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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人魚姫の恋の結末は~聖女と呼ばれた女の娘は、城から逃げ出して幸せになることにした~

 むかしむかし、とあるお城の敷地の片隅に、ひとりの少女が住んでいました。少女はまだ日も上がりきらぬうちに起き出すと、桶を持って井戸の長い列に並びます。少女の着る服は下働きの着るような粗末なもので、誰もその姿を目にとめる者はいませんでした。


 痩せた腕で、ようやく桶いっぱいの水を汲み上げると。お城の離れにある狭い厨房まで担いで行って、大きな水瓶に注ぎ入れました。今日自分が使うだけの水を、全部自分で汲んでくる……それが少女に命じられた、朝の日課なのです。


 水が汲めたら、次は竈の火おこしです。初めは何度やっても火がつかなくて、そのたびに厳しく叱責されました。ですが今はもう、すっかりお手の物になっています。


 わたし……違う、少女は水と少しのお塩が入った鍋を火にかけると、少しずつ押し麦を振り入れました。そうして作られた麦粥が、グツグツと湯気を立て始めた頃。少女の母親が、厨房に入って来るなり言いました。


「まだ朝食すら出来ていないの!? 本当に、お前はグズなんだから!」


 母親はその美しい顔を歪め、きらびやかな宝石が編み込まれた髪を振り乱すと、怒ったように叫びました。


「さっさと食べておしまい! 終わったら、これを全部繕っておくのよ。手を抜いたら承知しないからね!」


 母親はどこから持ってきたのか、山のような繕い物を厨房の隅にある籠に押し込むと。金糸で縁取られたドレスの裾を翻し、離れの棟から去っていきました。


 この宝石と金糸を纏う女の名は、カリオペ。この小さな島国タラサの王バシレウスの妃です。そしてこの王妃を母に持つ少女は――この国の王女カリスタだったのです。


 この国の正統なる王女が、まさかこんな暮らしをしているとは、誰も想像だにしていないでしょう。でも、仕方のないことなのです。長いスカートに隠れた王女の脚の一部には……不気味に光る、魚の(うろこ)が生えていたのですから。



 *****



 そこまで考えて、私はため息をつきました。でもこうして他人の物語のように一歩を引いて見ていると、いくらか気が紛れる気がします。


 私は急いで朝食を終えると、籠から繕い物を取り出して、せっせと針を刺し始めました。夕食を作る時間までに終わらせなければ、またお母様に怒られてしまいます。


 私の母……カリオペは、かつて王都のはずれの港町に住む、身寄りのない娘だったそうです。ですがある日、その港に他国の軍船が押し寄せてきたのが、全ての事の始まりでした。


 今にも守備が破られようとした――その時。逃げ惑う人々の中でただ一人、カリオペは矢の飛び交う岬に立つと……海に向かって祈りました。するとたちまち海は荒れ、他国の軍船はことごとく沈んでしまったのです。


 カリオペの起こした奇跡は、それだけでは終わりませんでした。祭壇に捧げたただの水に向かって祈ると、水瓶いっぱいに満たされていたそれは、たちどころにどんな怪我でも治す神の薬へと変わりました。


 折しも周辺国から激しい侵攻を受けていたこの国にとって、彼女は窮地を救う奇跡そのものの存在だったのです。人々は彼女を救国の聖女に祀り上げ――やがて民衆の声に後押しされるかのように、聖女はこの国の王の妃となりました。


 孤児からこの国で最も高位の女性へと上り詰めたカリオペは、間もなく王女……つまり私を、生みました。初めは優しい母だったような気がします。ですが、私が三つになってしばらくした頃のことでした――この脚に、大きな鱗が生え始めたのは。


 その不気味な姿に恐怖した母は、秘密裏に医師を、そして呪術師を呼んで、なんとか治そうと躍起になりました。しかしいくら剥がされようとも鱗はすぐに再生し、年々その数を増すばかりなのです。


 そうするうちに、やがて世継ぎとなる弟が生まれました。そんな弟の脚には、三つをこえても、七つをこえても、鱗が生える気配はありません。こうして母の愛は、弟ばかりに注がれるようになり――私は母にとって、疎ましいだけの存在となったのです。


