真水は誰の手に?
颯真は、カリンの独り言のような話を黙って聞いていた。彼女の声は淡々としていたが、その内容は鋭く、冷徹だった。まるで部屋の中の冷たい蛍光灯が、颯真の心をも凍らせるかのようだった。
カリンはモニターから目を離さず、指を動かしながら続けた。
「2010年、鳩山内閣が終わった時、日本がアメリカと少しでも距離を取れる最後のチャンスは潰れたのよ。別に鳩山政権が良かったとは思わない。でも、それ以降の清和会中心の自民党は、アメリカの傘の下にいることで利益を得る層を温存した。アベノミクスの金融緩和も、実際は桶の外で待っている人たちを潤わせただけだった。」
颯真は「桶の外で待っている人たち」という言葉に引っかかった。
カリンはあたかもそれが常識のように話していたが、彼にはそれが具体的に誰を指しているのか明確には分からなかった。
「日本の金融緩和政策は、一見国内経済を回復させるように見えるけど、真水が桶の中に留まらない限り、何も変わらないの。穴から溢れ出たお金は、そのまま海外へ流れていく。株式市場も同じ構造よ。いまの株式市場の大半は海外資本が占めていて、私たちが毎日働いて稼いだお金は、日銀を通じて彼らの利益になっている。」
カリンはモニターの一つに映るグラフを指差した。
それは円安の進行と、日本からの資本流出を示すものだった。彼女の指先はグラフ上を滑りながら、次の言葉を紡ぎ出した。
「GPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)も同じよ。世界最大の年金基金と言われているけど、その運用益はどこに行っていると思う? 国富が流出している証拠は、ここにいくらでもある。」
彼女はふと手を止め、颯真に視線を向けた。その目は冷静で、どこか諦めに似た光を宿していた。
「穴の空いた桶の話、分かる? 真水を注ぎ続けても、肝心の桶の中は一向に満たされない。穴を塞がない限り、いくら水を増やしても、外で待っている人たちが利益を得るだけ。でもね、その穴を塞ぐためには、まず穴の位置を公開しなきゃいけない。透明化が必要なの。でも、今の日本式システムではそれは不可能。なぜなら、その穴を守っているのがマスメディアや為政者自身だから。」
カリンの言葉に、颯真は息を呑んだ。
彼女が語る「穴」は、日本の現状を象徴するものだった。
「日本のバブル崩壊の時もそうだった。金融機関が次々と倒れるまでに7年の時差があったでしょ。それと同じことが起きてるだけ。」
颯真は、彼女の言葉の一つ一つが自分の胸に突き刺さるのを感じた。
日本が抱える経済の構造的な問題、それを支える見えない力、そしてそれに気付いていながら何もできない現実——どれも彼にとって漠然としていたものが、今や目の前で具現化されていた。
「俺たちは、ただの歯車なのか……」
思わず漏れた言葉に、カリンは冷たく笑った。
「歯車にもなれない人が大半よ。せいぜい、回されるだけのベルトコンベア。」
彼女の言葉は冷酷だったが、同時に真実を突いていた。颯真は自分の中にある無力感を押し殺すように拳を握った。
そして、彼女の言葉が単なる批判ではなく、未来への警鐘であることを、遅ればせながら理解し始めていた。