呪術師の誕生
アスカは背中で使用人の声と足音を聞き届けながら、重たい扉を押した。
扉は錆び付いた音を立てて、ゆっくりと開く。足を踏み入れると、そこは廊下よりも深い闇が広がった空間で殆ど何も見えなかった。
閉まりかけていた扉がもう一度開かれ、仄かな光が差し込んで辺りを照らし出す。それにより、アスカは中央に下りの階段がある事に気が付いた。
アスカが階段の前まで来ると、光と共に部屋に飛び込んで来た使用人が階段の前まで回り込み両手を広げて立ちはだかった。
「この先へは行ってはなりません」
「キミは誰に言っているの?」
アスカは溜め息を吐き、使用人に鋭い目を向けた。
「僕はこの屋敷の人間だ。キミに禁じられる理由はないと思うけど」
「ち……違います! そ、その……旦那様が……」
「お父様が?」
「い、いえ……あの……」
使用人は己の失言を撤回しようとするが、既に若き主は歩き出していた。
アスカは狼狽する使用人に目もくれず、横を摺り抜けて階段を下っていった。
使用人は迷った挙句、アスカの後を追い掛けた。
壁の両側に転々と設置された蝋燭の炎が下から吹き上がるひんやりとした風に揺れ、階段を下りる二つの影は足音を響かせる。
アスカと使用人の距離は一定に保たれたままで、使用人にはもうアスカを捕まえる気はなく、従順に主の後をついて歩いているだけだ。唯、使用人はこの先に何があるのか知っている為、階段を下る度にそれを想像してしまって顔色がどんどん悪くなっていった。
アスカは時折使用人を一瞥しながらも、歩く足を止める事はなかった。
ひんやりとした空気に当てられ、すっかり身体が冷え始めた頃。漸く、階段が終わって一つの大きな部屋に辿り着いた。
天井の紫色のランプが怪しく照らす室内には窓はなく、不規則に本棚が置かれていて白い床の至る所に本が散乱していた。
アスカは眉間に皺を寄せ、鼻と口を片手で覆いながら本棚の間の通路を進んだ。室内は酷い血の臭いと腐敗臭が充満し、奥へ近付くにつれてそれは強くなっていった。
使用人はまだアスカの数歩後ろをついて歩いている。アスカは何度か彼にこの先で起きている事について訊こうと思ったが、彼の顔があまりに青白く、それが恐ろしくて結局訊く事が出来ずに答えの一つに辿り着いた。
それは目の前に転がる肉片とかろうじて原型を留めている長女の死体、臭いの元凶だった。
「お姉……様」
アスカはこちらを見つめる乾いた漆黒の瞳から目を逸らし、後退る。トンッと背中に、生身の人間の身体が衝突した。
もう動かない姉とは違い、それは温かい手でアスカの両肩を掴んだ。
「アスカ様。もう戻りましょう」
「…………でも、お姉様が! きっと、お兄様もこの先に!」
アスカの瞳からは涙が止めどなく溢れ、使用人の瞳も大きく揺れた。
「今なら引き返せます。ですから、どうか……」
「こ、こんなのを見て、また明日も普通に暮らすなんて無理だよ……。今なら、お兄様を助けられるかもしれない! ねえ! 一緒にお兄様を助けに行こうよ」
「そ、それは……」
「どうして! キミはこの状況を見て見ぬふりをするって言うの? そんなの酷いよ。もういい……僕一人でも行く」
アスカは使用人の手を振り解き、歩き出した。姉の死体を見ない様にして横を通り過ぎていく。やはり使用人はまた、その後をついていく。
視界から本棚が消えると、今度は目の前に巨大な魔法陣が見えて来た。それは人の手によって書かれたもので、色は乾いた茶色……恐らくは血だった。
そして、魔法陣の外には長女と全く同じ状態で横たわる長男の死体があった。
「嘘……じゃあ、」
アスカは視線をゆっくりと魔法陣の中央へと移動させた。そこには両膝をつく次男の姿があった。しかも、ちゃんとまだ生きている。
アスカは駆け出した。が、次男の顔が後ろへ大きく反って、その顔を見た瞬間アスカの足が止まった。
焦点の合っていない瞳とだらしなく開いた口からは鮮血が溢れ、もうそこに気高く優しい兄の面影はなかった。
「コイツも駄目だったか……。ちっ……あと少しのところだったのに」
不意に父の声がし、アスカは次男の目の前に父が立っている事に気が付いた。
次男の身体はブクブクと膨れ上がり、やがて風船が弾けるように破裂した。
肉片と血が迸り、アスカにもそれらが降りかかった。
「……あ……っ」
つい、アスカが声を漏らすと、父もアスカに気が付いてニヤリと笑った。
アスカの心臓がドクンと跳ねた。
「丁度良い。アスカ、この魔法陣に入れ」
「な……。お、お父様……い、一体何をしているんですか? お兄様とお姉様に何をしたんですか」
「何を……とは?」父は不思議そうに辺りを見渡し、肉片を濁ったその瞳に捕らえてまた口角を上げた。「ああ……奴らを哀れんでおるのか。しかし、その必要はないぞ。アレは失敗作だ。只のゴミだよ」
それを聞いた瞬間、アスカの中にある恐怖心は憤怒が勝って掻き消された。
「失敗作? ゴミ? 違うでしょう!? お兄様もお姉様も大切な家族です!」
「そうだ……大切な家族だからこそ、私の大切な実験の実験体となってもらったのだ」
実の息子に強い嫌悪を向けられているのにも関わらず、父は笑っていた。
アスカが知っている父はこんな醜くはなかった。父の笑みはもっと気高く、権力者そのものを表していて何者にも屈しない強さを秘めていた。アスカの憧れの存在でもあった。