 今や十五になった私の両の脚には、青緑色の鱗がくるりと螺旋を描くように巻き付いておりました。ようやく増えることは無くなりましたが、この頃の母はといえば治療すら諦めてしまったようで、私の秘密はひた隠しにされるようになっていたのです。



 ――先月のことです。珍しく母と共に私の住まう離れを訪れた父バシレオスは、憐れみを覚えたのでしょうか。みすぼらしい姿の私をひと目見るなり、母に向かって言いました。


「カリスタも、もう十五歳だろう。社交の場に姿を見せないことを不審がる者も多いのだ。少しは着飾らせて、公の場に出してやってはどうだろう」


 そんな父王は、特に私を疎んじているわけではありません。しかしそれは、ここ十年ほど……長いスカートの下に隠れた私の脚を、まともにご覧になっていないから、なのかもしれません。


「この子は病気なのだと、申し上げましたでしょう!? こんな見苦しい娘、人前になど出せるわけがない!」


「そ、そうだな、そなたの言う通りだ」


 一国の王である父ですが、どうにも母には強く出られないようなのです。救国の聖女と謳われた母を失ってしまっては、いつまた他国に攻めて来られるか分からないからでしょうか。


「ああ忌まわしい、なんて穢らわしいの。こんなものを見られたら、私を卑賤の娘と嘲笑い、足元を掬ってやろうと狙う貴族の女共に、なんと言われるか……。知られたら、また海へ返せと言われてしまう!」


 島国であるこの国では、古くから海神様を信仰しています。聖女カリオペが祈るとたちまち海は荒れ、再び祈れば海が凪ぐ……その姿を見た人々は、母を海神様が加護を与えた聖なる乙女だと(とら)えていたのです。


 そのため聖女が国王に嫁ぐことになったとき、反対する人々もおりました。海神様の聖女は海に返さなくては、神の怒りに触れてしまうだろう、と。


 ですが聖女の力を軍事に取り込みたい一部の貴族、そして王の意向によりその意見は抑え込まれて、カリオペは王妃となりました。


 しかし王女が海に呪われた姿で生まれてきたとあっては、再び聖女を海に返せという意見が力を得るでしょう。


「ああ、怖い、怖いわ……こんなことが知られたら、きっとわたくしは海に沈められてしまう! わたくしは今のこの場所を絶対に譲らない。バシレオスの妻の座は、誰にも渡さないわ! 貴族共め、自分の娘を王妃にしたいからと、そうはさせないのだから……!」


 ――聖女を贄に捧げよ!


 その言葉を聞くことを、母は何より恐れているようでした。私の脚を治すことができなかった医師を、呪術師をみな処分してしまった後――王妃は私の鱗の存在を、誰にも知られないよう腐心するようになりました。


 それでもまだ幼いうちは、使用人もわずかに付けられていたのです。……しかし、四年ほど前のことでした。私の境遇を見て見ぬ振りをする使用人たちばかりの中で、ただ一人、私に優しく接してくれる年配の女中が現れたのです。


「ああカリスタ様、実の母親から疎まれるなど、なんておかわいそうなのでしょう。さあ私とここから逃げましょう!」


 まだ幼かった私は嬉しくて、二つ返事で彼女に付いて行きました。


 彼女に手を引かれて走っている途中、長いドレスの裾がもつれて私は路地に倒れ込みました。膝に痛みを感じて裾をめくると、鱗が一枚剥がれて血が滲んでいます。


 その姿を見た女中はすかさずしゃがみ込むと、手巾を取り出し私の膝をぎゅっと強く握り込みました。


「いたっ!」


「ああ、失礼いたしました。悪い血はよく出してしまった方が、傷が治りやすいのです」


 思わず声を上げた私に、女中は慌てたように言うと。なぜかその手巾をとても大事そうに、自らの懐に仕舞い込みました。


「さあ、早くこちらへ……」


 そうして彼女がうずくまる私に手を差し伸べた、その時。私達はあっけなく、衛兵たちに捕えられてしまいました。その後かの女中は、王女を(かどわ)かした罪で――。


「ああ、やはり使用人なんて信用できないわ! こうなっては、自分のことは全て自分でおやりなさい。そのくらい、いくらグズなお前でも出来るでしょう!」


 それ以来、私は目立たない色味の簡素な衣服を着せられて、身の回りのことは何でも自分でやるようになりました。でも私にとって、少しだけ嬉しいこともありました。全て自分でやるということは、軟禁状態にあった部屋から、出られるということだったのです。



