神と人の差
血の様にポタポタと、黒いマナが滴り落ちる。
今のが相当効いたのか、エクリプスに反撃する様子はなく、遠慮なくクラシェイドは次の魔術の詠唱に移った。
『理の聖電、偽りの者への審判を下せ』
雷属性のマナが集まり始め、神の頭上に紫色の魔法陣を描く。
魔術完了まではまだ程々時間があるが、未だエクリプスに大きな動きはない。クラシェイドは少々警戒しつつも、詠唱を続けた。
魔法陣から、パチパチと音を立てて雷が発生する。
『ライトニングフォール!』
雷が落下し、エクリプスが白光に飲まれた。
白の中から黒いマナが溢れ出、神の叫びが木霊する。
やがて光が消えると、ドーンと大きな落下音を響かせて巨体が地面に転がった。感電しているかの様に、まだ体中からバチバチと電気が立ち上っている。
アレスは大剣を構え、走る。
『聖光斬!』
光を纏わせた刀身を振り下ろしたが、何かの力に弾かれて巨体には届かなかった。
アレスは目を瞬かせ、黒魔術師を一瞥した。
クラシェイドはその視線を受け取った。
「魔力が弱まった代わりに、物理耐性が付いたんだよ」
「そうなのか。じゃあ、時間稼ぎも出来ねーじゃねーか……」
アレスは落胆し、剣を下げた。
クラシェイドの詠唱の声が響き始める。
この時、神の呻きは怒りへと変わっていた。
アレスが気付いて飛び退くと、エクリプスの巨体が翼を羽ばたかせて持ち上がり、強風が起きた。
一番近くに居たアレスは勿論、詠唱を急いで中断させたクラシェイド、防御壁の内側に居るシフォニィとクリスティアは、強風に煽られて吹き飛ばされた。
身を起こそうとする間にも強風は押し寄せ、全員は地面にしがみつく体勢で上空を見上げた。
エクリプスが光に包まれている。
黒から金へ、身体の色が変化してゆく。新月から満月へ、物理耐性から魔法耐性へと変わる瞬間だ。
そして、同時に傷も癒え、振り出しに戻った。
神は怒りの鉄槌を振り下ろす。
七色の光が天から地面へ、至る所に突き刺さる。
シフォニィは急いで防御壁を張り直して防ぎ、クラシェイドは素早く起き上がって移動術で躱していった。アレスも彼らに続こうと起き上がるが、一歩間に合わずに左腕が光の餌食となってしまった。
光が突き刺さったそこは黒ずみ、大量の血が流れ落ちた。
激痛にその場に踞るアレスのもとへ、もう一撃。気付いた時には、視界に黒い衣服が靡いていた。
「クラちゃん!」
クラシェイドが杖で光を弾いていた。が、完全には防ぎきれず、杖を握る手から血が滴っていた。
エクリプスは地面へ向かって咆哮する。瞬間、地面の奥底で待機していた大樹の根が市松模様を突き破って暴れ出す。
クラシェイドは後ろへ跳んで杖で弾き、アレスは怪我を庇いながらも大剣を薙いだ。
一つを防いでも、次々と根は二人を襲う。ずっと続けている間に初めに体力が尽きたアレスが叩き飛ばされ、彼に一瞬気を取られた隙にクラシェイドも叩き飛ばされた。
地面へ転がった二人に、鋭利な根の先が数本振り下ろされる。
更に、天からは光の刃に、黄金の炎が吹き荒れて、根を完全に避けたクラシェイドも、少し掠ってしまったアレスにも逃げ場はなくなった。
アレスが大剣を盾にし、クラシェイドが氷の壁を形成するもすぐに熱で溶け、二人の必死の行動も神の前では意味を為さず、辺りは神々しい光に包まれた。
温かいものが全身を包む。まるで、女神に抱かれている様に。そう、それは創造神の逆鱗の中ではなかった。
温もりも、優しい光も、全て人が精霊に懇願して創り出した空間の中――――即ち、四人は白魔術師による防御壁の内側に居たのだった。
始めの一撃で簡単に崩壊してしまったものとは違ってビクともせず、範囲も倍あった。その中央で、術者は杖を支えに立って居る。
クラシェイドとアレスは、今にも倒れそうな彼のもとへ走る。それぐらい距離があるのだ。
