ハーフムーンワーウルフ
赤い三日月に少しだけ近付いたクラシェイドにはその赤がほんのりと降り注ぎ、儚げな表情に色を添えていた。
クラシェイドは氷の世界に居る三人の敵を見下ろし、小さく息を吸って言葉を吐き出した。
「信じられないかもしれないけど、オレはもう……八年前に死んでいるんだ。きっと、こんな戦いに意味なんてない」
アレスは瞳を揺らし、三人はクラシェイドが予期していた反応をそれぞれ示した。
言葉を失ったルカとエドワードの代わりに、ウルが笑みを浮かべて声を出した。何とか表に出したそれらは引き攣り、沈みかけてはいたが。
「おいおい……そんな冗談通じるとでも?」
クラシェイドの顔を見た瞬間、ウルのそれはそっと胸の奥に沈んでいった。
ウルは空気さえも凍りついてしまった氷の世界を壊す様に、深く溜め息をついた。
「……たとえそうだとしても、俺達は進むしかねーんだ」
ウルは全身に力を込め、足下に纏わり付く氷を割る。そして、器用に氷上を駆け抜けて階段を上り、固く握った拳をクラシェイドに振り下ろす。
クラシェイドは飛躍して躱し、ウルの拳は彼の居た場所を穿つ。
階段下へ着地したクラシェイドは困った様な笑顔でウルを振り返った。
「これ以上壊さないでね。上がれなくなるから」
ウルもクラシェイドの方へ向き直り、ニヤリと笑った。
「いや、どっちにしろこの先には行かせねーよ! 俺らがお前らを行かせねーからな!」
ウルは階段から身を投げ、クラシェイドに鋭い爪を向けて飛び掛かる。
咄嗟に躱したクラシェイドであったが、右肩に爪が掠った。それにより、クラシェイドの動きが僅かに鈍くなり、ウルはそこに狙いを定めて遠慮なしに攻める。
杖で防いだり、跳んで躱したりするクラシェイドにも、少しずつ傷が付き始める。小さな傷が積み重なり、クラシェイドの身体能力の低下も誰の目にも明らかとなってきた。
クラシェイドは次のウルの攻撃を杖で防ぎ、杖を薙ぎ払う。
ウルは後ろへ大きく跳んで躱す。その着地の瞬間を狙い、クラシェイドが間合いを一気に詰めて杖を振り下ろす。
ウルは片手を地面に着いて横へ跳び、着いた片足で地面を蹴ってクラシェイドに飛び掛かる。
反応が一歩遅れたクラシェイドはウルの攻撃をまともに受け、腕を大きく引き裂かれる。黒い服の袖はあっという間に血で濡れた。
腕を抑えるクラシェイドにウルが更に攻撃を仕掛け、上手く躱した彼に一息つかせる暇なくどんどん攻めていく。
クラシェイドが反撃に移る隙も、いつの間にかマナへと還った氷上を元に戻す隙もない。ウルの攻撃を躱す事だけで精一杯。寧ろ、躱す事さえ完璧に出来ていない状態だ。
苦戦するクラシェイドを横目に、アレスは冷静さを何とか保った状態で目の前の二人に意識を集中させた。
アレスは光属性のマナを大剣に集める。
目の前で敵が攻撃に移ろうとしているのにも関わらず、エドワードとルカは何処か上の空。先程のクラシェイドの告白に動揺している様だった。
クラシェイドは戦い自体を中断させるつもりで事実を伝えたまでだが、これはこれで好都合だ。アレスは遠慮なく、大剣を振るう。
『聖光刃!』
光の波動がエドワードとルカを飲み込み、吹き飛ばす。二人は抵抗する事もなく、地面に落下した。
アレスは二人のもとへ歩み寄る。
すると、左足首に何かが絡まった。アレスが足元を見下ろし確認すると、それはルカの包帯だった。
地面にうつ伏せたルカが顔を上げ、にんまりと笑った。
「束縛術成功! もう逃げられないべ」
左足首がギュッと包帯に締め付けられ、たったそれだけなのにアレスは身動き一つ取れなくなった。
アレスは唇を噛んだ。
目の前では体勢を立て直したエドワードが空中浮遊し、闇属性のマナを集めている。アレスの焦りは増幅し、束縛術から逃れようとする。が、藻掻けば藻掻く程に、包帯はアレスを束縛して離さない。
