目的地まで一緒に
クラシェイドはヒドラを観察し終えた後、もう一度少女を一瞥した。
少女の瞳は潤み、嗚咽が微かに聞こえるが、クラシェイドにとってそれはどうでもいい事だった。当然、可哀想だとか、助けたいだとか、そんな感情は湧いて来なかった。
少年は正義の心を持った救世主ではなく、冷酷な殺し屋だ。
クラシェイドは哀れな犠牲者から目を離し、真っ直ぐ入口の方へ歩いて行った。
強大な魔力が遠ざかった事で、ヒドラは安堵して再び動き始める。
三つの首を前に倒し、細長い二枚舌をチラチラと揺らす。
ヒドラの吐息がかかり、少女は必死な思いで通り過ぎていく少年の背中に助けを求めた。
「助けて!」
か細い声だったが、洞窟内で反響してクラシェイドの耳にも届いた。反射的に、クラシェイドの足が止まる。
一先ず、少女はホッと胸を撫で下ろした。その後、また少年が遠ざかっていくのではないかと心配したが、それも杞憂だった。
クラシェイドは溜め息をつきながらも、踵を返して杖を構えたのだ。
クラシェイド自身、何故そうしたのか……自分の行動が理解出来ずに居た。少女に助けを求められた今現在でも、どうでもいいと言う感情に変化はない。そのまま犠牲になってくれてよかったのに……とさえ思っている。
だけど、彼の中にある、まだ完全に消えていない何かが彼をそうさせていた。
「……少し、魔術が擦るかもしれないけど、恨まないでよ」
そう抑揚のない声で言うと、すぐに詠唱を始めた。水色の氷属性のマナが、ヒドラの足元に魔法陣を描く。
クラシェイドが地面に杖を突き立てたのを合図に、冷気が漂いヒドラを胴体から頭まで包み込み、一瞬にして凍りつかせた。ヒドラは完全に身動きが取れなくなり、少女はその場から離れ、クラシェイドは再び詠唱を始める。
『渦巻く暗黒の雷よ……』
ピキッ。
クラシェイドは何かの音を聞き取り、詠唱を中断した。すると、次の瞬間、ヒドラを覆っていた氷が激しく割れて飛び散った。ヒドラは自力で氷を破ったのだ。
ヒドラの中央の首が大口を開けて、炎のマナを集め始める。そして、クラシェイド目掛けて炎を吐き出した。クラシェイドは一歩も動こうとはせず、離れて見ていた少女は焦りと不安を抱いた。
「え、あ! 大丈夫で……――――え?」
少女の隣に紫色の魔法陣が出現し、そこから向こうにいた筈の魔術師が姿を現した。これは移動術なのだが、少女は今までに見たことがなかったようで驚いていた。
ヒドラが唸り、クラシェイドは杖を構えてヒドラの方へ走る。
(少しダメージを与えておくべきか)
ヒドラの三つの首が次々とクラシェイドを襲い、クラシェイドは軽々とそれを躱して杖で殴った。三つの首は怯み、クラシェイドは身を低くした中央の首に飛び乗って、杖を勢いよく突き刺す。血が飛び散り、ヒドラの悲鳴が轟く。
氷属性のマナが集まり、クラシェイドがヒドラの首から飛び下りると、先程と同じようにヒドラが凍りついた。この隙に、クラシェイドは魔術の詠唱を始める。
『清き流れを司る水の主よ、汝を海の彼方へ』
青く澄んだ水属性のマナがヒドラの足元に集中し、魔法陣を描く。そして、
『――――アクアトルネード』
魔法陣から大量の水が発生し、天に向かって渦を作った。ヒドラを覆っていた氷が砕け、渦に飲まれてキラキラと輝いた。そして、ヒドラの肉体は水力に負けて、粉々に引き裂かれた。やがて、渦が消えてヒドラの肉片だけが地面に残った。
「……やったか」
クラシェイドが杖を下げると、少女が彼の隣に歩み寄って恥じらいながら声を掛けた。
「あ、あの……」
「何?」
クラシェイドは少女の方を見なかったが、少女は構わずに続けた。
「助けてくれてありがとう」
「いいよ。別に」
