01 マイクロフトの依頼
「ふぅ~!今日は疲れたな」
ベーカー街221Bに戻ったDrワトスンは、深呼吸をしてから扉を開いた。
「お帰りなさい、先生。今日は遅かったんですね」
「ただいまハドスンさん。診察が多くてね」
彼、ジョン・H・ワトスンは開業医である。
医師には大きく分けて、病院医師と訪問医師とがある。
施設で患者が来るのを待つ病院医師と違い、訪問医師は医師が患者の自宅に直接赴いて診察や処置をする形式の医療を行う。
外出が儘ならない者や、外出を嫌がる金持ち、自宅療養患者の診察などが主だが、時には事故や事件の現場に呼ばれる事もある。
ワトスン医師は元軍医上がりで医師免許も持ってはいるが、医師の溢れているロンドンでは、病院への就職はままならなかった。
知人に病院への紹介はしてもらっているが直ぐには良い職場が見つからないらしい。
帰っても寝るだけの部屋でも都会では家賃が高く、兵役の恩給では生活がままならない。
病院に勤められなかった彼は知人の紹介でシェアハウス暮らしをして訪問医師で生活費を稼ぐ事にしたのだ。
若い訪問医師の一部には、診察と称して欲求不満な御婦人の御相手をする者も居るらしいが、彼が疲れた理由がソレかは定かではない。
「ホームズは帰ってますか?」
「ホームズさんは、まだ戻られていませんよ。御食事はどうなさいます?簡単なものなら・・・」
「いや、患者のところで御相伴にあずかってきましたから」
大家のハドスン夫人にしても、彼等が遅いの毎回の事なので、あまり気にはしていない。
医師も探偵も、現場に出てこそのものだと承知しているのだ。
トントントン
「先生、御客様がみえましたが」
ワトスンが部屋でネクタイを緩めて、ブランデーを楽しんでいると、ドアを叩いて来客を知らせる声がした。
「どなたかな?」
「先生。御客様がおみえです。マイクロフト・ホームズさんとおっしゃっていますが」
「マイクロフトさんか?御通しして下さい」
ハドスン夫人に導かれて、額に深い皺を刻んだ男が入ってきた。
マイクロフト氏はシャーロック・ホームズの実の兄で、会計監査人をしている男だ。
シャーロックと同居を初めて数年。先日、はじめて会わせてもらった。
「突然お伺いして申し訳ありませんワトスン先生」
「いましがた帰宅したので、こんな感じで失礼します。しかし、シャーロックは不在ですよ」
「いえいえ、先生にだけ御話しがあって、お待ちしていたのですよ」
そう言えば、通りの途中に高級そうな馬車が止まっていた。
「私にだけ・・ですか?とりあえず、こちらにお掛け下さい」
ワトスンは、少し首を傾げた。
マイクロフトが彼にだけ話す内容など、想像ができなかったのだ。
「先ずは、いつも弟が世話になっている事に御礼を申し上げます」
「いえいえ。私こそ、一介の町医者には余りある経験をさせていただいて光栄ですよ」
ワトスンにしてみれば、家賃はワリカンなので、特別に世話している感じはしていない。
ハドスン夫人の出した御茶に口を付けた後、マイクロフトはゆっくりと口を開いた。
「実は、弟のシャーロックについてですが、何か良からぬ事をしている様子は無いか心配でして」
「良からぬ事・・・ですか?」
シャーロックは、幾つもの難事件を解決し、警察のみならず、庶民にも名探偵として知れはじめている。
「【悪事】と言う事でしょうか?特に依存症も出ていないようですし、むしろ【善行】しかしていない様ですが?」
シャーロックには阿片中毒などの過去がある。
医者として、再発の気配は無いように感じている。
「シャーロックも、今は名声をあげている様ですが、昔は悪い奴等とつるんで公には言えない様な事をしていたんですよ。麻薬に手を出したのは御存知と思いますが、喧嘩も頻繁に行っていましてね」
「私はボクシングをしていたと聞いていますが?」
マイクロフトは目を閉じて首を左右に振った。
