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02 教授の小部屋

 夜のロンドンを、モリアーティ教授は歩いていた。

 大通りをなるべく避けて、裏通りを抜けて行く。


 本来は長身の身体は、長年の無理のせいか曲がってしまい、人混みに紛れると見失ってしまう程だ。


 彼は、何度も止まっては周囲を確認して、尾行者をまいていた。

 警察(ヤード)は彼の顔を知らないので、尾行しているのは新たに雇った部下だろう。

 付き合いの長い【大佐】は諦めているが、新たに配下になった者は教授の弱味を握ろうと後をつけるのだ。


 そんな教授は、つい先程まで一緒に犯罪の下準備をしていた部下達との会話を思い出す。


「ボス!そのシャーロックって奴が邪魔なら、始末しちまえば良いじゃないですか?大家の女を人質に取れば抵抗はできないでしょう?」

「御前達のやり方は、簡単だが知的でもなく美しさも無い。何より御婦人を人質にするなど儂のプライドが許さない!私の名を辱しめる様な真似をするなら、この仕事からも、今後の仕事からも降りてもらう」

「分かったよボス!だが、そんな事を言ってると、いつか捕まるぜ」

「儂が、あんな若僧に捕まるものかよ」

「そうなんですか?【教授】」


 この新しい部下達に尊厳は見られない。

 彼等は、一回の犯罪で手に入れた金を持逃げする事もできるだろう。

 だが、一回の金額より、何回も従った方が得る金額がデカイと、まとめ役の大佐に説得されているのだ。

 ただ、それもモリアーティの弱味を握って脅せれば、意味はないと考えているらしい。


「下衆な悪人に忠誠心を求めるのは無駄な事か・・・」


 彼等は気を許すと、雇い主を脅して楽して儲けようとするのだ。


 よく言えば【向上心】。悪く言えば【我欲】の塊である彼等の欲望を抑えることなどできはしない。

 だから、大金をもって利用する事くらいしか現実にはできないのだ。


 そんな彼が追っ手をまいて入ったのは、ベーカー街にある屋敷のひとつだ。

 ここは小さいが、教授の持っている隠れ家(セーフハウス)の一つで、場所はベーカー街に有る。

 そう、あの【彼】が居ると言うベーカー街だ。

 【灯台もと暗し】と言うが、近所に宿敵が居るとは誰も思わないだろう。


 部屋に入ると杖を置き、ランプに火を灯してから廊下を確認して扉を閉めた。


「一応は大丈夫か。そろそろ講義がはじまる時期だったな」


 彼は、壁に貼った大学の予定表を確認しつつ、上着とズボン、ワイシャツに靴をクローゼットに収納する。

 手袋を外してからカツラを外すと、別のクローゼットのものと着替える。


 クローゼットを分けているのは、別々のコロンを掛けて匂い移りを防ぐ為だ。


 ドレッサーに腰をおろし、襟首を広げて顔や胸元に溶剤を塗り始めた。


 皺だらけの教授の皮膚が、首の下から剥がれ始める。

 そう!【モリアーティ教授】の顔は作り物だったのだ。

 