二人の姿が視界に入ると、シフォニィは不完全な笑みを作った。横では、クリスティアが心配そうな顔をしている。
「ごめんね。元々あんまり魔力量が多くないから、これで最後になりそう」
「ううん。十分だよ。ヒーリング効果のある空間を創り出すなんて、さすがだよ。オレは出来なかったよ」
クラシェイドに頭を優しく撫でられると、シフォニィの頬が紅潮し目には涙が滲んだ。
「本当だ! 傷が癒えてる」
アレスは傷の塞がった手を見、他に異常がないか不自然に手足を動かして確認していた。クリスティアの表情も、フッと明るさを取り戻した。
温かい空間も相まって少々空気が和み始めたが、防御壁の外側から聞こえる破壊音に全員の気が引き締まった。
散々焼かれて焦げ付いた市松模様は白い部分が黒く染まって黒一色になり、所々穴の空いたそこは歩きづらくなっていた。
一斉に四人は、地上へ向かってブレスを吐いて飛び回る神を見上げた。
怒りと狂気に満ちている。それはいずれ、この空間を壊し、飲み込むだろう。
アレスは大剣を構えて空間の端へ移動し、壁が消えるとすぐに神の下へ駆け出した。一方のクラシェイドも移動術でアレスの傍へ移動し、天へと続く大樹を用意した。
緑色の光を放つ大樹の枝を伝い、ぐんぐん天へ近付くアレス。それに気付いたエクリプスのブレスによって大樹は灰となってマナへと還るが、そこから氷の階段が生まれて地上へ戻される事なく、アレスは上昇を続けた。
神は怒る。神聖なる領域に、小さな人間がたった一人踏み入れる事すらも拒む。
エクリプスはブレスを吐き出した。
神の怒りに触れた無感情の氷は溶け、マナが舞う中をアレスは堕ちてゆく。
地上へ還る哀れな人間に、神はせめてもの慈悲として金色の星屑を散りばめた。キラキラと美しい光を放つそれは点滅を繰り返し、足並みを揃えて一本のリボンの様にアレスに巻き付いた。その間、時を止めたかの様に彼の身体は真っ逆さまの体勢で静止していた。星屑の光だけが時を伝えた。
金色のリボンは次に点灯した時、辺りを真っ白に染め上げて大爆発を起こした。
爆風が舞い、神は誇らしげにそれを見下ろしていた。神の領域に再び足を踏み入れようとした人間を一人排除した……そんな達成感に満たされていた。
ところが、背中にどっしりと重みを感じた時、その笑みは引き攣った。
「人間……いつの間にそこに」
全てを創造し、全てを見据えて来た筈の神は浅はかだった。創造は出来ても、想像は出来なかった。こんなにも簡単な事に、事態が動くまで気付かなかったなんて……。酷く落胆した。
背中にはアレスが立って居た。
氷、水、炎、闇、雷、樹……様々な属性を操る眼下の黒魔術師は魂喰いと言う名の仮初の姿をした者、つまり人間ではない。そんな彼が他に操れるモノと言えば、時空。そう、自身が先程から空間移動している様に、仲間にもその人ならざるモノの力を授けたのだ。アレスが此処に居る理由はそれであった。
自分はともかく、他の者に移動術を使う場合、どうしても時間がかかってしまうので、今の今までクラシェイドはその方法をあえて取らなかった。それに、時属性のマナは他の属性に比べて集めるのが困難で、一度に消費する量も極めて多い。魂喰いの一部と融合してしまった人間の魂では、実は見た目よりも負担が大きいのだ。更に、最も重要な事は対象が人間や動物である場合は対象自体に大きな負担が掛かってしまい、使用回数が増えれば増える程に命の危険度が増す。故に、絶対に負けられないこの戦いには不向きであった。
クラシェイドはエクリプスの背中にアレスの姿を確認すると、安心した様に詠唱を始めた。
アレスもクラシェイドの詠唱を聞くと、安心した様に大剣を振るった。
巨体の背中に、一本の線が描かれる。
『聖光斬!』
