天才養成所の代償
カリンが話し始めると、颯真は彼女の言葉に吸い込まれるように耳を傾けた。その声はどこか遠い記憶を呼び覚ますような調子だった。
「私がその施設にいたのは、ちょうど10年前だったかしら。」
カリンは天井を見上げ、ため息をついた。
「場所は言えないけど、ヨーロッパの山奥。周囲には高いフェンスと警備用のカメラがあって、いつも冷たい霧が漂っていた。」
颯真の頭の中には、彼女の言葉に沿って風景が広がっていった。
霧深い森を抜けると、コンクリートでできた無骨な建物が姿を現す。建物には窓がほとんどなく、唯一の入り口には二重のセキュリティゲートと武装した兵士たちが立っている。
中に入ると、施設はさらに異様な空気を纏っていた。冷たい蛍光灯の光が長い廊下を照らし、その床は無機質な金属で覆われ、靴音がやけに響く。廊下の先には無数のドアが並んでおり、それぞれに番号と国旗のマークがついていた。
アメリカ、ロシア、中国、イラン……見る者に、ここがただの施設ではないことを思い知らせる。
「私たちがいた部屋は、まるで監獄のようだった。でも、監獄よりももっと狭いの。窓もないし、時計もない。時間の感覚なんて、すぐになくなる。」
カリンの言葉に重なるように、颯真の脳裏にはその部屋が浮かぶ。
四方を灰色のコンクリートで囲まれた空間に、小さなデスクと椅子が一つずつ置かれているだけ。デスクの上には1台のコンピューターが鎮座し、その画面にはリアルタイムで変化する膨大なテキストデータが流れている。
カリンはそれを見つめながら、一瞬たりとも手を止めることなく、別のモニターでデータを翻訳し、指示を出していく。
「私たちは毎日、世界中のニュースや通信をリアルタイムで分析していたわ。テロリストの暗号通信や、政府の隠された動き、経済市場の危機予兆……。」
彼女の声には、微かに震えが混じっていた。
「それだけじゃない。失敗なんて許されなかった。例えば、誤訳一つで誰かの命が奪われることだってあったのよ。上層部からは『全てのミスはあなたたち自身の責任だ』とだけ言われて、どんなに疲れていても作業を止めることは許されなかった。」
監視カメラは24時間、彼女たちの様子を記録している。
部屋に配置されたマイクが、彼女の呼吸音や独り言までも拾い上げていた。どんなに小さなミスも見逃されることはなく、それが「評価」に直結する。
施設内には「評価基準」が存在しており、それが彼女たちの行動を支配していた。
評価が低い者は「補修訓練」と称してさらに過酷な状況に追い込まれる。食事の量が制限されることもあれば、睡眠時間すら奪われることもあったという。
「仲間がいたのかって? もちろん、他にもたくさんの人がいたわ。でも、会話なんてできなかった。周りの人間は全てライバルだったし、誰かが脱落すれば、次のターゲットは自分だって分かっていたから。」
彼女の言葉に、颯真は息を呑んだ。
「最悪だったのは、『感情を持つな』って教えられること。泣くな、笑うな、怒るなって。感情は効率の妨げだからってね。でも……それを守れなかった人たちはどうなったと思う?」
颯真は答えられなかった。カリンは軽く首を振り、目を伏せた。
「『施設外への送還』。そう言われて連れ出される。でも、戻ってきた人は一人もいなかったわ。」
「だから、私が施設を出た時、心の中では逃げ出したと感じていた。あの場所にいれば、確かに能力は磨かれる。でも、その代わりに、自分が壊れていくのが分かるの。」
カリンは一瞬だけ颯真に目を向けた。その瞳には、冷静さの奥に隠された深い悲しみが宿っていた。
「あの場所を『特殊施設』なんて言うけど、ただの地獄よ。天才を作るために、普通の人間を犠牲にする……そんな場所だった。」
その瞬間、颯真はカリンの異常な日常生活の背景に、この過去が深く根付いていることを理解した。
彼女があれほどまでに冷静で効率を重視するのは、すべてあの施設で生き延びるために必要だったものの残滓だったのだ。