 *****



 ようやく全ての繕い物を終えると、私はひとつ伸びをしました。作業は順調に終わり、これなら今夜は怒られずに済みそうです。


 しかし夕食の準備をしようと(かまど)に向かって、私は血の気が引きました。(まき)がもう残り僅かで、これでは調理に足りないではありませんか。


 ――またお母様に、要領が悪いと叱られてしまう!


 私は薪をもらうため、慌てて離れを飛び出しました。使用人が行き来する通路を走っても、小屋で薪を両腕いっぱいにもらっても、誰も私が王女だとは気付きません。


 そんな油断もあったのか……帰りを急ぐ私は僅かな段差に躓いて、薪と共に倒れ込みました。乾いた木切れがガラガラと盛大に音を立てると、それに気付いたのか走り寄ってくる足音がします。


「大丈夫か!?」


 顔を上げると、声の主は私と同じくらいの年頃の少年でした。城の衛兵のお仕着せを着た彼は、心配そうに私を覗き込んでいます。


「は、はい。大丈夫で――」


 しかしそこで、驚いたような顔をした彼の視線が、どこへ向いているのか気が付いて……私はハッとして、膝上までめくれ上がったスカートの裾を引っ張りました。


 ――見られた!


「あ、ごめん! キレイだったから、つい」


 ですが彼の反応は、私が覚悟していたものとは全く異なるものでした。


「……気持ち悪くないの?」


 おずおずと問う私に、彼は首を傾げて不思議そうに答えます。


「別に? 夕日ですごいキラキラ光って、夕暮れの入り江みたいにキレイだったけど」


「そう……なの……」


「ああ」


 呆然とする私に彼は笑ってうなずくと、屈託のない笑顔で言いました。


「俺はイオニス。あんたの名前は? そういや井戸とかでたまに見かけるけど、あんたも(ここ)で働いてるのか?」


「私の名前……名前は……」


 名前を言ったら、さすがに王女だとバレてしまうかもしれません。私がスカートをぎゅっと掴んだまま何も言えないでいると、彼は少しだけ慌てたように言いました。


「いや、言いたくないならいいよ! 俺このへんの区画で警邏(けいら)に回ってること多いからさ、また困ったこととかあったら声かけてくれよ」


「あ……」


 イオニスと名乗った彼は散らばった薪を集めるのを手伝ってくれると、手を振って去っていきました。



 *****



「お、また会ったな!」


 あれから数日後の朝。水桶を持って城壁内の片隅を歩いていると、向かいから来たイオニスが笑って小さく手をあげました。その含みのない表情は、まるで鱗を見たことなんて忘れてしまったかのようです。


 ――ねぇ、なんで鱗のこと聞かないの?


 そう問い詰めたかったけれど、私は怖くて聞くことができませんでした。代わりに勇気を出して、小さな声で言いました。


「あの……おはようございます」


「ああ、おはよう!」


 母以外の誰かと朝の挨拶を交わしたのなんて、何年ぶりのことでしょう。快活に応える彼に元気をもらったようで、私は思わず笑みをこぼしました。


「その桶、重そうだな。どこまで運ぶんだ?」


「あの……北の別棟に」


「あれ、あそこ使われてたんだな! でもそこなら巡回の経路に入ってるからさ、それ、持って行ってやるよ」


「でも、これは私の仕事だから……」


「いいんだって! たまには手を抜いてもさ」


 半ば強引に桶を持ち上げられて、でも私は、なぜか悪い気はしませんでした。彼の持つ明るい雰囲気のせいでしょうか。


 それからも私たちは仕事の合間にたまに会うたび、少しずつ色々な話をするようになりました。


 彼が話してくれたことによると、彼の父親はこの近隣に点在する島々の小国を渡り歩く、冒険者だったそうです。しかし昨年起こった紛争に傭兵として参戦し、命を落としたということでした。


