忘却という才能
颯真が町の散策中に立ち寄った小さな公園は、冷たい朝の空気に包まれていた。鳥のさえずりが静けさを破る中、遠くから話し声が聞こえる。
視線を向けると、制服姿の警察官が困惑した表情で40代くらいの男に何かを尋ねている。男は薄汚れたコートを羽織り、手に握ったパンの袋をじっと見つめている。
「お名前は?」
警察官の問いに、男は首をかしげながら笑顔を見せる。
「名前ねぇ……あれ、なんだっけ?忘れちゃった。」
状況を見ていた颯真は、ふとした衝動でその場に近づく。男の表情にどこか見覚えがあるような気がしたからだ。
「すみません、この人、僕の友人です。」
颯真が声をかけると、警察官は振り返って眉をひそめた。「友人ですか?では、お名前を教えてもらえますか?」
颯真は咄嗟に口を開いた。「えっと、タケシです。この人の名前は、タケシ。」
男はその言葉を聞いて、不思議そうに颯真を見つめた後、満面の笑みを浮かべた。
「あぁ、そうだそうだ、俺、タケシだ!ありがとう、君!」
警察官は半信半疑の表情を浮かべながらも、「では、住所や連絡先は?」と続けて尋ねた。颯真は一瞬言葉に詰まりながらも、適当にごまかした。
「彼、ちょっと物忘れがひどくて。でも、僕がちゃんと面倒を見ますから。」
警察官は肩をすくめ、「本当にお願いしますよ」と言い残してその場を去っていった。
警察が立ち去った後、颯真は改めて男を見た。彼の無邪気な笑顔は、どこか子供のようだった。
「おい、タケシ。覚えてるか?本当にあなたの名前?」
タケシは笑いながら肩をすくめる。
「知らないよ。でも、君がそう言ったから、きっとそうなんだろう。」
「お前、自分の名前くらい覚えとけよ。」
颯真は呆れながらも、なぜか彼に腹を立てる気になれなかった。
二人で公園を歩きながら、颯真はタケシに質問した。
「タケシはどうしてこんなところにいたんだ?」
タケシは、パンの袋を見ながら呟いた。
「あの鳥たちがさ、こっちを見てたんだよ。だから、パンをあげてたら……忘れちゃったんだよね。どうしてここにいるのか。」
「全部忘れて困らないのか?」
タケシは颯真を振り返り、笑顔で答える。
「困らないさ。困るのは、忘れられない人たちだよ。名前も、過去も、大切かもしれない。でも、それを持ってると、心が重くなるんだ。忘れれば、今だけを生きられる。楽だよ。」
颯真はその言葉に戸惑いを感じつつも、どこか納得する自分がいることに気づく。
「ところで、君は誰だっけ?」
タケシが悪びれずに聞く。
「颯真。」
「覚えられるかな?」とタケシはケラケラ笑い、また空を見上げた。
颯真は呆れながらも、その背中を見つめて思った。この男は本当に全てを忘れているのか、それとも、ただ過去に縛られるのを拒んでいるのか。