05 ワトスンの認識
ワトスンは、書類棚から過去の覚え書きを引っ張り出した。
【緑柱石の宝冠】【第二のしみ】【入院患者】【ライゲイトの大地主】【オレンジの種五つ】【恐怖の谷】【ボヘミアの醜聞】【黄色い顔】【夏のある水曜日】【ギリシア語通訳】。
「順番は、これで合っているかな?」
まだワトソンも30歳半ばだが、ある程度印象深い事件以外は順番を覚えていないのも、仕方の無い事だ。
この中でも、【オレンジの種五つ】【恐怖の谷】に関してはワトスンが直接関わってはおらず、ホームズからの報告によるものだ。
「次は【緑柱石の宝冠】だったか」
【緑柱石の宝冠】とは、高貴な方から銀行頭取が預かった王冠の宝石が紛失した事件だ。
ホームズは被害者の交友関係から犯人を特定したが、宝石は既に売却されていた。
6百ポンドで故買屋に売った宝石をホームズは、三千ポンドで買い戻して持ち主に返却した。
ホームズは、この事件を解決した報酬として千ポンドを手にし、更に大銀行と王室に恩を売っている。
「マスグレーヴ家の時もだが、王室に喧嘩を売る様な事はしないだろう。この事件を彼が裏から手を回すなんて事は有り得ない」
ホームズは、怠惰な点や変質的な点も多々あるが、可能な限り【紳士】であろうとしている。
まぁ、悪人の男性に対しては容赦の必要を感じていない様だが。
この事件で疑問があるとすれば、急遽三千ポンドもの金を現金で用意したと言うホームズの財源だ。
いや、もしかすると、実際には三千ポンド以下で買い戻しているかも知れない。
その宝石が王家縁の盗品であるのだから、故買屋も普通の法律以上に【窃盗の共犯】とされかねない事を話せば、買い取り価格での返却にも応じるだろう。
「大きな事件でも、一年に一件以上引き受けている勘定になるな」
ワトスンがホームズと同居を始めたのが1881年。
7年足らずの間に、これだけの事件に関わっている。
事件を選り好みするホームズに持ち込まれた依頼は、この数倍に及ぶ事をワトスンも見ている。
だが、ワトスンも四六時中をホームズと一緒な訳ではない。
ワトスンの知らない小さな依頼を引き受けているかも知れないが、このホームズが猫探しや浮気調査などの依頼に扮装しているとは思えない。
ネガティブに考えれば、大口の依頼料が貰えるとは限らない探偵業で、年間に一二件しかこなしていないホームズには他の財源が無くてはならない筈だ。
「疑問は置いといて、次は順番だと【第二のしみ】か」
要約するとコノ事件は、国際戦争を起しかねない書類を、スパイが役人の妻に昔の恋文をネタに脅して、盗みださせたのが発端となっている。
ホームズは首相達の依頼で動くが、事の重大性を悟った妻による奪還の最中、スパイの妻が浮気と勘違いしてスパイを殺害してしまう。
行方のわからなくなった書類は、実は元恋人であるスパイを追ってきた、役人の妻が持ち去っており、絨毯と床ののシミがズレている事と状況からホームズが、スパイ殺害現場から持ち去った者を断定するという事件だ。
ワトスンとしては、この事件もホームズが企んだ物ではないと考えた。王族や政府を敵に回す事は勿論だか、国家を戦争に巻き込む様な事はしないだろうと。
そんな事をすれば、シャーロックと同等の観察眼を持つマイクロフトや一族をも敵にする事になるし、戦争中は【超法規的処置】が罷り通るので、犯罪はやりにくくなると承知しているはずだからだ。
この事件解決も、ホームズの観察眼と推理力が解決に導いた【正当な】探偵業と言えるだろう。
「疑問は残るが、やはり、マイクロフト氏は心配し過ぎなんじゃないのかな」
シャーロックの身内に頼まれたので、過去の事件を再検証しているが、可能性はあっても明確な証拠はない。
【まだらの紐】の間違いにしたって、人間である以上は勘違いや読み違いが生じるのは仕方がない。
「彼も人間だからな。ただ、それで犯人を逃がしたり被害者が増えた訳でもないのだから、ヨシとすべきか?」
ワトスンも、完璧な人間など居ない事を知っている。
彼だってミスや勘違いはする。
「だが、頼まれた事だ。もう少し続けてみようか?」
ワトスンは、次の資料に手を伸ばしたのだった。