が弾けた。


「っ……!」


反射的に顔を背ける。しかし一瞬で甘い香りが鼻腔に入り込み、肺へと侵入していく。

熱が喉を焼き、胸の奥で脈が跳ねた。


「おっと。これは失礼。防犯用の最後の罠を解除し忘れておりました。」


「……白々しい……っ!」


ドクリ。ドクリ。ドクリ。

鼓動が早鐘のように鳴り響く。

血が熱を帯び、皮膚の下を走る。呼吸は浅く荒く、肺が空気を欲して悲鳴を上げる。


「なにを……したの……」


「ただの媚薬ですよ。命に関わるものではありません。むしろこれからは、切っても切れぬものになるでしょう。」


フレイグの口元に、下卑た笑みが広がる。

ぞわりと背筋に寒気が走る。だが体は火を噴いたように熱い。


「きさまぁああああ!!!」


怒声と共に、リシェルは剣を抜いた。

だが刃を握る手は汗でじっとりと濡れ、わずかに震えている。


「おお、怖い怖い。さすが冒険者殿。ナイフより剣を選ぶとは。」


余裕を崩さぬ態度。視線がぞんざいにリシェルの体を舐める。


「はぁ……っ、はぁ……っ……う、ぐ……」


胸が焼けるようだ。呼吸のたびに肺が痺れる。

足に力を込めようとしても膝ががくつき、剣先が揺らぐ。


「どうしました? 随分と息が荒い。」


「おまえ……っ」


「辛いなら――手を貸しましょうか?」


フレイグが歩み寄る。

リシェルは必死に剣を突きつけ、睨み据えた。


「……それ以上、近づくな……!」


「ほぉ。まだ耐えると?ドラゴンでも発情する代物なんですがね。」


鼓動は爆ぜるように強まり、耳の奥で自分の心音が轟く。

視界が滲み、光が揺らめく。剣を握る手が痺れ、感覚が薄れていく。


だが――これは知っている。

もっと強烈なものを何度も経験している。魂を焼き尽くすような、あの圧倒的な衝動。

あれに比べれば、この程度……まだ、耐えられる。


「……褒め言葉のつもり? 最低ね……」


「ふふ。まぁ、いいでしょう。欲しければいつでも言ってください。その時は貴女が私を望んだということですからね。」


リシェルは膝をつき、剣に体を預けた。

額から汗が滴り、口端から涎が零れ落ちる。それを腕で乱暴に拭い、鋭い瞳だけを残す。


――鋼の意志で、ただ耐える。




〜シオンSide〜




リシェルが重厚な扉の奥へ姿を消したあと、部屋には三人が残された。

静けさの中、なぜかエルファリアは部屋に戻らず、ぽぉーっと自分の手を見つめている。


「エルファリア?」


シオンが声をかけると、彼女は一瞬だけ顔を上げた。

「……大丈夫です」

それだけを答えると、再び視線を落とし、手の甲を眺め続ける。席に座ろうともせず、まるで心ここにあらずといった様子。


扱いに困ったシオンが眉を寄せていると、隣で椅子に腰掛けていたエルメキアが口を開いた。


「ねー、シオン? 僕、エルファリアに触れてもいいかな?」


「……それって記憶を覗くって意味か?」


「うん。本人に確認してみたんだけど、『大丈夫』ってしか言わないんだよね。これって、どっちだい?」


「おいおい……マジかよ。さっきからそれしか言ってねぇじゃねぇか。」


「さすがにおかしいよね?」


「はぁ……。わかった。頼む。」


「うん。」


エルメキアはそっとエルファリアの頭に手を置き、瞼を閉じる。微かな光が彼の掌から広がり、少女の記憶の扉へと触れていく。


やがて、彼女は目を開けるなり顔をしかめた。


「あー……シオンくん、まずい。リシェルちゃん、やばいかも……」


「はっ?! どういうことだ!!」


「この子、催淫されてる。強い薬で思考力を削がれてるみたいだよ。」


