10 恐怖の谷
ワトスンは次の資料を手に取って、溜め息をついた。
この【恐怖の谷】も、ホームズが当初よりモリアーティ教授の関与を口にしていた案件だからだ。
「ホームズが頭脳明晰であるのは認めるが、それ故に彼自身による自作自演も否定できない。何より金の流れが不透明過ぎる」
ホームズの生活費については、兄のマイストロフ以外からの家族援助も有り得るのだろうが、ソレをシャーロックがヨシとするとは思えない。
彼は見かけ通りプライドの高い人物だからだ。
「これ以上、ホームズを疑う調査を続けたら、関係に亀裂が走るだろうな。彼ならソレを感付くだろうし」
ホームズの活躍は、まだまだ続くだろう。
だから、もし二人の関係が崩れたら、彼は別のパートナーを探すかも知れない。
それはワトスンにとっても有りがたい事では無い。
ワトスンは迷いながらも資料をめくっていった。
事件はホームズが情報屋として使っているモリアーティ教授の部下の一人からの、二通の手紙に始まる。
正体は知らないが、金で情報提供する様な男で、重宝してきたそうだ。
この男からの暗号文を使った一通目の手紙は、バールストンという所に住む男性に危険が迫っていることを伝えるものだった。
そして二通目は内通者の行動が教授にバレたらしいから暗号の解読をやめろというものだ。
「確かに、モリアーティ程の男が身辺の者を全て信じるとは思えないしな。その意味ではホームズとの共通点が多い」
そう思いながらワトスンは顎に手を当てて首をひねる。
「そもそも、モリアーティの情報はホームズからの物が大半だし、ホームズに【犯罪界のナポレオン】と呼ばれる男の情報が、内通者以外から漏れていると言うのもおかしい。だが、実際に巷の情報屋にも【モリアーティ】の名前は出始めていた。これはモリアーティの実在証明の為に、わざと流していたと見た方が良いのか?」
確かに【モリアーティ教授】と言う人物は、名実共に存在している。
しかし、その【元大学教授】と【犯罪界のナポレオン】が同一人物とする証拠は無い。
別人なら、本人は大いに迷惑しているだろう。
さて事件に戻ろう。
暗号解読を終えたホームズの所に、都合良く警察のマクドナルド警部が現れる。
彼はバールストン館で発生した殺人事件について、ホームズに捜査協力の依頼をしようとしていたのだ。
このマクドナルド警部はホームズを尊敬しているらしく、警察内部でも馬鹿話扱いされているモリアーティ教授の事を確かめるべく、直接教授を訪ねた人物らしい。
顔は逆光で見えにくかったが、その場の状況をホームズは詳細に当ててみせていた。
「マクドナルド警部の件といい、やはり、いろいろと出来すぎだな」
この時は、現場警官から頼まれてホームズへ依頼に来たのだが、普通の警官なら探偵の介入など認めないだろう。
そして、偶然に同じ日にに届いた暗号文と事件の合致に驚愕したのを覚えている。
「ドラマではアルアルだが、リアルでは裏が無ければ有り得ない事だ。これを仕組んだ者の意図は、事件にホームズを介入させる事か?」
【世界に偶然は無く、全ては必然である】と宣う者も居る。
ホームズを尊敬するマクドナルド警部が事件の担当になったのも、誰かの差し金なのだろうか?