更に、横一直線に光の軌跡が生まれて両翼を裂く。
エクリプスは自由に羽ばたけなくなり、落下し始める。それは創造神でさえも、この星の重力には逆らえない事を意味する。その絶対的なルールの下、大きくて重たい身体は物凄い速さで地上へと近付く。風圧も凄まじい。神の前では小さすぎるアレスの身体はそれに耐えられず、空中へ置き去りにされそうになるが、彼は大剣を巨体の頭部に固定して必死に耐える。
エクリプスは落下の際閉じていた瞳を開き、確かな光を宿した。
依然、巨体は地上との距離を縮めているのだが、まだ距離はある。その間にエクリプスは抗えない筈のそれに、翼を羽ばたかせる事で抗った。
下へ向いていた身体が上へ向き、急な方向転換に耐え切れずにアレスの身体は大剣ごとふわりと浮いた。
『――――アクアトルネード!』
クラシェイドの魔術発動と、丁度重なってしまった。
クラシェイド自身、発動直後に背筋が凍り付いた。
天高く形成された水の渦は空中へ投げ出されたアレスを餌食にしようとしていた。本当は、エクリプスの気を逸らすだけの役割だった。それが、予期せぬ相手の動きによって変更され、怪物と化した。
術者にはどうする事も出来ない為、あとはアレスに期待するしかないが、彼はそれに応えられそうもなかった。地上の支配者である人間にとって、天上は管轄外。自由など許される筈もなかった。
水の渦が身体を掠め、弾き飛ばす。
「アレス!」
クラシェイドは無意識に、無意味に、ただ叫んでいた。
エクリプスは地上へ落ちる哀れな人間を一瞥し、己の魂を求めて空中を自由に飛ぶ。
黄金の竜の顔面が間近に迫り、クラシェイドが息を呑んだ時にはもう、その鋭い爪を生やした大きな手で地面へ押し倒されていた。
地面が罅割れ、クラシェイドの細い身体がめり込んでいく。
エクリプスは口角を上げ、牙を覗かせた。
「さて。もう遊びは終わりだ。その魂、還してもらうぞ」
「か、還さない!」
肉体及び精神に受ける圧力に耐え、何とかクラシェイドは声を絞り出した。
しかし、そんな勇敢さも、神には何の価値もない。捕らえた獣が必死に引っ掻き、噛み付いているだけに過ぎない。
神は不愉快そうに表情を歪めた。
「往生際の悪い! これだから、人間と言うのは醜くて、愚かで、傲慢で嫌になる! いいか? これは貴様のモノではない!」
グッと力を入れ、か弱き人間を地面にめり込ませて喉を爪で抉る。
本来彼らの身を護る立場にある白魔術師は膝を着き、周りに気を配れない状態。大剣士は向こうで横たわり、大剣を手放している状態。今、動けるのは唯一無傷のか弱き人間の中でも、更にか弱い一人の少女。
クリスティアは震える自身の心と身体を叱咤し、一歩動いた。
同じ頃、アレスは身体で唯一動く首を動かした。今にも閉じてしまいそうなその瞳に映ったのは、意外な人物。
罅割れた地面には、クラシェイドの血が広がってゆく。呻く事すら、神に許されていない。
この世の理に抗って生きてしまった少年の魂が、神のもとへ還る時が訪れる。
仮初の身体から、光の球体が浮き上がる。その先では、神が口を大きく開いて待っている。
創造神の願いが、そして間接的にだがシルヴァール・ハルムの願いが叶うその瞬間。突如、エクリプスの巨体が浮いた。
「そうはさせぬぞ、創造神エクリプス」
低い男の声が響き、エクリプスは遠くへ吹き飛んだ。
クリスティアは進みかけていた足を止め、一度離れた魂がクラシェイドの中へ戻り、漸く起き上がる事に成功したアレスが言い慣れた様子で男の名を叫んだ。
「ムーンシャドウ!」
仮面の男は仮面を押さえ、首をユルユルと横へ振った。ウェーブした金髪が揺れる。
「やれやれ……。お前達だけで何とかなるのではないかと過信していた私が愚かだった様だ。所詮は人間。神には敵うまい」