 彼は鏡を見ながら、己の顔に残った接着剤を薬品で丁寧に落としていく。


 その後は、剥がした【顔】をトレイの様な専用台に広げ、濡らしたタオルで洗い、薬品と塗料で調整しはじめた。


「そろそろ作り替えるか?いや、根本的に代役を立てて・・・」


 彼は、色々と思案する。

 再生能力や修復能力の無い【仮面】には、意外と短い【劣化による寿命】が存在するらしい。


 調整が終わると、それを専用台ごと棚に納めた。

 再びドレッサーに戻り、髪を整えてから衣服を正すと、入った時と別のステッキを持って部屋を出ていった。

 この建物は別々の通りに出られる様に、出入り口が複数あるのが特徴的なのだ。


 建物から出た長身の紳士は、少し遠回りしてから、また別の建物の前に立った。


「またぞろ、役人達の動きが激しくなったな!警官ではない様だが・・・・アイツか?」


 男は、見張り達に気付かぬふりをして、建物へと姿を消した。






「モリアーティ教授ねぇ・・」


 警察(ヤード)のレストレード警部は、会計監査人が大学の、特にダラム大学の職員について調べていたとの報告を受けて、顔を歪めていた。


 有能な彼は、ホームズが口にした人物について既に調べていたのだ。

 地方の警察にも依頼して、ダラム大学のモリアーティ教授の周辺についても動向を報告させていたのだった。


「グレグスン警部。確か、ホームズの家族が会計監査員だったか。・・・今さら何か有ったのか?」

「いいや。ワトスン医師を兄のマイクロフトに紹介して、その絡みで事件を一つ解決したくらいだが」


 事件に【シャーロック・ホームズ】と言う探偵が関わって以来、警官である彼がシャーロックについて調べない訳がなかった。

 勿論、過去や、その家族や近所の評判についても。

 そして、シャーロックが口にしていたモリアーティ教授に関しても、とうにダラム大学の教授とは【別人】と判断していたのだ。

 今回の報告にレストレード警部は変な勘繰りをしてしまうが実際は、たまたまマイクロフトの認識だけが遅れていただけの事だった。




 マイクロフトが、なぜ今さら【モリアーティ教授】を気に掛けたのか?

 彼は、実は普通の会計監査人より多忙な人間だったのだ。

 それ故に、部下に弟の身辺調査を任せ、医師と同居を始めたと聞いても薬物の入手に利用する為くらいにしか考えていなかったのだ。

 だが弟は、どうやら探偵として身を立てようとしているらしい。

 堅実なマイクロフトとしては、収入もままならない仕事として不安は残るが、放逐された様な弟がパトロンを見付けて生きているだけでも幸いと言えた。

 実兄として気にはなるが、近くに見張りを置いてもシャーロックなら気付くだろう。

 父親の顔を立てる為にも、こちらから会いに行く訳にも行かない。


 そんな弟がワトスン先生を連れて自分の元に訪れたのだ。

 マイクロフトの観察でも、どうやら、ただのパトロンではなく、探偵の相棒として引き込んだ【マトモ】な人物らしい。


 マイクロフトは、シャーロックの今までの行動に関する再調査を部下に命じ、父親には『我が家の恥を監視する為』と説得してから、弟の行動が再び悪事に向かっていないかの監視をワトスンに依頼したのだ。


 マイクロフトの行動は、シャーロックがワトスンを連れてディオゲネス・クラブに来た事に起因していたのだった(ギリシア語通訳)。




「ワトスン!今日は来客が有った様だね?」

「ああ、君の兄さんが『弟をよろしく』と言いに来たよ。本人が居ると言いにくかったらしい」

「兄は、意外とシャイな所があるからねぇ」


 既に、同姓の来客についてはハドスン婦人から聞いているだろうが、いかにも室内観察の結果だと装うシャーロックの鼻を折る事もない。


「マイクロフト氏には、更に君の名声を高めてくれと頼まれたよ。だから、今まで以上に君を観察させてもらうよ」

「君が名声を高めてくれるなら、より難事件が舞い込んで、僕を楽しませてくれるだろう。大歓迎だよ」


 これで、マイクロフト氏からの依頼がやり易くなったと考えるワトスンだった。

 急にシャーロックへの関心が増したら怪しまれるところだ。


 そんなシャーロックは、些細な事件には興味を持たない。

 それ故に、依頼を選り好みする傾向が高い。

 彼いわく、難事件は宿敵モリアーティ教授に繋がるのだそうだ。


 実際、たいした謝礼も貰っていないシャーロックが家賃を割り勘にできているのは、実家か兄からの支援があっての事だろうが、それにしては家族との繋がりが希薄過ぎるとワトスンは感じている。


「なんで家族とは疎遠なんだ?」

「我が家では、ついつい御互いに観察し合い、痛くもない腹を探られるので、血縁同士は会わない様にしているのさ」

「確かに、それは辛いな」


 確かにシャーロックに劣らないマイクロフトの観察眼を目の当たりにすれば、納得の理由だった。

 思春期の青年が家族に部屋を掃除され、ベッドの下の雑誌を本棚に並べられる様な感覚なのだろう。


「で、今日はモリアーティ教授の尻尾を掴めたのかい?シャーロック」

「あぁ。近々事件が起きそうだよワトスン君」


 ホームズは不敵な笑みをうかべて返事をした。


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