絶望と憎悪
クリスティアは短い廊下を歩き、扉のない部屋の向こう、父の背中を発見した。
「お父さん! お客さんが来てるよ」
部屋に入りながら言うと、父は訝しげな表情で振り返った。手元には茶葉と湯を入れたばかりのティーポットがあり、甘い香りが立ち上っている。
「クリスティア。暗くなる前に帰って来いと言った筈だが……」
「ごめんなさい。お母さんに花束を……――――あぁっ!? ない……。洞窟に落として来ちゃったんだわ」
「何で落とすんだ。それよりも、俺に客とは? 予定では明日、エルフォートから魔術師が来て下さる事になっているが……」
「エルフォートから来たのかな? 遠いから、早めに出て早く着いてしまったのかもしれないよ?」
そう言われても、父は納得が出来なかった。娘は一体、誰を連れて来たと言うのか。
「そのお茶、お客さんに出すものだったんじゃないの?」
考え込む父に、クリスティアはクラシェイドの時と同じ様に、話を進めていく。他人を疑う事を知らない純粋な心は長所であり、短所でもあった。しかも、この場合、後者として働いていた。
父は険しい顔のまま、静かに首を横に振った。
「お前の為に用意したんだ。一番近いとは言え、森と洞窟を通るし、大変だったろうと思ってな。……そいつはどんな奴だ。本当に魔術師なのか?」
クリスティアは父の警戒を理解出来ず、考える素振りをして答えた。
「魔術師の杖、持ってたね。魔術師って言うのは本当だよ! だって、洞窟でヒドラに出くわしたんだけど、その人が簡単に倒してくれたの。私、命を救われたのよ! しかも、唯の魔術師じゃない……黒魔術師なの! 黒い地味な服を着ていたけど、すっごく綺麗な男の子で、私とそんなに年が変わらないんじゃないかな」
話を聞いている父の顔がみるみるうちに血の気を失くしていったが、クリスティアは気付かずにティーポットに視線を移した。
父は身体の向きを変え、動き出した。
「クリスティア。何があっても、こっちには来るなよ! いざとなったら、そこの裏口から逃げるんだ」
「え? お父さん、どうしたの? よく分かんないけど、お茶淹れておくね」
クリスティアは父の言動が未だ理解出来ず、走り去った父の背中をそのまま見送った。
クリスティアの父ブライト・リアンネがリビングルームへと辿り着くと、テーブルの前に金色の杖を持った黒魔術師が立って居た。
娘の話通りの綺麗な顔は、暗い影が落ちて不敵な笑みを浮かべていた。左の頬には“月影の殺し屋”を示す、血の色の十字架のタトゥーがあった。
ブライトは思わず後退りそうになった身体と心を引き止め、声を絞り出した。
「お前はまさか……」
「……娘との最期の会話は楽しかった?」
ブライトの言葉をクラシェイドが遮り、ブライトの疑念は確信へと変わった。
ブライトは唇を噛み、眼光を鋭くした。
「ヒドラを一人で倒せる黒魔術師なんて、そうそう居ない。“月影の殺し屋”が堂々と家に侵入して来るなんてな……」
「そうだね。オレも想定外だったから。でも、安心しなよ。オレはターゲット以外を殺さない」
とても娘と年が近い少年の表情と声色ではなかった。あまりに冷たく、あまりに無機質。まるで、殺戮兵器の様な感じさえした。
この少年には勝てないし、逃げられない。ブライトは汗で背中が濡れていくのを感じていた。
「何故、お前達は人を殺める?」
『――――ダークネススピア』
抑揚のない、クラシェイドの術名と共に、黒い闇の結晶が無数に出現し、ブライトを背中から貫いた。
それは一瞬の事。
痛みが脳に伝わるまで時間を要した。
黒い結晶がマナへと還ると、傷口から鮮血がドバっと溢れ、ブライトはそのまま倒れた。痛みが彼を襲ったのは、まさにこの時で、ブライトは悲痛の叫びを上げた。
狭い家の中で、ブライトの悲鳴はよく響き、キッチンでお茶を注いでいるクリスティアの耳にも届いた。
クリスティアが急いで駆け付けた時には、父は血溜まりの中で息絶えていた。
「な、何……これ。お父さん? お父さん、どうしたの!?」
父の身体を揺すったが、返事はなかった。
悲しみがじわじわとクリスティアを襲う中、冷静な部分のクリスティアがこの場に居るもう一人を見つけた。
クリスティアは膝を伸ばし、黒い服の長い裾を翻す少年を引き止めた。
「あなたがやったのね!? どうして、こんな酷い事をするの? お父さんはあなたに恨まれる様な事したの?」
涙混じりの声だった。
反応するつもりはなかったクラシェイドだが、クリスティアの最後の言葉に反応を示し、足下の魔法陣を消して、ゆっくりと振り返った。
「恨み? オレは感情で人を殺さない。唯、命令された通りにターゲットを殺すだけ」
顔立ちは相変わらず綺麗でドキッとするが、感情のない表情がゾクッとした。
クリスティアが俯いて言葉を発しなくなったので、クラシェイドは再び足元に移動術の魔法陣を展開させる。
クリスティアは拳を握り、ワナワナと震えていた。
「あなたには……あなたには感情がないの!?」