「親父は王様の陣まで迫った敵将と戦って相討ちになったらしくてさ、孤児になった俺は多額の報奨金と今の仕事をもらったんだ」


「……恨んでは、いないの?」


「誰を?」


「その、お父様の死の原因になった王様と……自分を一人ぼっちにしたお父様を」


「……そりゃあ、こんな早くに置いて逝くなんて薄情だなって、ちょっとは思ったよ。でも冒険者に危険は付き物なんだ。それにどんな仕事でも親父はいつも全力だったから、そこは誇りに思ってるさ!」


「そういう、ものなのね……」


 そこから彼は、父親と共にまわったのだという色々な国の話をしてくれました。牛頭の巨人が守る地下迷宮の探索に、谷間に住まう邪悪な獅子との駆け引き。翼の生えた白い馬を追いかけて、美しい歌声で船乗りを惑わす海の魔女が出ると言われる魔の海域を、命がけで渡った話。


 会うのはいつも仕事の合間の短い時間でしたが、私は外の世界を教えてくれる彼の話を聞くのが楽しくてたまりませんでした。――でもこのことは、お母様には絶対に秘密にしなければなりません。



 *****



 秘密の友だちと知り合ってから、三月(みつき)ほどが経ったころ。今日もイオニスから外の世界の話を聞いた私は、思わず小さく呟きました。


「私も、実物を見てみたいな……」


「じゃあさ、一緒に行こうか」


「本当に!? なんて……ムリよね、分かっているわ」


 実は先日、私は自分の名と共に、隠された王女であることを告白していたのです。ですがちっとも変わらないまま接してくれていた彼は、初めて見る真剣な顔をして、言いました。


「……カリスタ、ここに居るの、辛いんだろ? ならさ……俺と一緒に、行かないか?」


「……まさか、冗談はやめてよ」


「俺は本気だよ。せっかくここで安定した仕事をもらったけど、やっぱり俺は冒険者になって、珍しい魔物の記録をもっと集めたいんだ」


 以前彼が見せてくれた手帳には、彼が父親から引き継いだのだという、多様な魔物の覚書がたくさん詰まっていました。その続きを、彼は書きたいと言うのです。


「それはとっても素敵ね! でも、私も行くのは無理よ……絶対に、捕まってしまうわ」


「王妃はさ、カリスタのことをあまり知られたくないんだろ? なら追手もそれほど派手には出せないんじゃないかな」


「でも……どさくさに紛れて、貴方を殺そうとするかもしれないわ。またあの女中みたいに、イオニスまで殺されてしまったら、私……」


 希望を自ら断ち切ろうとする悲しみに、私が顔を歪めると。彼は真剣な顔をしたまま、少しだけ掠れた声で、言いました。


「正直に言うとさ、俺は子どもの頃からずっと、囚われのお姫様を助ける冒険譚に憧れてたんだ。でも、どうせ命を賭けるなら……俺は、カリスタがいい」


 右手をそっと握られて、私の心臓は早鐘を打ち始めました。


 ――この人と、一緒に行きたい!


「分かったわ。もう少しだけ、時間をくれる? 私、貴方と一緒に行けるように、頑張るから」


 その日から私は、自分を憐れむ一切の時間を捨てて、脇目も振らずに与えられた仕事をこなすようになりました。城を出ても食べていけるようにするには、手仕事を身につけなければなりません。


 そして自分の力で城を出られるように、脱出できそうな経路を調べ、身体も鍛え始めたのです。


 全ては、いつかイオニスと一緒に冒険者になる夢のためでした。自力で城を出ることを決意したのは、せめて城の外で落ち合うようにすれば、イオニスの危険をできるだけ減らせるはずだと考えたからなのです。もう二度と、あの女中のときのような結末には、したくありません。