その瞬間、シオンの瞳が鋭く光を帯びた。

すっと押し殺していた殺気が、堰を切ったように溢れ出す。


「……そういうことか。」


彼は椅子を蹴って立ち上がり、何も持たぬ手で扉を押し開いた。


廊下に控えていたのはメイドではなく、アルバ国の兵士たち。

彼らはにやけた笑みを浮かべ、形式的に問いかけてきた。


「お客様、どうされました?」


シオンは冷たく告げる。

「リシェルの下へ行きたい。」


「それは困りますなぁ。我々は、貴方方を一歩たりとも外へ出すなと命を受けておりますので。」


「……そうか。わかった。」


「それは結構。さあ、お戻――」


言葉を最後まで言い切るより早く、シオンの蹴りが兵士の顔面に突き刺さった。

鈍い音と共に頭がめり込み、兵士は壁に叩きつけられ、そのまま意識を失う。

後ろに控えていた残りの兵士も剣を抜こうとしたそぶりを見せた瞬間に意識を刈り取られた。


「おい、エルメキア! リシェルの位置はわかるか!?」


「ごめん……僕には無理だ。」


「そうか……」


シオンは短く息を吐き、視線を廊下に立ちすくむメイドへと向けた。

その瞬間、廊下が爆ぜ、目にも留まらぬ速さで彼女の目の前へと躍り出る。


「おい、リシェルはどこだ?」


「ひ、ひぃ……」


「リシェルはどこだと聞いている!」


「あ、ああ……」

メイドは嗚咽混じりに泣き出す。


怒りに任せて振り抜いた拳が壁を粉々に粉砕し、石片と埃がぱらぱらと降り注ぐ。

その轟音にメイドは腰を抜かし、恐怖に目を見開いた。


「……シオン、落ち着いて。僕が見るから。」


エルメキアが、まだ手を見つめ続けるエルファリアを連れ、メイドのもとへ駆け寄る。

「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながらメイドの頭を撫で、再び記憶を覗き込む。


やがて彼女は指先を伸ばし、廊下の奥を指し示した。

「あー、宝物庫だね。ここから……あっちの階段を降りて右手に走ればすぐ。」


「わかった。お前らはサイラスのところに行け。リシェルは俺が迎えに行く。」


「うん……わかった。えっと、シオン。僕たちは外交特使だからね。殺しはダメだよ?」


「わかってる。」


シオンの手に、棍と防具が錬成される。怒りを抑え込むように深く息を吐くと、彼は走り出した。


崩れた壁の音を聞きつけ、兵士たちが続々と廊下に集まる。


「特使様、一体何が――!?」


惨状を目にし、動揺する兵士。


シオンは低く告げる。

「お前たちの王子が、うちの姫に催淫薬を使った。そしてリシェルを連れ去った。」


「そ、そんな……!」


困惑のざわめき。だが若い騎士が槍を構え、背後から突きかかる。


シオンは咄嗟に棍を投げ、額に直撃させて昏倒させた。


「これはどういうことだ……」


まだ、剣を抜かず敵対しない老兵に向けて問う。

老齢の兵士が呻き、若い騎士の顔を見て合点がいったように目を細める。


「申し訳ありません! すぐに宝物庫へご案内を――」


「いや、いい。場所は聞いた。アンタを連れてる余裕はない。敵対しないなら、俺は何もしない。……仲間にそう伝えろ。」


「はっ!」


老兵は敬礼し、兵舎の方へ駆けていく。


シオンは矢のように駆ける。

行く手を塞ぐ兵士を棍で弾き、拳や椅子や花瓶を投げて昏倒させ、廊下を突き進むと一直線に宝物庫へと向かった。


やがて宝物庫へと到着する。そこへ至るまでかなりの数の若い兵が配置されていたが、むしろそれが正規の道を指し示し迷うことなく突き進めた。もちろん鎧袖一触。シオンが通っあとに立ってるものはいなかった。