ワトスンは、レストレードを始めとして、幾人かの警官を思い浮かべたが、そう考えれば誰もが怪しく感じられた。
「教授の配下が、警察内部に居る事も留意すべきだったな。ホームズの同行を依頼した現地の警察官はホワイト・メースンとか言ったか」
どのみち、そう簡単には尻尾を掴ませないだろう。
事件はバールストンに住む富豪ジョン・ダグラス氏が殺されていたとするものだった。
だが、実はアメリカで犯罪組織から追われていた男がイギリスに逃れて富豪になっていたが、追っ手に突き止められ、揉み合いの末に追手を殺してしまったというものだった。
更なる追っ手から逃れる為に家族や友人と口裏を合せ、追っ手の死体をジョン・ダグラスとして通報して、本人は隠れていたが、ホームズの来訪により発覚する。
「ホームズは、追っ手がダグラス氏の住所を突き止めたのはモリアーティ教授の助力だろうと言っていたが、それにホームズ自身が関係していたなら、死体がジョン・ダグラス氏で無い事も一目了然だったと言えるな」
ホームズが追っ手の男を前もって見ていたとなれば、死体の男を見知っていた事になる。
ホームズは次なる追っ手がバールストンに確認に来るのを懸念して、ダグラス夫妻にイギリスからも離れる事をすすめた。
夫妻が南アフリカへと向かう船から夫人名義の電報が届き、ジョンが波にさらわれて無くなったと言う知らせがホームズと警察に届いて、物語は幕を降ろす。
「ホームズはモリアーティ教授の仕業と確信していたが、夫妻の南アフリカへ向かう事を教授は、どうやって知り得たのか?確か、南ア行きはホームズも聞いていたと言っていたし、電報の発信主がダグラス夫人本人とも限らない」
全ては推測に過ぎないが、ホームズとモリアーティが繋がっていると考えれば辻褄が合う事が多すぎる。
「夫妻は財産をまとめて船に乗った筈だ。モリアーティの目的はソレか?確かにイギリスで夫妻を始末して奪うよりは効率が良いな。それに、イギリスを出る様に推めたのはホームズだった」
犯罪は利益が無ければ意味がない。
あやふやなピースが、更にガッチリとワトスンの中で組み合った様に感じた所で、彼は資料を机に置いた。
「まずいな。これ以上考察を続けると、ホームズとの関係修復は無理になるだろう」
ワトスンは頭を振りながら、出していた資料を棚にしまう事にした。
―――――― 最後の事件
1891年、モリアーティ教授は部下達に囲まれつつ頭を抱えていた。
「そろそろ奴等も、儂の正体に迫ってきたか」
体力的には、まだまだ活躍できるが、彼の身辺を嗅ぎ回る者が増えてきたのだ。
「あとは、大佐達に動いてもらって、儂は姿を消した方が安全だろうな。最後はシャーロックとの決着。二人とも姿を消すという選択肢も有るが・・・少し様子見してから決めるか」
今までは、正体がバレるのを用心して部下の前にしか姿を表していなかったモリアーティ教授だが、警察が活動した部下を尾行しはじめたので、指示の為に会うのも危なくなってきたのだ。
「先ずは、シャーロックに脅しをかけておかなくてはな。幸いな事にワトスンは別居中だ」
彼が知る限りホームズは、ベーカー街221Bに一人で居る筈だ。
「教授、乗り込むんですね?我々も御供します」
過去の行動からもモリアーティ教授が、裏側でない人の前に姿を現した事はない。
「馬鹿を言うな。あくまで【会話】をする為に行くのだ。数の暴力を匂わす様な野蛮な真似はやめろ」
部下の同行を振り切り、モリアーティはベーカー街へと向かった。
その数時間後、開業しているワトスンの病院にホームズは駆け込んできた。
「ワトスン君モリアーティ教授が乗り込んできた!」
「なんだって?モリアーティがか?」
今まではホームズが話してはいたが、直接の行動や立ち向かってきた事は無いとワトスンは聞いていた。
ホームズにも『ついに行動に出てきたか?』と言うワトスンの驚きが表情からも受けとめられていた。
この年、シャーロック・ホームズは37歳となっていた。
既に老人だと聞いているモリアーティが一人で来たのなら心配は無かったのだろうが、この【警告】の後は手段を選ばないかも知れない。
いや、ホームズから見た印象だと、直接手を下してくるかも知れないらしい。
「ワトスン君。僕は、しばらくロンドンを離れる事にするよ」
「警察に守ってもらう訳にはいかないのか?いや、相手はモリアーティか!」
ハドスン夫人などに迷惑をかけない様にとの、ホームズの配慮を彼は感じ取って、それ以上の事は言わなかった。
「これが【最後の事件】になるかも知れないが・・・・」
そう言い残して、ホームズとワトスンはロンドンから離れたのだった。
「予想通りにワトスンもついてきたか。まぁ、ホームズの死を認識できる者がいないと面倒だからな」
モリアーティ教授は、誰にも気付かれない様に、部下へと連絡を取った。
件の教授はホームズに捜査中止の勧告をしに直接現れた後に姿を消し、スイスに有るライヘンバッハの滝でホームズと格闘の末に死んだ事になっている。
実際に【犯罪界のナポレオン】と呼ばれた男を見たのは、ベーカー街で受け付けたハドソン夫人と、シャーロック・ホームズの二人だけだ。
以前よりの関係が疑われていた二人のみの目撃者。
ワトスンが、ホームズとモリアーティの関係を口にするのは更に後、ホームズが探偵業を引退した数年後の事となる。