 そんな私もお母様の前では、きっちりと意のまま動く人形を演じる日々でした。私が何でも完璧に言われたことをこなしていると、貴族たちへの愚痴をひと通り吐き出すだけで、母は満足して帰ってゆきました。


 しかしそのあまりにも順調な日々に、私はまたもや、油断を生むことになってしまったのです。


 今日も脱出経路を調査するため、わずかな時間を見つけて城の敷地内を探索していたときのこと――。壁の隙間から向こうへと滑り込むように抜け出した、刹那。スカートが隙間に引っかかり、ふくらはぎの鱗に真昼の陽光が反射しました。


 ――しまった!


 慌てて隙間の向こうへ目をやると、一人の祭司がこちらへ顔を向けています。


 ――もしかして見られた!?


 私は慌てて足を引っ込めて、壁のこちら側へと隠れました。あの祭司様には最近祈祷の時間に会ったから、私の顔を知っているはずです。王族総出で行う決まりになっている海神様へのご祈祷のときだけは、お母様も渋々私にドレスを着せて、王女として人前に出してくれるからでした。


 しかし、困ったことになりました。聖女を海に返せという勢力の急先鋒は、かの祭司様も属している神殿なのです。


 祭司様に見られてしまったかもしれないことを、お母様に報告すべきでしょうか? でも恐ろしくて、私は言い出すことが出来ませんでした。なぜそんな場所をうろついていたのかと問われたら、答えることが出来そうにないからです。


 ――どうか、見られていませんように。


 ですがそんな私の祈りも虚しく……間もなく、神殿に扇動された民衆たちが群れをなし、魔女狩りを名目として城へと押し寄せました。


「これは海神様の呪いなのだ! 王女に成り代わった海の魔女を、殺せ!!」


 神の名のもとに大義名分を掲げた祭司様から、行く手を阻めば神罰が下ると脅された衛兵たちは……交戦もそこそこに城門を開放し、暴徒を招き入れてしまったのです。


 しかしこの混乱は、私にとってはむしろ好都合なことかもしれません。まさか王女が離れにいるとは祭司も思わないでしょうから、少しは時間稼ぎになるはずです。その僅かな隙を突こうと、前々から準備し隠していた荷物を棚の奥から引っ張りだした、その時。


 バンっと大きな音を立て、離れの扉を勢いよく開けたのは……私の母、カリオペでした。


 母はつかつかとこちらに近付くと、私の腕を掴んで言いました。


「このグズ! 一体何をぼんやりしているの!? 早く――」


 しかし母がみなまで言う前に、魔女狩りの暴徒たちが、離れになだれ込んで来たのです。


「見つけたぞ、あの娘だ! 魔女を殺せ!!」


 勢いよく振り上げられた手斧が、私の脳天へと落とされようとした、その瞬間。私を突き飛ばし、代わりにその身へ刃を受けたのは――母でした。


 母は肩から切り裂かれたドレスに赤い血を滲ませながら……まるで叫ぶかのように、高らかに歌い始めます。すると暴徒たちは気が狂ったかのように、たちまち同士討ちを始めました。


 座り込んだまま呆然とその様子を見ていると、やがて母は血の泡をふいて崩れ落ち、同時に歌も止みました。しかしその時には、もうこの場に立っているものは一人もいなかったのです。


 今のうちに逃げるべき――そう考えつつも、私は我知らず血の海の中に倒れ伏す母に駆け寄りました。膝をついてその顔を覗き込むと、母は息も絶え絶えに、言いました。


「……貴女の鱗を見るたびに、私の嘘を責められているようだった。私と()()鱗を持って生まれた貴女が、自分の罪を見せつけられているようで、怖かった。私の嫌なところばかりが似ている貴女が、憎らしかったわ」


「……同じ? この、鱗が!?」


 私は驚いて、思わず自らの鱗に触れました。でもかつて見たお母様の細くなめらかな脚に、そんなものは無かったはずです。


「……真実を暴かれることが、怖かった。魔物であると知られたら、あの人に厭われて、そばにいられなくなってしまう……それが怖かったの。わたくしはただ、あの人とずっと一緒に居たかっただけなのに」


