生まれなければ良かった
魔物の気配も、歪みもなくなり、三人の間には唯々長い沈黙が降りた。
アルフィアードはクラシェイドの真正面に立ち、まだ握っていた銃を彼の顔面に向けた。右肩の傷は、彼自身の治癒術で完治していた。
全く予期していなかった展開ではないが、クラシェイドは驚き――――否、悲しみで一杯だった。
アルフィアード・レイファスと言う男は、気まぐれで冷酷で残忍で人の命を物の様に扱う様な卑劣な人間だ。だけど、優しかったり、緩かったり、正反対の一面も持っていて、憎めないのだ。初対面からあまり彼の事を善く想っていなかったクラシェイドだが、完全に嫌悪していた訳ではなかった。先の戦いで、少しだけ心の距離が縮まったかの様にも思えたし、敵だからと言って殺すのはもう嫌だった。これまで数多くの仲間を失ったからこそ、最後ぐらいは一人も欠ける事なく終わりたかった。
「俺にも……俺の役割がある。たとえ、もう月影が機能していなくても、俺はキミを殺す」
アルフィアードの表情は冷酷なそれだった。そこに、クラシェイドに対する慈悲は一切ない。アウラ・レイラの様に演じている訳ではなかった。
「そうか……」
クラシェイドは一度目を閉じ、またしっかりと開いた。その眼光は鋭く、もう躊躇している様子はなかった。
「でも、オレにも役割があるんだ。それは此処でお前に殺される事じゃない。オレは先へ進まなくちゃいけない」
クラシェイドが杖を構えると、アルフィアードは引き金を引いた。
魔法弾が真っ直ぐ飛んでいき、クラシェイドは杖を盾にして弾いて後ろへ跳んだ。
直後、アルフィアードの足下が罅割れた。
アルフィアードが翼を出して空中へ逃れると、道はどんどん崩れていき、クラシェイドの足場も崩れ始めた。
クラシェイドは走り、途中、ぼんやり突っ立っていたクロムウェルを拾って走って行った。アルフィアードも、その後を追う様に空中を駆ける。
「せっかく良いムードだったのに! また時空間の乱れってやつ!?」
アルフィアードは銃を一旦しまって騒ぎ出し、前を走るクラシェイドにはそれに反応する余裕はなかった。
クロムウェルもさすがにいつまでもクラシェイドに腕を掴まれてはおらず、自分の足で走っていた。
俊敏な彼らだが、崩壊の方が早く、クラシェイドの半歩後ろを走っていたクロムウェルの踵が空気を踏んだ。続いて、クラシェイドの足場も崩れてバランスを崩した。
二人が空中へ落下し、アルフィアードは二人を同時にキャッチした。
真下を見れば、徐々に崩壊が治まり、真っ二つになった道が宙に浮いていた。
もうとっくに成長しきっている男二人を両脇に抱える様にして、空中を漂う天使は不思議とそこまで疲労していなかった。
「キミ達……軽すぎない? 特に、クラ坊ちゃんとか、中身空洞なの?」
アルフィアードは冗談のつもりで言ったが、強ち間違いではなかった為、クラシェイドは苦笑いを浮かべた。
「オレ自体は魂だけだからね……」
「何だい? それ」
「何でもない。とにかく、ありがとう」
「ま、でも……さすがにこのままじゃバランス悪いし、疲れる――――あ」
いち早くアルフィアードは異変に気付き、そこから二人を道へ放り投げた。
突然の事で上手く受け身を取る事が出来なかった二人は身体を道にぶつけ、倒れた。クラシェイドが身体を起こし、アルフィアードの乱暴さについて少し文句を言ってやろうとした時、アルフィアードの背後に歪みが生じているのが見えた。
「アルフィアード!」
名を呼ばれると、アルフィアードは右手を挙げてヘラっと笑った。もう歪みは両腕を彼に絡みつけていた。
「クラ坊ちゃん、キミとはもっと遊びたかったな~。でも、残念。もうゲームオーバーだ。それなりに楽しかったよ。……じゃあね」
歪みはしっかりアルフィアードを抱きかかえ、閉じていった。
一瞬の出来事にクラシェイドは成す術がなく、アルフィアードが居た場所を見たまま立ち尽くしていた。
地面が揺れ、また道の崩壊が再開した。
クラシェイドの目の前の道が崩れ、そこにクロムウェルが膝をついているのが見えた。
「クロムウェル!」
今度こそ、助けたい。クラシェイドはその一心で、クロムウェルへ手を伸ばそうとした――――が、
「僕の事はいいんだ。さあ、行くんだ黒いの。トコロイレブンが伸ばされる前に!」
真剣なペリドット色の瞳を見た瞬間、クラシェイドはしっかりと頷き彼に背を向けた。
「クロムウェル……ありがとう」
クラシェイドは一度も振り返る事なく、崩壊していく道に追いつかれない様に走り出した。