「あ、えっと……魔術、とても強いんですね。も、もしかして、黒魔術師なんですか?」
「……だから何?」
クラシェイドの態度は一向に冷たかったが、少女は負けずに返答した。
「何か、珍しいなって……」
「そう……」
クラシェイドが興味なさそうに一言返すと、少女は少し寂しそうな顔をして黙ってしまった。
この世界では誰しもが魔力を持っていてその強さは個々で異なり、一定の強さを超える者は皆、大気中のマナを集める事の出来る魔術師だ。決められた呪文を唱え、マナを“形”にし、決められた術名で発動させるのが魔術である。
魔術師は持っている魔力属性、魔力量、素質などによって、大きく四つに分類される。
一つは、闇属性の魔力を持つ“黒魔術師”。魔力量の多い者に多く、攻撃系魔術と、対象の弱体化や束縛などの魔術を扱う事の出来る、非常に戦闘向きの魔術師だ。どんな魔術師も、彼らの魔術には叶わない。クラシェイドもこれに属する。
二つ目は、光属性の魔力を持つ“白魔術師”。こちらは親からの遺伝によってなり易く、治癒術や解毒術、攻撃回避などの補助系魔術などを扱う事の出来る、後方支援専門の魔術師だ。唯、光属性の魔力が殺傷能力を無効化するので、攻撃系魔術が使えたとしても、目眩ましにしかならない。現在、黒魔術師に比べれば数は多いが、その大半が教会務めの者達だ。負傷した者達は皆、教会を訪れて治癒してもらうのが一般的となっている。
三つ目は、光属性と闇属性の魔力を持っておらず、魔力量が多い者の中で、素質がある者のみがなる事の出来る“召喚術士”。希に存在するが、詳しい理由は解明されていない。その辺を徘徊する魔物からマナを調整する門の守護精霊に至るまで、契約を結べば召喚する事が出来、命令する事が出来る。召喚する対象の魔力属性と己の魔力属性は関係がなく、量だけが召喚出来る対象の位や数を左右する。
そして、これらに属さない最も弱い魔術しか扱う事の出来ないのがそのまま“魔術師”と呼ばれ、世界で一番多い。戦闘に不向きな者が多く、単に私生活で初級魔術を使う程度だ。
特に黒魔術師に出逢う事は少なく、少女の反応はごく普通である。
「それじゃあ、オレは行くから」
少女が話し掛けて来なくなったので、クラシェイドは立ち去ろうとした。
「あ……」
魔術師が離れてゆき、少女は焦りを見せた。
「あの……――――待って下さい!」
少女が大声で呼び止めると、クラシェイドはようやく振り返った。
「……何か用?」
少女は、まともに見た魔術師の綺麗な顔立ちにドキッとした。サファイアの様に美しい色の瞳を長い睫毛が覆い、何処かミステリアスだ。
「そ、そっちはサンヴァーティエしかないけど、あなたもサンヴァーティエに行くの?」
「そうだけど」
態度は相変わらずだが、その答えに少女は安心した。
「だったら、一緒に行きませんか? ……着くまでの道で魔物が現れるかもしれないし…ちょっと、恐いの」
クラシェイドは暫く答えなかった。
「迷惑……ですよね」
少女が低く呟くと、クラシェイドは溜め息をついて歩き始めた。
「……勝手にしなよ」
「本当? ありがとうございます」
少女は満面の笑みを浮かべ、魔術師の後について行った。
「そうだ。私、クリスティア・リアンネって言うの。魔術師さんは何て言うの?」
洞窟を抜けた先の、草原に囲まれた月光が照らし出す道で、少女は一歩前を歩く魔術師に話し掛けた。
魔術師は振り返らず、静かに答えた。
「……クラシェイド」
「へえ~クラシェイドさんね! ちょっと、珍しい名前ですね」
これ以降、クラシェイドは返答の必要性がないと判断し、クリスティアの声に何一つ応える事はなかった。少女がクリスティアと言う一人の人間である事を知ったとしても、彼にとってはやはり“どうでもいい”存在で、それ以上でも、それ以下でもなかった。