 母の両の目から涙が溢れ、血溜まりの中に落ちました。


「魔物って、まさか……お母様が……」


「カリスタ、貴女もこれだけは気を付けなさい。人魚の血は、人間にとって万能の霊薬となるの。鍋いっぱいの水に一滴垂らしただけで、どんな怪我でもたちどころに治る薬になるわ。生き血を全て抜かれるか、死なない程度に飼われるか……そんな同胞達を、わたくしはたくさん知っている」


「では、お母様の作る薬の正体は……!」


 私は思わず、母の血でべっとりと赤く染まった自分の手のひらを見つめました。私にも、その血が流れているというのでしょうか。


「魔女も、聖女も、本質的には同じもの。ただ人間の都合だけで、どちらになるかが決まるのよ。……人間を、信じてはいけないわ。甘い言葉に、けして気を許してはいけない」


 かつて私を連れて逃げようとして、処刑された女中のことを、私は思い出しました。私の血を拭った手巾を、そっと自らの懐に……。


 人間を、信じては、イケナイ――。


 黒い疑念が渦巻きかけて、私は頭を振りました。


「ならばなぜ、お母さまは人間として暮らしていたの?」


「ただあの人の、バシレオスの隣で、共に生きたかっただけ。そのためならば、すべてを騙して、捧げてもよいと思ったの」


「それほどまでに、お父様のことを……」


「弱かった私を許してとは言えない……でも貴女はどうか、強く生きてね。ああ、憎らしいほどに愛おしい、私によく似た、私の娘……」


 震える手が私の頬を撫で、そしてするりと力が抜け落ちた、その瞬間――この国最高の位にある女のために金糸銀糸で仕立てられたドレスの裾から、ズルリとこぼれ出たものは……青緑色に輝く大きな魚の尾びれでした。



 それから間もなくして――数名の近衛と共にこの場に駆け付けた父は、この光景を見るなりがくりと膝をつきました。そして、すでに息絶えた母を抱き上げながら……血を吐くように、言いました。


「すまない……あのとき助けた人魚が君なのだと気付いていたのに、言えなかった。君が私に正体を知られることを、恐れていることを知っていた。だから本当は気付いていると知られたら、私の前から居なくなってしまうのではないかと思うと……怖かったのだ!」


 初めて見る父の涙を前にして、私は静かに言いました。


「お父様、私は旅に出ます」


「や、やめてくれ……今お前まで失うなど、私には耐えられない!」


「王女に化けていた悪い魔女は、それに気づいた聖女に命を賭して退治されました。それで、いいのです」


「だがそれでは、お前の名誉に傷が付いてしまうだろう!」


「名誉なんて、私には取るにも足らないものですわ。退治されてしまったことになれば、これ以上の追手も来ないでしょう。……お父様、お願いです。どうかお母様の物語の結末を、きれいな花で飾ってあげて」