そして、扉の前にはグロマーズが立ち塞がっていた。


「そこをどいてくれないか?」


一応の言葉を投げる。心にエルメキアの忠告が残っていたからだ。


「済まないが、それはできない。」


グロマーズの体から強者の覇気が立ち上る。

シオンは棍を投げ放った。鋭い軌道を描いたそれを、グロマーズはナイフで逸らし、扉に当たり消える。


グロマーズがそれを確認して、視線を戻した時には――もう遅かった。

僅かな時間、1秒にも満たない視線の移動。


死角から飛び込んだシオンの足が後頭部を直撃し、グロマーズの巨体は床へと倒れ込み、そのまま意識を失った。


アルバ最強の盾は、たったの二手で沈んだ。


シオンは扉に手をかけるが、びくともしない。

最大強化した腕力で殴っても、鉄扉すら歪める拳が簡単に弾かれる。錬成した小手で殴れば通常の結界なら容易く突き破る。投擲した棍でも破れず、手に装着した小手で最大限で殴ってもびくともしない。そうなると考えられるのは古代魔法なみの結界で守られているということ。 


「……仕方ねぇ。」


彼は深く息を吸い込み、棍も小手も消す。両の掌に意識を集中させ、静かに呟いた。


「――亡晨。」


瞬間、夜空そのものを凝縮したような剣が姿を現す。

光と闇がせめぎ合い、星々が飲み込まれるような刃。

それは滅却の名を冠する、彼の象徴する武器だった。


軽く振るうと、扉は砂のように消え、室内の魔法紋も共に掻き消える。それを確認すると亡晨を消し去り奥へと進む。


するとそこには


フレイグに剣を突きつけ、荒い息を吐きながらも必死に己を抑え込んでいるリシェルの姿があった。

赤く染まった頬。震える体を自ら抱きしめ、理性の最後の灯火で相手を拒んでいる。


「貴様……どうやって――」


フレイグが見つめる先で、

シオンは何も言わずリシェルを抱き寄せた。


「リシェル……!」


「……だ、大丈夫……。ただ……ちょっと……あの時に似た感覚になってるだけ……」

胸の上を指で指し、苦しげに笑うリシェル。


その動作が何を意味するのかシオンは理解し瞳が大きく怒りで揺れた。

「……わかった。」


彼はリシェルを丁寧に横たえると、一瞬でフレイグの横に回り込み、拳を振り抜く。

轟音と共に壁へ叩きつけられ、フレイグは一撃で沈む。


シオンは冒険者用の特別な捕縛錠を取り出すとフレイグに嵌め、鎖ごと引きずる。


再びリシェルのもとへ戻ると、その体を大切なものを抱えるように慎重に抱き上げた。


「ありがとう……っ、ん……」


腕の中で艶めかしく身じろぎするリシェルを、シオンは真剣な眼差しで見つめる。


「耐えられるか?」


「……うん、大丈夫……」


「証拠は?」


「……あれ……開いちゃ……ダメ……」


弱々しく、一冊の本を指差す。


「わかった。」


シオンは本を彼女に預け、フレイグの鎖を掴むと、容赦なく引きずり始める。


――怒りと守るべきものを胸に、シオンの歩みは止まらなかった。


シオンはリシェルを抱きかかえ、魔法錠を嵌めたフレイグをずるずると引きずりながら部屋を出てきた。

だが、周囲を取り囲むように兵士たちが集まり始めていた。


シオンの足元には、先ほど戦闘不能にした近衛隊長グロマーズが倒れたままだ。そして、もとは重厚で堅牢だったはずの扉も、跡形もなく吹き飛ばしそこにあった形跡すら残っていない。


そのような現状に


――城内で響いた戦闘音に駆けつけてきた兵。

――王子の命令を受け待機していた兵。

――老兵の伝令で、外交特使を守ろうと集まった兵。


それぞれ立場も思惑も違う三者三様の人々が同じ場に集まり、目の前の光景に困惑を隠せずにいた。


その中から、一人が前に出る。年若いが、兵にしては身なりが整い、鎧や所作に品がある。おそらく騎士の階級にある者だろう。


「貴様! これはどういうことだ!」


鋭い声が廊下に響く。


シオンは心底面倒そうに息を吐き、答えた。


その間も兵士たちは続々と集まり、狭い廊下に圧迫感が満ちていく。


「はぁ……俺の妻に手を出した不逞の輩を捕らえただけだ。」


そう言ってシオンは前に突き出す。

魔法錠で縛られたフレイグ。整った顔立ちは無惨に腫れ上がり、頬骨も鼻骨も砕けている。それでも死には至っていない。むしろ死なぬようポーションで生命力だけは繋いである。