強い光が瞼を叩き、意識がハッキリとしないまま瞼が開かれた。瞳が景色を映し出すと、少しずつ鈍い動きで脳も回転し始める。
「此処は……」
アルフィアードは、自分に確認する様に呟いた。
何処までも広がる草原、橙色の空へと響く子供達の声……。知っている。間違える筈がない。此処は記憶の世界だ。
現実でないと言い切れる理由は、見覚えのある子供達の姿が視界に入ったからだ。もし、現実であるなら、彼らはもう大人になっている筈。それに、その輪の中心に少年だった頃のアルフィアードが居たのだから、これは現在のアルフィアードの過去である事は明らかだった。
月影の殺し屋として人を殺し、自らの人生を血に染めて大人になった今でも、この日の出来事だけは忘れる事はなかった。何故なら、人生を変えるきっかけとなったからだ。
アルフィアードは自動再生される過去から目を逸らしたくて瞼を閉じようとしたが、どうしてか出来なかった。声も、はっきりと耳へと注がれて来る。
過去に目を背けるな、向き合え。と、過去の自分に言われている様な気分になって、アルフィアードは眉間に皺を寄せた。
どれだけ映像を見せられたって、声を聞かされたって、結末は同じ。もう知っている。だからこそ、今の自分が存在すると言うのに。
向き合うとはどう言う事か。忘れない事と何処が違うのか。肯定も、否定も、過去を変える鍵とはならないのに。
――――過去の記憶なんてものがあるから、惑わされるんだ――――ずっと思って来た事。アルフィアードにとって、過去とは夢幻と大差なかった。
「アルフィアード!」
向こうで、子供達の悲痛な呼び声が聞こえる。
アルフィアードが視線をそちらへ向けても、彼らと視線は交わる事はない。過去の友人達は、過去のアルフィアードを見ていた。
しかし、過去のアルフィアードの姿は何処にもない。あるのは、崖だけだ。
「そもそも、それが間違いだったんだ。俺はケビンなんて助けなければ良かった」
アルフィアードは呟き、瞳を微かに揺らした。
崖から転落した友人ケビンを助ける為に、呪人の証である白い翼を羽ばたかせて崖下へ飛び込んだ過去のアルフィアード。
ケビンは助かり、礼を言われたのだが、もうこの時点でアルフィアードの運命の歯車は狂い始めていた。
せっかく仲間の命を抱えて戻ったと言うのに、友人達はアルフィアードを恐れ、まるで化け物を見たかの様に逃げ去った。虫を見ただけで叫ぶ少女も、その時とは比べ物にならないぐらいの悲鳴を上げていた。アルフィアードにとって、これ程ショックだった事はなかった。
助けられた当の本人からは心から感謝され、軽蔑される事もなかったのが唯一の救いだったのだが……彼の両親もまた、他の友人達と同じ反応をした。
一瞬で町中に噂は広がり、アルフィアードが帰路を歩く頃には通り過ぎる人々が軽蔑の視線と声を、まだ年端もいかぬ彼に浴びせた。
「だから、母親だけは……俺の味方だと期待したんだ」
家の扉を開ける過去の自分の背中を見つめ、アルフィアードは自嘲気味に言った。
外の橙の光が差し込んで同色に染まった部屋の窓際に、逆光になって影になった母親が腰掛けていた。少年のアルフィアードがそっと近付くと、母親はポツリと呟いた。
「あなた……あれ程言ったのに、その呪われた翼を他人に見せましたね? あなたのせいで、私は酷い事を言われてしまいました」
アルフィアードが何も言えないでいると、母親の頬を涙が伝った。初めて見るそれに、アルフィアードは激しく動揺した。
母親は震えた声で続けた。
「あなたなんて、あなたなんか産まなければ良かった」
母親の影がどんどん拡大していき、過去のアルフィアードを飲み込んで、現在のアルフィアードの視界を黒く塗り潰した。
意識も遠ざかり、気が付くと、アルフィアードは闇の中にポツリと浮かんでいた。背中には、あの忌々しい翼はもうない。
「何で最期の最期に、あんなもの見るんだよ」
呆れて、逆に笑みが零れる。
結局、アルフィアードを今でも縛り付けているのは過去であって、こんな結末を迎える事となったのはアルフィアードが変わらず今もアルフィアードだからだ。どんなに生活環境や性格が変わっても、人は同じ事を繰り返してしまう。
「自分を犠牲にして、他人を助けるなんて……本当、馬鹿らしい」
自分は聖者でもなければ、天使でもない。天使と同じ翼を持っただけの、単なる呪われた人間。
目を閉じればまた聞こえて来る、懐かしくて恨めしい母親の声。
――――あなたなんか産まなければ良かった。
「ああ。俺なんか生まれなければ良かったよ」
闇はその声を飲み込み、そして……アルフィアード自身を飲み込んだ――――。




