09 四つの署名
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ワトスンは事件の覚え書きを整理していて、ふと気付いた。
「おやっ?【オレンジの種五つ】より【四つの署名】の方が先だったか?」
本業である医者の合間にホームズの助手をし、それを支障のない範囲で一般に公開する文章に書いている彼には、過去の書類を整理する時間が無かったのだ。
「いかんいかん!まだボケるには早いだろうに」
ワトスンは頭を振りながら、【四つの署名】の覚え書きをめくり始めて顔を顰めた。
この事件の依頼人メアリー・モースタンは、後にワトスンの妻となるが、悲しい別れをした相手であるからだ。
ワトスンは苦い思い出を振り切ったが、また別のモヤモヤが頭をもたげた。
事件の発端は、彼女が持ち込んだ父親行方不明事件だが、その直前にワトスンはホームズと多少の言い合いをしていたのも顔を顰めた理由でもあったからだ。
公にも名探偵として名を馳せるホームズだが、彼が麻薬であるコカインを頻繁に使用している事を知る者は少ない。
コカイン使用は【中毒】という程ではなく、彼の脳を駆使する【事件】が無いイライラを誤魔化す程度だ。
だが、そういった意味で難事件の無い平和な時期は、ホームズの肉体を次第に蝕むこととなる。
医者としては受け入れがたいが、能力を持て余している彼に最適な処方をワトスンは持ちあわせていなかったのだった。
そんな言い合いの途中に飛び込んできたモースタン嬢の依頼は、まさに【渡りに船】と言えていた。
「確か、これも被害者を助けられなかったんだったな」
名探偵と持て囃されていても、先の【オレンジの種五つ】の様に、事件の解明はしたが被害者を助けられなかったり、実行犯を逮捕できなかった事件は幾つかあるのだ。
ワトスンは、この探偵の現状を、医者である自分と重ねていた。
医者も多くの人命を救うが、かといって全ての命を救えた訳でもなく、改善の無い長期に渡る闘病に苛つく事もある。
だが、患者にしろ、医者にしろ、治療以外の麻薬使用が導く結末は、更に多くの命を失うのを彼は知っているので、医者達が麻薬に手を出す事は希だ。
さて、本題の事件はシャーロックが以前に手掛けた事件の依頼人から紹介を受けた物だった。
ホームズの広報担当であるワトスンは、彼等の所在を公表していないので、警察経由でなければ、過去の依頼人の紹介からしかホームズ達を訪ねる術はないのだ。
彼女の説明によると、軍役から休暇帰国したモースタン嬢の父親が、荷物を残してホテルから行方不明になって数年後から、彼女宛に毎年【高価な真珠】が届く様になった。
筆跡から父親ではないと分かる差出人が、今回は「会いたい」と手紙を送ってきたので、同伴者としてホームズとワトスンに依頼をしてきた。
彼女は、既に父親が生きているとは感じていなかったが、事の真相を知りたいとは思っていたのだ。
実際、事件に飢えていたホームズにとっては、単なる暇つぶし程度にしか思わなかったのかも知れない。
手紙の主の指名の場所に向かう際、モースタン嬢から渡された父親の持ち物であるメモには、建物の見取り図と四つの署名が残されていた。
真珠を送ってきた相手はモースタン嬢の父親と同僚だった男の息子で、サディアス・ショルトと名乗り、彼女の父親が既に死んでいるらしい事、彼女が受けとるべき遺産がある事を告げる。
そして、彼が知るあらましを話した上で、遺産を管理している兄のバーソロミューの元へ案内した時点で、物語は【強盗殺人事件】へと変化するのだった。
密室に近い部屋で、遺産の入っている宝箱は盗まれ、サディアスの兄であるバーソロミューは殺されていたのだ。
この強盗殺人事件現場にも、先の【四人の署名】が有り、中途半端に有能な警官により、サディアスが犯人として捕まる。