「貴様ぁぁぁ! 我が王になんたる侮辱!!!」


騎士は怒りに燃え、槍を構える――が、その体は次の瞬間、力なく崩れ落ちた。


「……っ!」


周囲がざわめく。

シオンが指先に小さな玉を錬成し、それを軽く弾いて騎士の額に命中させた。気絶させるには十分だった。


兵の間に動揺が広がる。


「敵対するというなら相手をしてやる。だが俺はただ…そこを通りたいだけだ。」


静かに告げられた言葉に、再びざわめきが広がる。

何人かは武器を捨て、武器を持ったものも構えず敵対する動きは出ない。しかし、誰一人として道を譲ろうともしなかった。人の壁はさらに厚みを増し、両者とも身動きが取れなくなっていく。


その時――。


リシェルの胸を焼くような情動はどんどんと強くなる。

以前の“あの時”を経験していなければ、とっくに屈していたかもしれないほどの強い熱。

けれど今、口を開けばどうなるか分かっている。シオンは必ず自分のために暴走する。彼は本気で、命を賭してでも私を守ろうとするだろう。


だから――弱音は吐けない。


だが彼が命をとして守ってくれると認識したのが良くなかったのだろう、胸がどくんと高鳴りより強い情動が体を駆け抜け、息が詰まる。


まずい、と悟ったリシェルはシオンの胸に顔を埋め、ぶつぶつと呪文のように唱え始めた。


「バルドとシオン……バルドとシオン……バルシオ、バルシオ、バルシオ……」


「……俺にその趣味はねぇよ。」


ギョッとする。

意味を理解してしまったからだ。

反射的に答えたシオンにリシェルは耳まで真っ赤に染め、さらに強く彼にしがみついた。


その姿を見て、シオンは「限界が近い」と確信する。


「どかないなら……」


低く呟いた、その瞬間――。


「静まれ! 静まれ!! 何事だ!! どうした!!」


朗々と響く声に、兵たちは一斉に動きを止めた。


「大公閣下!」


兵たちは慌てて道を開ける。

壮年の男がゆったりとした足取りで進み出てシオンの前に現れる。


倒れた騎士。

引きずられるフレイグ。

シオンの足元に転がるグロマーズ。

そして抱きかかえられ、様子がおかしいルーメン国王女エルシェリア。


男は全てを一瞥し、表情を変えぬまま言った。


「まずは治療が必要だ。理由は後で聞こう。」


「わかった。治療は好きにしろ。ただし絶対に逃がすな。逃げたなら地の果てまで追ってでも殺す。」


シオンはフレイグを魔法錠ごと投げ放る。


「殺すとは穏やかでないな。これでもこの国の王子だぞ?」


その言葉に一歩も引かず『だからどうした』という意思を感じさせる目で睨みつけた。


「………本気なのか…わかった。沙汰が下るまで逃がしはしない。――エルシェリア王女の治療は?」


「必要ない。こちらでやる。この状況で信用できるか!」


「はっきりモノを言う。これでも私は大公という地位にあるのだが?」


「知ったことか。さっさと兵を引かせろ。邪魔だ。」


緊張が走り、場の空気が剣呑に変わる――。


「こらこら、シオン君ダメじゃないか! そんな言い方したら、納められる矛も納められなくなるでしょ!」


その声とともに、大公の後ろからエルメキアが姿を現し、軽くシオンの頭に手刀を落とした。

その後ろにはエルファリア、クリスティアナ、エレナ、さらにサイラスと老兵の姿も続いていた。


「あら……リシェルお姉様まで……。こんな強力な催淫薬を使って…まったく悪質ですね。」