クリスティアもそれを察してか、町へ着くまで何も話さなくなった。
草原しかなかった場所に、光が点々と見え始めた。
ティオウルに比べると小さな町だが、此処が共通の目的地サンヴァーティエだ。
クリスティアはクラシェイドを追い抜き、真っ先に町の門を潜って「はぁ」っと息をついた。
門と言っても立派なものではなく、単に両端に伐採してきたままの大木を突き立てているだけの簡素なものだ。
「無事に着いたぁ。けど、遅くなっちゃったし、お父さん心配してるだろうなぁ」
彼女の横で、クラシェイドは民家しかない町の中を見渡していた……と言うより、神経を研ぎ澄ませて、たった一つの魔力を探していた。
魔力感知能力は全ての者が出来る訳ではなく、クラシェイドの様に魔力が多い者だけだ。特に、個々の魔力を判別するのは至難の業だ。それでも、クラシェイドは開始から数秒で探し当てており、身体はもう、そちらへ動き始めていた。
後ろから何か言っている少女の声を無視し、本日二人目のターゲットのもとへ。
歩いて数分、すぐに辿り着いた。ターゲットは、この扉のすぐ向こうに居る。クラシェイドは、町の奥の庭付きの小さな民家前に立って居た。
ドアノブに手を掛けようとすると、後ろから人の気配と声がして思わず中断して振り返った。
「アレ? そこ、私の家なんだけど。行く方向一緒だったから気になっていたんだけど、訊こうと思ってもクラシェイドさん足速いし」
クリスティアだった。クラシェイドは存在すら、もうとっくに忘れていた。
しかし、この状況は殺し屋にとって予想外だった。どう切り抜けたらいいのか、少しの間思考を巡らせる。
普通なら、口止めの為に殺害する事を選ぶが、そう言ったある意味で一般的な考えはクラシェイドにはなかった。彼は冷酷な殺し屋だが、優秀な殺し屋でもある。つまり、仕事以外の事はしないのだ。
少年が唯の黒魔術師ではない事を知らない少女は、何の疑いもせずに穏やかな表情を浮かべた。
「もしかして、お父さんの知り合いの方? お父さん、色んな所に知り合いが居るからなぁ。自分が使えないからって、凄く魔術師に興味津々で! 知り合いに、こんな綺麗な男の子が居たのは意外だけど」
クリスティアがもうそのつもりで話をどんどんと進めていって、クラシェイドは否定する暇がなく、彼女に視線をやったままだった。
クリスティアはクラシェイドの横へ来て、ドアノブを回した。
「どうぞ、上がって下さい!」
どうせ、そのつもりだったクラシェイドは、少し躊躇いながらもその言葉に従った。ターゲットの魔力は、より一層近くに感じられた。
クリスティアも家へ上がり、扉を閉めた。
皮肉にも、哀れな少女は自らの手で絶望を招いてしまった。
玄関からすぐの場所はリビングルームとなっており、天井の淡いランプが木製のテーブル席を静かに照らしていた。他に室内には、角に置かれた焦げ茶色の棚と壁に掛かった額付きの花の絵が飾られているだけで、何処か物寂しさがあった。けれど、一番の理由はいつもそこに居る筈の人間が居ないからだ。
クリスティアは眉を下げ、椅子を引いてクラシェイドの方を見た。
「ごめんなさい。せっかく来てくれたのに、お父さん居ないですね。多分、家の何処かに居ると思うので、呼んで来ます。あと、お茶も淹れて来ますので、此処で座って待っていてくれますか?」
わざわざそんな事をしてくれずとも、クラシェイドにはターゲットの居場所は分かっていた。だが、クリスティアにとってクラシェイドは来客と言う立場である為、勝手に家の中を歩き回る事は出来ず、再びその言葉に従うしかなかった。
クラシェイドは杖を隣の椅子に立て掛け、席に着いた。