「カリスタ……しかし、まともに城から出たことすらないお前が一人で旅に出るなど、絶対に無理だ! すぐに大変な目に……」


「大丈夫よ、お父様。私、自分の身の回りの事はちゃんと自分でできるのよ。お母様が、教えてくれたから」


 使用人を全て遠ざけた離れの厨房で……竈に火もつけられない私の様子を見て、母は苛立つように叱りつけました。


『なんでこんなことすら出来ないの!? ああなんて愚鈍な娘、ここが市井なら生きていくことすらできないわ! 貸しなさい! 火打石とは、こうやって使うのよ!』


 母は宝石を縫い込んだドレスを煤で汚しながら、私が出来るまで厳しく叱り続けました。私がひとりで火がつけられるようになるまで、何度も、何度も――。


 なぜ母はあの時、煤にまみれてまで私に火の起こし方を教えたのでしょうか。今はもう、聞くことはできないけれど。


 そのとき。全ての暴徒が倒れ伏し、静まり返ったこの場に向かい、走って近付く足音が聞こえてきました。ぐずぐずしていては、間もなく人が集まってくるでしょう。


「では私は、行きます。お父様、どうか(アリオス)とお元気で」


 私が部屋を出ようとすると、ちょうど足音の主が部屋に入るなり言いました。


「待ってください! 自分が、カリスタ様と一緒に行きます!」


「衛兵か? 名を名乗れ!」


 王の顔を取り戻した父が鋭く問うと、足音の主は素早くその場に(ひざまず)いて、言いました。


「アドスの息子、イオニスです。カリスタ様の護衛は、自分にお任せいただけませんか? この命に代えても、必ずお守りいたします」


「イオニス……」


「おお、あの勇者アドスの息子か! カリスタよ、知り合いなのか?」


 私がこくりと頷くと、お父様はイオニスに向かって言いました。


「そなたの父に、私は命を助けられたも同然だ。そしてその息子は、私の娘を助けてくれようというのか……しかしカリスタよ、そなたはそれで良いのか?」


「はい。私は……イオニスと共に行きたい!」


「そうか……二人の間に何があったのかは、あえて聞かぬでおこう。イオニスよ、娘を頼む。カリスタよ、この首飾りを持って行け。鎖の輪を一つずつ外して売ってゆけば、当面の路銀くらいにはなるだろう」


 父がその首から外した物を見て、私は思わず驚きの声を上げました。


「それは、王の証のメダリオンではありませんか!」


「名誉なんて、取るに足らない物なのだろう? すまない、今そなたらの助けになりそうなものは、これくらいしか持ち合わせていないのだ」


 これはきっと、父の心からの旅の(はなむけ)なのでしょう。そう感じた私は、素直に金の首飾りを受け取りました。


「ありがとう、ございます……」


「ああカリスタ、本当に行ってしまうのか?」


 未だ涙の枯れぬ父へと、私は微笑みかけました。


「お父さま、生きてさえいれば、いつか必ずまた会えますわ」



 *****



 私たちはそのまま混乱に乗じるように、かねてから調べておいた経路で城を脱出しました。


 お母様、貴女は人間を信じてはいけないと言ったけど、お父様のことも信じられなかったのでしょうか。――でも、私は信じたい。


 その夜。野営の焚き火の前で身を寄せ合いながら、私は彼に問いました。


「ねぇ、イオニスは魔物に詳しいから……薄々気づいていたんでしょう? 私の、正体に」


「うん? 知ってたよ」


「じゃあなんで、何も言わなかったの?」


「言う必要が無かったからだと思う」


「思う、って……覚えてないの!?」


「うん、たぶん、そんな言うほどのことだと思わなかったからかな」


「そっか……そうなんだ……。ねぇ、ちょっぴり変わってるって、言われない?」


「……実はさ、母さんが俺と親父を捨てて出て行ったとき、言われたんだ。『あたしはもう付いて行けない。あんたたちはまるで、魔物に恋してるみたいだ』ってさ」


「魔物に、恋を……」


「ご、ごめん! カリスタを魔物だって言いたかったわけじゃないんだ! ただその、クソっ、何て言ったらいいか……」


 困ったように頭を掻く彼に、私は心から笑いかけました。


「いいの。イオニスがキレイだって言ってくれたあの日から、私はこの鱗、嫌いじゃなくなったから!」



 翌朝――イオニスの着替えを借りたら、私はすっかり男の子みたいに見えました。ズボンを履いて脚を隠し、長かった髪は肩のあたりでばっさり切って、端を括って帽子に隠すようにして入れました。女の冒険者はまだ少なくて目立ってしまうだろうから、このくらいが丁度いいでしょう。


「どこに行きたい?」


「そうね……わたし、翼が生えた白馬を見てみたい!」


「よし、じゃあ行こうか!」


 差し伸べられた彼の手を、私はしっかりと握りしめました。


 今はただ、まっすぐにこの人を信じよう。

 お母様、それが強さなのだと……貴女の娘は思うのです。







 おしまい


最後まで読んでいただきありがとうございました。


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