エレナはリシェルを見て小さく呟くと、唇に指を当てて一瞬思案する。そして詠唱もなく高位の浄化魔法クリアランスを発動した。


ほどなくリシェルの呼吸が整い、胸を焼いていた情動は霧のように晴れ、熱が消えていく。


「……ありがと、エレナ。シオン、もう大丈夫。」


安堵の息を吐き、シオンはリシェルを降ろす。自ら立ち上がれるようになった彼女に、エルファリアが抱きつきそれにクリスは付き従いリシェルの無事を喜んだ。


「お兄様、この方々も癒して差し上げたほうがよろしいです?」


エレナが可愛らしく小首を傾げる。

その仕草に、サイラスは頬を赤らめ、ぽーっと見とれていた。


シオンは少しだけ考える素振りを見せた。――気絶から復帰してまた襲いかかってこられたら、正直面倒でしかない。


「大公君、どうする? 彼女は真祖討伐の英雄の一人だ。腕前は通常の治癒師より確かだと思うよ?」


エルメキアが軽く肩を竦めて口を挟む。

神竜としての彼女の発言は、アルバ国であっても重みがある。ルーメンでは知られていないが、その存在は外交における最強の切り札の一つだ。もっとも本人はそのことに頓着せず、あくまで「人のことは人が決めるべき」との立場を崩さない。今回の口添えも気まぐれにすぎず、シオン夫婦が関わっていたからこそ、というだけだった。


「真祖を……? あの物語の当事者なのですか?」


大公が思わず丁寧な口調で問いかける。


「そうだよ。」


「では……あれは実話だったのですか?」


「うん。真祖の討伐は、記憶を見せてもらったからね。」


その一言に、兵士たちがどよめいた。

可憐で守ってやりたくなる存在だった少女に、「英雄」という肩書きが加わる。庶民の兵は恐れ多くて目を逸らし、貴族階級の騎士たちは目の色を変えて彼女を見つめる。


そして――一番衝撃を受けたのはサイラスだった。

自分が守るべきだと思っていた“姫”が、実は遥か高みに立つ存在だった。己の実績など比べるまでもない。胸を焼く劣等感に、彼は唇を噛んだ。


「やめてくださいよ、エルメキア様。それ言われるとすごく面倒になるんですから。わかってますよね?」


エレナは否定もせず、ただ「面倒になる」とだけ言う。

それだけで真実であることは示されていた。


大公は即座に理解し、深々と頭を下げる。

「エレナ殿。お願いできるだろうか?」


「や、やめてください! そんなことをせずとも癒しますから。先ほどまでと同じように接していただければ十分です!」


慌てるエレナに、大公は柔らかく微笑み「わかりました」とだけ返した。


「では……すみませんが、この方々を近くに寄せていただけますか?」


声をかけると、騎士たちは我先にと気絶した三人――フレイグ、グロマーズ、そして槍を持った若い騎士――を並べる。エレナはそれを確認し、胸の前で手を組むと目を閉じ、静かに祈りの言葉を紡いだ。


「――フルヒーリング」


眩い光が広がり、三人だけでなく周囲全体を包み込む。

倒れていた兵士たちも次々と癒され、呻き声を上げながら起き上がった。


顔を粉砕されていたグロマーズの鼻も元通りに。

頬骨を陥没させられていたフレイグの顔も整い、

気絶していた騎士の額の赤みも消えていく。


やがて三人は、気を失った記憶もないまま目を覚まし、それぞれ叫んだ。


「しまった!」(グロマーズ)

「しねぇ!」(騎士)

「ひぃっ!」(フレイグ)