「代々、公共の仕事に携わっている我が家において、定職にもつかず、実家にも居ない状況から御察しいただけると思いますが?我が家でも希少な行動力が、悪い方に働いていたのですよ」
「若い時の悪癖など、誰にでもあるでしょう?別居も探偵の仕事は恨まれる事もあるし、自由に行動できるからだと思っていましたが・・・」
どうやら、ワトスンの感じていたシャーロック・ホームズと、肉親が抱く姿は大きく異なる様だった。
マイクロフトの言い様だとシャーロックは悪さが高じて勘当でもされた様にも聞こえる。
確かに、マイクロフトを紹介されたのは彼等の実家ではなかったが。
「奴の悪癖が治まったのなら良いのですが・・一応は弟には内密に見張っていただけないでしょうか?」
「杞憂に終わるとは思いますが、弟さんを心配しての事だとして、できる限りは引き受けましょう」
どのみち、シャーロックの伝記を書く為に色々と同行するのは話しているのだ。
だが、ワトスンも仕事が有るので、今日の様に別行動になる事も少なくはない。
「ところで弟は、今は何をしているか御存知ですか?」
「今日は私の仕事があったので同行できなかったのですが、モリアーティ教授について調べているそうです。教授は兇悪事件のフィクサーとしてシャーロックが注視している人物です」
「モリアーティ・・教授ですか?」
モリアーティ教授を知る者は大変に少ないらしい。
マスコミもヤードも実体は知らず、ワトスンもハッキリとは見ていない。
ただ、シャーロックだけが存在を叫んでいる犯罪界の黒幕らしいのだ。
「モリアーティ教授ですね?私の方でも調べてみましょう」
マイクロフトは、そう言うと挨拶をして帰っていった。
「若い自分の話や、家族との事は、伝記に書くべきだろうか?いや、シャーロックの人間像が歪んでしまうのではないか?」
ワトスンは、一旦下げたブランデーグラスを手にして、残っていた分を一気に飲み干した。
扉の外には、マイクロフトの護衛が立っていた。
「もう、よろしいので?」
「ああ、私的な頼み事なので、たいした時間は取らせないよ。弟が帰って来てもマズイしな」
マイクロフトが玄関先に姿を現した事で、離れた場所に停めてあった馬車が、近付いてきた。
馬車に乗り込んだマイクロフトは、中で待っていた部下に目を向けた。
「【モリアーティ教授】と言う人物について調べてあるか?」
「シャーロック氏が度々口にしているという男ですね?調査では若くして科学論文を書き、ダラム大学で数学教師をしている老人です」
表向き、幾つもの官庁で会計検査の仕事をしているマイクロフトと、その部下の力をもってすれば、過去に大学が【教授】と呼ばれる人達に払った給与明細から、【モリアーティ】の名を見つけ出すのは容易だった。
「ただ、御存知の通り、ダラムとロンドンは離れ過ぎていますから、度々講義もある彼がロンドンでの犯罪に直接関与していると言うのは考えにくいのですが」
「と、言う事は、余程の情報網を持った凄腕犯罪者か、教授の名を騙った別人という訳か」
恐らくは後者だろうとマイクロフトは考える。
仮に【犯罪者モリアーティ教授】を捕まえる事ができても、身元を調べれば別の名前がでてきて、関係者の証言とは結び付かないのかも知れない。
そもそも本物に似せた変装をしていたら、中身とは異なるだろう。
全くの架空の人物よりは、実在の人物に変装して名を騙った方が、箔がつくというものだろう。
マイクロフトは馬車の窓からシャーロック達の部屋を見上げた。
本当は自分の手でシャーロックに監視を付けたいのだが、公費で家庭の問題に手を付ける訳にもいかず、民間の者では弟に気付かれるだろう。
その点、ワトスン氏ならば堂々と【見守る】事ができる。
「イタズラ好きな猫には鈴をつけておかないとな」
マイクロフトは、手にしたステッキで馬車の天井を叩いて御者に合図し、馬車を走らせた。