それなのに父がその面影すらも残していない理由を、薄々アスカは気が付いていた。
父が部屋に引き籠もり、家族とも会話を交わさなくなったのは母が死んでからだ。父は母を心から愛していた。だけど、死んだ。早すぎる死だった。母は病死であった為、誰にもどうする事も出来なかったが、父はそれが歯痒くて悔やんで、遂には塞ぎ込んでしまった。
父が歪んでしまった原因は分かったが、アスカには父が何をしているのかまだ分からなかった為、恐る恐る訊ねた。
「実験って、何の実験をしているんですか?」
「興味を持ったか? ふふふ……これはな、まだ誰も成功した事のない“呪術”の実験だ」
父は嬉しそうに、手に持った分厚い本をパラパラと捲ってみせた。
「呪術って……」
「魔力を糧にする魔術とは違い、己の命を糧にするのが呪術だ。それを扱う者を呪術師と呼ぶのだ。ソエレンジェの血筋は代々魔術には滅法弱いからな。呪術であれば、魔力が少なくとも扱えるし、直接相手の心臓を停止させる事が出来るから魔術よりも強力だ。これさえ手に入れば、私は全ての力を得る事が出来る。ソエレンジェは全てにおいて最強となるのだ! ふはははは」
「お父様……やっぱり変です」
アスカが後退ると、父は笑うのを止めて無の表情で息子を見た。
「変なのはお前だ、アスカ。何を怯えている? こんな素晴らしい実験の力になれるのだぞ。名誉な事ではないか」
「ど、どこが……ですか」アスカは散らばる肉片を見て、また一歩下がる。「こんなの……こんなのおかしいよ!」
アスカが身体の向きを変えようとすると、後ろから両腕を掴まれた。
「ごめんなさい……アスカ様。……だから来てはいけなかったのに」
「は、放してよ!」
アスカは身体をじたばた動かすが使用人の手を振り解く事は叶わず、そのまま使用人に魔法陣の中央まで連れて行かれた。
アスカの目の前では、父が本を広げて不気味な笑みを浮かべている。
「もう家族はお前で最後だからな。必ず成功させる」
「い、嫌だ! やめてよ、お父様……」
アスカがどれだけ拒もうが、使用人の拘束によって逃げる事は出来ない。
父はアスカの頭上に手を翳した。
「さあ、呪術師へと生まれ変わるのだ! アスカ・ティムス・ソエレンジェ!」
魔法陣が輝き、光が天井を穿った。
使用人がアスカの手を放してその場を離れると、アスカは両膝をついて両手で胸を押さえて苦しみ出した。まるで、何か強い力で心臓を握り潰されている様な耐え難い痛みがアスカを襲う。光が強さを増すと、やがて呻きは大きな叫びとなって室内に反響した。
使用人は部屋の隅で、苦しみ藻掻く若き主の姿から目を背けてその叫びに耳を塞いだ。
程なくして、アスカは叫ばなくなり光も消えていった。
辺りに仄暗さと静けさが戻って来ると、父の笑い声が反響した。
「漸く成功したか?」
父はしゃがみ、蹲るアスカの顔を覗き込んで肩に手を伸ばす。すると、その手をアスカに掴まれた。
アスカは顔を僅かに上げ、口元を三日月型に歪ませた。そして、もう一方の手を父の胸に押し当てた。
「おおっ! これぞ、私が夢にまで見た……――――ぐふっ!」
父は満足げな顔のまま口からどす黒い血を吐き、その場に倒れた。
「まさか……本当に?」
使用人は返り血を舐め取っている若き主の姿を見て、ガタガタと震え出した。
アスカは幽鬼の様にユラリと立ち上がり、肩を揺らした。次第に揺れは大きくなり、笑い声も使用人の耳にしっかりと届いた。
多くの犠牲を払い、漸く手に入れた絶大なる力。この屋敷の主が強く望んだ力。だけど、それはこんな歪なモノだったのだろうか。その答えは誰にも分からない。分からないからこそ、使用人は目の前のそれに恐怖した。
使用人が身体の向きを変えようとすると、呪術師が歪んだ笑みを使用人に向けた。ほんの一瞬だが目が合ってしまった使用人は、何かの術がかけられたかの様に動けなくなった。見えない鎖が使用人の両足を縛り付ける。
アスカは駆け出し、一気に使用人の懐へ入った。そして、父を殺したその手を彼の胸に押し当てた。
「ぐはっ!」
使用人はどす黒い血を吐き、アスカの方へ倒れ込んで来た。
アスカは身体を逸らし、床に全身をぶつけた使用人を見下ろして笑い出した。
何がおかしいのか、何が嬉しいのか、何が彼にそんな表情を作らせるのかは彼自身にも分からなくなっていた。もうアスカと言う人間の心は壊れてしまったのだ。その器だけを残して……。
アスカの表情からは歪んだ笑みは消えていなかったが、己の心臓が突如締め付けられて強制的にそれは苦しみの表情へと変わった。
アスカは胸を押さえて両膝を着く。漆黒の瞳には光が戻り、端に涙が浮かんだ。
「何なんだよ……コレ……」
止めどなく溢れて来る涙を拭い、ふと前を見る。そこには笑顔のまま息絶えている男性が横たわっていた。
「誰だよ……あの人は……」
胃の中が掻き回された様に気持ち悪くなり、アスカは酷く咳き込んだ。乾いた声と共に、どす黒い血が吐き出された。
汚れた口元を袖で拭き取ったアスカは、両手で自分の顔を包み込んだ。
温かい。生きている……確かな温もり。けれど、それすらもアスカには理解出来なかった。ぼんやりと天を仰ぎ、ポツリと呟いた。
「……分かんないよ…………これは一体……僕は誰なんだ…………」
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