言葉だけが飛び出し、体は硬直したまま。

何が起きたのか分からず、ただ呆然とエレナを見つめていた。


「これだけ元気なら、大丈夫そうですね。」


エレナは満足げに微笑み、シオンの元へ駆け寄る。


「シオンお兄様、私頑張りました! 褒めてください! 具体的に言うと……頭を撫でてほしいです!」


突き出された頭に、シオンは呆気に取られる。思わずリシェルに視線を向けると、彼女はため息をついて小さく頷いた。

仕方なくシオンはエレナの頭を撫で、礼を述べる。


「クリス、アンタどんな無茶したの? なんか幼児退行してるわよ?」


「あははー……おかしいですわねぇ……。お姉様方とお会いする前は普通でしたのに。」


エレナは極限の精神状態に陥った中で体力的にも精神的にも限界を迎える旅に誘われ、もう限界というタイミングでシオン達に合流した。その後の天上の生活、食に困ることもなく命を失う心配もない。シオンから家族だと言ってもらい全てを捨てて来た価値も見出せた。

何度もシオンに拒絶されたがリシェルが口利きし取り持った事でリシェルに対しても従順になった。


エレナの性格は自然と再形成されていた。以前と同じ無自覚な小悪魔ではあるがシオンとリシェルに対しては非常に従順な妹としてその性格が形成され、妹としてシオンに褒めてもらえるのは当然の権利だと思っていた。


そのため、彼らが絡まなければ以前と遜色ないエレナなのだが二人が絡むと急な幼児退行を見せるようになった。


周囲はその異様な光景に誰もが言葉を発せない。

ある程度撫でるとエレナは満足したようにシオンの後ろへ控えた。


エルメキアも動揺を抑えながら何とか言葉を紡ぎ出す。


「……さて、傷も癒えたことだし。そちらもこの後忙しいだろう?とりあえず、今日はここまでにしよう。君たちはちゃんと話を聞いて対処してね。どうするかの判断は宗主が戻ってからで構わない。こちらに戦争の意思はないからさ。」


エルメキアの言葉に、大公は臣下の礼を取り「かしこまりました」と頭を下げる。


「こらこら、一国の王の兄がそんなに頭を下げないの。……あ、そうだ確認だけど、縁談にはこの国の国民憲章を読んで署名する必要ってある?」


「何ですか、それは?」


「やっぱり知らないんだ。じゃあ、あとは王子様から聞いて。ああ、それとルーメンに確認するといい。あの子、公式文書の偽造までやってるから。」


「……は?」


あまりに大罪すぎて、ローゼスの顔色はみるみる蒼白になっていった。


外交上不要な文書を勝手に用い、相手国には「宗主の署名」と認識されている。

しかも姫たちに催淫薬を嗅がせ、一人は副作用で精神崩壊寸前、もう一人は貞操を奪おうとした。――戦争になってもおかしくない。国ぐるみの誘拐と強姦未遂だ。


「……安心して。戦争にはならないように取り計らってあげる。その代わり、ちゃんとしてね?」


エルメキアの声音に、大公ローゼスの顔色が少しだけ戻る。


「かならずや……わが命に代えて盟約を果たします。」


「盟約なんて大げさだなぁ。まあいいや。シオン君、その本、ちょうだい。」


「証拠だぞ? いいのか?」


「大丈夫。たぶんね。まあ、ダメなら僕が責任を持つから。」


シオンはリシェルが抱えていた証拠の本をエルメキアへ渡す。彼女はそれをそのままローゼスに差し出した。


「じゃ、よろしく。僕と彼との会話、聞いてたよね? ちゃんとやらないと、僕も怒るよ?あ、別に命とかはいらないから。その辺は履き違えないでね。」


最後の言葉だけ低く響き、神竜としての圧が場を支配する。

ローゼスの背筋を冷たいものが走った。


「かならずや……」


王子フレイグ、グロマーズ、若い騎士は拘束され、連行されていく。


「……んー、グロマーズ君はちゃんと調べた方がいいよ? 王子の意思というより彼は命令に忠実だっただけかもしれないからね。」


「かしこまりました。」


大公は深く頭を下げ、静かに事態を収めていった。


いつもありがとうございます。


妊娠って大変ですよね…。

リシェルさん元気すぎるのですが…。

冒険者ではないんですが、以前妊娠より訓練の方が普通に過酷だったと言ってる方がいました。


どれほど過酷な訓練を受けていたのか…。

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