その言葉に、再びクラシェイドの詠唱が中断した。今度は振り返らず、じっと何かを考える様に停止する。クリスティアからはその無感情な背中しか覗えなかった。
クリスティアは父とクラシェイドを交互に見、目に涙を浮かべながらすぐ近くの棚から護身用に保管していた銀色に輝く二本の刃を取り出した。
「良い人だと……思ったのに。許さない……許さないわ!」
溢れる怒りと悲しみを原動力に、小柄な少女は殺し屋の少年へと駆け出した。
クラシェイドは振り向きざまに、クリスティアの双剣を杖で受け止める。カンっと、甲高い音が響いた。
近くで見た少女の顔は怒りと悲しみと絶望と涙が入り混じった、とても痛々しいものだった。「感情がない」と言われてしまったクラシェイドには無論、何も感じる事はなかったが、別の理由で困惑の表情を見せた。
「オレはターゲット以外を殺さない。此処に居る意味、もうないんだけど……」
杖で双剣を押し返すと、クリスティアがギリっと奥歯を噛んだ。
「殺してやる殺してやる殺してやる!!」
妙に冷めた殺し屋の言葉は油そのもので、父を失った少女の怒りを一層燃え上がらせた。感情のままに振り回された粗い剣筋が休む間もなくクラシェイドに襲いかかるが、彼はものともせずに、まるで子猫と戯れあっている様な軽い調子で受け流した。
攻撃は一度も通用しない。普通に戦っても、月影の殺し屋最強と謳われるこの黒魔術師には敵わないと言うのに、感情が乱れた状態でしかも実戦経験が皆無の少女が優位に立てる筈がなかった。
冷静な状態だったなら、勝てない勝負をしないのが人間と言うもの。しかし、今のクリスティアはたとえ刺し違えてでも父の仇を取りたいと言う感情に支配されていた。
なかなか諦めない彼女に、クラシェイドは嫌気が差していた。移動術を使おうにも、この距離では詠唱が出来ない。
そんな彼の心の声が届いたのか、クリスティアの手がピタリと止まった。剣を下げて俯き、微かに肩を震わせる。
「お父さんは! お父さんは……お母さんが死んでからも、私を必死に育ててくれた。護ってくれた。私、お父さんが大好きだったのよ。それをあなたが!!」
クリスティアがバッと顔を上げると、杖を下げて立って居ただけのクラシェイドはビクッとした。この間に詠唱をしておけばよかったものの、クラシェイドは向けられた沢山の感情の渦に呑まれかけていて、どうしたらいいのか分からなくなっていた。
理解は出来ない。けれど、放っておく訳にもいかない。ヒドラと戦うと決めた時のそれと、よく似ていた。
クリスティアは剣を構えようとはせず、涙で濡れたエメラルドグリーンの瞳をクラシェイドに真っ直ぐ向けた。
「お父さんを……お父さんを返してよ!!」
力一杯叫ばれた声は、真っ直ぐクラシェイドへと放たれた。
「…………え?」
瞬間、クラシェイドは全身から血の気が抜けていくのを感じた。クリスティアの感情は未だに理解出来ないが、過去に同じモノを向けられた事があった様な気がした。
ぼんやりと瞳に映る少女は女性へと変わり始める。その女性は純白の法衣を身に纏い、サラサラの綺麗な栗色の髪は腰まであった。誰なのか、知っている筈なのに知らない。
辺りは白銀の雪景色へと変わり、女性の法衣と雪上が徐々に赤く染まってゆく。そして、女性は涙を浮かべた強い瞳でこう言い放ったのだ。「――――を返してよ!!」と。肝心なその対象となる名称は分からなかった。
胸の痛みよりも先に、脳への痛みがクラシェイドを襲った。脳の奥底へと消えてしまった記憶を無理に掘り起こそうとした故だった。
記憶が創り出した景色が歪み、現実へと引き戻される。
クラシェイドは激痛に耐え切れなくなり、頭を片手で押さえて身を屈めた。それが大きな隙となってしまい、銀の刃が再び振り下ろされた事に瞬時に気付けなかった。
「しまっ……――――」
ザクッ!
黒い裾の切れ端が宙を舞い、クラシェイドの背筋が凍り付いた。ぎりぎりのところで躱してこの程度で済んだが、あと一歩でも遅かったら身体に赤い線が入っていただろう。殺し屋を続けて来て、初めてひやっとした瞬間だった。
クリスティアはクラシェイド自身に傷を一つも付けられず、唇を噛んで涙を流した。
「どうしてなのよ……」
再び剣を振るう気力もなくし、クリスティアは腕をだらりと下げた。
それを見たクラシェイドは、足下に杖を立てて魔法陣を展開させた。冷静に見えて、内心は戸惑っていた。
この感情は? あの女性は? 疑問が脳内を埋め尽くす中、クラシェイドは魔法陣から放たれる紫の光に包まれて静かに姿を消した。
一気に静寂が降りた室内。
呼吸をしているのはクリスティア、唯一人。
クリスティアは怒りと悲しみだけが残った双剣を棄て、ゆっくりと父に歩み寄った。もしかしたら……と言う期待があった。けれど、それが一層虚しさを増幅させた。
クリスティアはもう二度と動く事のない父の傍らに座り込み、顔を両手で覆った。
「お父さん……」
泣き続けた。涙が乾くまで、ずっと……