情報の渦の中に住む少女
颯真が最初に足を踏み入れたのは、都内でもひときわ寂れた地区にある古びたアパートだった。階段を軋ませながら2階に上がり、指定されたドアをノックする。しばらくの沈黙の後、鍵がガチャリと回り、ドアがわずかに開いた。
そこに現れたのは、予想以上に小柄な女性だった。
淡いピンクのパジャマにくしゃくしゃの髪、目の下には深いクマが刻まれている。一見、長時間睡眠を取らない学生のようだが、その目は異様な鋭さを放っていた。
「入って。」
颯真が足を踏み入れると、そこはまるで情報の洪水の中に飲み込まれるような異様な空間だった。
壁一面を覆う大型モニターの群れは、20台近くあり、世界各国のニュースチャンネルや政府機関の公式発表がリアルタイムで流れている。音声は混じり合い、異国語の渦となって部屋を満たしていた。
中央にある巨大な机の上には、積み重なった辞書やノートが所狭しと並べられている。
英語やフランス語はもちろん、ロシア語やアラビア語、さらには見たこともない象形文字のようなメモまでもが散乱していた。机の隅には、使い古されたタイプライターと最新の薄型ノートパソコンが並んでおり、過去と未来が奇妙に共存している。
天井からは小型のドローンがぶら下がり、壁には世界地図がピンで固定され、その上には赤い線や付箋で多国籍企業や紛争地の動向が緻密に書き込まれていた。まるでカリンの頭の中をそのまま具現化したかのような空間だった。
一方で、生活感は驚くほど欠如していた。
部屋の隅にはコンビニの袋が山積みになり、中身は空のペットボトルや未開封のインスタント食品で埋め尽くされている。キッチンは明らかに使われた形跡がなく、シンクには埃が積もり、冷蔵庫は開けると中が空っぽどころか乾燥している。
唯一目立つのは、机の片隅に雑然と積み上げられたプロテインバーの箱と、カフェイン錠剤の小瓶だった。
「栄養? 必要最低限でいい。それ以上はただの無駄。」
カリンは自嘲気味に笑いながら、プロテインバーの包装を剥がし、そのままかじる。それが昼食なのだろう。
部屋の異常さはそれだけではなかった。
最新のVRゴーグルが散乱し、軍用とおぼしきヘッドセットや、未完成のガジェットらしきものが部屋中に転がっている。それらはどれも高価そうで、一部には見慣れないロゴや型番が記されていた。
「これは諜報機関のお下がりみたいなもの。技術は古いけど、使える範囲で改造してる。」
そう説明しながらも、カリンの目はどこか遠くを見つめていた。
彼女にとってこの部屋は、「生活の場」ではなく、「情報を戦う場」なのだ。颯真はこの空間の異様さに圧倒されながらも、どこか痛々しさを感じずにはいられなかった。
冷蔵庫を開けても無意味な部屋、栄養摂取さえも効率化された食事、散らばる無機質な機器。それは、外の社会から隔絶されてきた時間の証拠であり、カリンが「自分の居場所がない」と語る理由を象徴しているようだった。
この部屋で生活するというより、この部屋に囚われている——颯真はそんな感覚を抱きつつも、目の前のモニターに映る混沌とした情報群に、カリンがどれほどの力を秘めているのかを直感的に理解し始めていた。
カリンは椅子に深く腰掛けると、颯真の存在を完全に忘れたかのように、机に並べられた複数のキーボードとマウスに手を伸ばした。
指先はまるで舞うように動き、モニターに表示された文字列が次々と切り替わっていく。
「…Yes, the conflict in Sudan is escalating, but the logistics routes are still functional. Contact the liaison in Khartoum.」「…Да, но следите за границей с Эфиопией.」
英語、ロシア語、さらにはアラビア語のような言葉が流れるように次々と口を突いて出る。
その声のトーンはどれも自然で、相手がそこにいるかのようだった。
モニターの一つには西洋風のオフィスにいる白人男性が映し出され、別のモニターにはアラビアの民族衣装を着た女性が映る。それぞれの画面で異なる表情や言葉が飛び交う中、カリンはまるでその全てに完全に集中しているように見える。
「I'm aware of the troop movements in the northern regions, but we need confirmation from the satellite images.」
「أفهم ذلك، لكن دعنا نتحقق من الوضع على الأرض قبل أن نتصرف.」
カリンは声のトーンすら微妙に変え、相手に合わせた語調で話す。その間、モニターに映る彼らの言葉や表情を細かく観察し、ノートに何かを書き込む。
さらに別のモニターには、明らかに緊張した様子の若い男性が映る。
彼が話すフランス語は早口で、重要な情報を伝えているようだったが、カリンは冷静に彼を制し、穏やかな声でこう言った。
「Ralentissez, s'il vous plaît. Je comprends, mais nous avons besoin de clarté.」
(少しゆっくり話してください。理解していますが、正確な情報が必要です。)
颯真は部屋の片隅でただ立ち尽くしていた。
カリンが一人で複数人と同時にコミュニケーションを取る姿は、まるで一つの巨大な機械が無数の歯車を回しているようだった。その場にいるはずのない人々と話すカリンの声が、部屋全体に反響する。
時折、カリンはモニターの中の誰かに厳しい指示を出し、すぐに別のモニターで状況を確認し始める。彼女の視線は一度も颯真に向けられることがなく、その存在を完全に忘れているようだった。
「…すごいな。」
颯真が思わず呟いたその声すら、カリンの耳には届かなかった。彼女の世界において、今ここにいるのは、情報、データ、そしてモニター越しの「誰か」だけだった。
カリンの声が絶え間なく流れる中、颯真は部屋の空気がどこか薄いように感じた。いや、実際に薄いのではなく、ここにいる「カリンという人間」が、目の前の空間に完全に存在していないような感覚だった。
彼女が何をしているのかは理解できないが、何か「普通ではない」ことだけははっきりと伝わってきた。
その瞬間、颯真はある種の恐れを感じた。
この部屋は、カリンの天才が暴走する場でもあり、彼女自身を押し潰している牢獄のようでもあった。
そして、自分の小さな存在が際立っていることを感じている。