流石のホームズも、今回の事件は現場の状況証拠だけは犯人を特定できず、街頭の子供達や犬の嗅覚、知人警察官の手を借りた上で、自らの足で調べ回ってやっと犯人の足取りを掴むに至った。
ちょうど警察も、突然現れたアリバイ証人によって、サディアスを釈放し、真犯人を求めてホームズを訪ねて来ていた。
警察と協力して犯人を捕まえるのも、かなり苦戦し、衝動的に殺人を犯した実行犯は撃ち殺してしまい、奪われた遺産も河に沈められて戻らぬものとなってしまった。
事の主犯格であるジョナサン・スモールは逮捕後に、遺産を持っていたショルトの父親がモースタンの父親と結託して彼等四人を裏切り、更にはモースタンも裏切って、インドで手に入れた財宝を独り占めにしてイギリスへ帰国した旨を語った。
四人分の署名は、元々財宝を手に入れた四人の名前で、財宝の正当な分配を求める宣言の意味で置いて回っていたのだ。
現状で言えば、事件は完結している。
だがワトスンは、「シャーロックが悪い仲間と付き合っている」と言うマイクロフト・ホームズの言葉を思い出して、事件の裏にシャーロックが居ると言う考えで、事件を再検討してみた。
まず、タイミング良く犯人達の根城を見付けたのはシャーロック自身だ。
そのシャーロックは、事前に警官と「逮捕したら立ち会いで尋問させろ」と約束を取り付けていた。
当時は、動機を含めて謎だらけの事件に、シャーロックが真相を聞き出したがる事に疑問を持つ者は居なかった。
だが、現実の逮捕の際には犯人を撃ち殺してしまう事は無いわけでも無い。
事実、殺人の実行犯は射殺してしまった。
「そうだ!仮にシャーロックと犯人が事前に打ち合わせしていたとすれば・・・」
たとえば、ジョナサン・スモール達が高速艇でホームズと警察を巻けても、沖の船エスメラルダ号に乗り込んだ時点で追い付かれてしまう。
広い船内での捜索では、下手をすれば乗り込んだ警官に撃ち殺されてしまうかも知れない。
警察ではなく、シャーロックに生きたまま捕まる様に企て、事件の全貌を聞いたシャーロックが弁護すれば、ジョナサン・スモールは死刑を免れるだろう。
殺人は部下の暴走による事故らしいのだから。
「そう言えば、財宝は没収されるくらいならと、逃げる途中で河に捨てたと言っていたが、誰もソレを見ていないなぁ」
シャーロック達は、ジョナサン・スモールの足取りを掴む迄に日数を要している。
その間に宝箱の中身を隠し、空になって鍵を捨てた宝箱を後生大事にもっていただけかも知れない。
死罪にならず刑期を終えれば、ゆっくりと財宝を回収できるだろう。
「だが、これにはシャーロックの協力が必要不可欠だ」
ジョナサンの拠点を見付けた段階で話を持ち掛けるのは可能だ。
殺人も実際には、目撃者を無くす為にジョナサンが命じてバーソロミューを殺させたのかも知れない。
それでもシャーロックが状況証拠を都合良く組み立てれば、ジョナサン・スモールを減刑できる。
ジョナサンも、自分が助かり財宝も確保できるとなれば、多少の分け前と協力を承諾するだろう。
万が一、ジョナサンが単独で持ち逃げしようとすればアリバイ証人は姿を消し、居場所を通報されたり、殺人の主犯確定をされかねない。
シャーロックは、それほどに警察に信頼があるのだ。
「どれも物証も証人も無いが、可能性は否定できないな。場合によってはメアリーを通して財宝の半分は私のものになっていたかも知れなかったのか・・」
本来の財宝は50万ポンド有ったらしい。
持ち去ったサディアスの父が使い込んでいても、相当額は有るだろう。
生き残ったサディアスと折半しても、十万ポンド以上はあったと言える。
「どれもこれも、可能性の話でしか無いのか?」
だが、ワトスンの頭の中には灰色に染まるシャーロック・ホームズの姿しかなかった。