エドワードは無意味にその場でくるりと一回転し、片手を天に向けた。
『シャドウバブル!』
エドワードの頭上に出現した無数の黒い球体が一斉にアレスを襲う。
アレスには避ける術はなく、直撃を受けた。大きなダメージはないものの、身体の彼方此方に軽い火傷を負った。
追い討ちをかける様に、今度は地面に両足を着いたルカがアレスを束縛している包帯の端を握りマナを込める。
「アレス、ごめん!」
ルカが目を瞑って包帯を勢いよく引っ張ると、束縛していたアレスの左足首が裂けて血飛沫が上がった。
一度手元に戻って来た包帯は赤くべっとりしており、それをルカはもう一度アレスへと飛ばす。
アレスが激痛に耐えながらルカの攻撃を躱した所へ、再びエドワードの魔術が炸裂する。
アレスは背中に黒い球体を受け、軽く吹き飛んだ後地面に転がった。
ルカの右腕にすっかり血で染色された包帯が巻き付く。
エドワードが先程アレスに吹き飛ばされた時に受けた手の擦り傷を舌で一舐めし、黒翼を羽ばたかせてアレスの傍に着地した。
「生き血……しかも、アレスの血なんて飲みたくないけど、飲むと身体能力上がる体質なんだよね」
エドワードはしゃがみ込んで、血が絶え間なく流れるアレスの左足首に手を伸ばす――――と、アレスがその足でエドワードの手を叩きその小さな身体ごと蹴り飛ばした。
今度はエドワードが地面に転がり、アレスが立ち上がった。
視界の端に赤く染まった布が入り、素早く大剣を拾い上げたアレスはそれを大剣で斬る。その後、大剣に炎属性のマナを込めて己を軸として横へ一回転させる。
円弧状に残された斬撃の軌跡を紅蓮の炎がなぞり、出来上がった炎の輪は一気に拡大する。
『火円!』
炎はエドワードやルカには届かなかったが、飛び散った火花が二人を襲う。
二人は軽い火傷を負った。
火花はウルのもとへも降り注ぎ、ウルは腕で火花を払ってアレスを睨んだ。
「おい! 気を付けろよな!」
「ウルの相手はオレだよ」
余所見をしたウルに、クラシェイドは杖を振り下ろす。
ウルは火花を払った腕で杖を受け止める。そのまま押し返すのは無理だと思ったウルは一度力を緩め、後ろへ跳んだ。
ウルは地属性のマナを纏わせた爪を、前方の地面に突き刺す。
地中でマナが暴れ出し、地面に亀裂が広がってクラシェイドの所まで伸びてゆく。
クラシェイドは後ろへ下がり、氷属性のマナを集めて杖を突き立てる。
亀裂から次々と飛び出した先端の鋭い岩石が氷属性のマナに当てられ、先端をクラシェイドへ向けたまま凍りついて動きを止めた。
攻撃を回避したクラシェイドに、ウルは意味深に笑っていた。
クラシェイドはハッと気付くがもう遅く、地中に潜んでいたもう一撃がクラシェイドの腹を穿つ。
だが、血は迸らなかった。
ウルが目を凝らして見ると、クラシェイドの腹の前には杖があり、クラシェイドが寸前の所で防いだ様子が覗えた。
ウルは舌打ちし、マナへ還ってゆく岩の破片の中を走る。
眼前でウルの爪が光り、クラシェイドは杖を構え直す。
ウルは口角を上げ、爪をクラシェイドには振り下ろさなかった。それを不審に思ったクラシェイドが防御を緩めると、瞬間身体が大きく傾いた。ウルが足を引っ掛けてきたのだ。
体勢を崩す事に成功したウルは、一度下げた爪を今度は確実にクラシェイドへと振り下ろす。
クラシェイドは後ろへ宙返りするが、殆ど避けきれていなかった。
クラシェイドが着地した場所には一瞬で血溜まりが出来、その中でクラシェイドは杖を支えにして肩で呼吸をしていた。
ウルは爪に地属性のマナを纏わせ、クラシェイドに歩み寄る。
「これで終わりだ」
ウルの声がやけに響き渡り、目の前の敵への意識が途切れてしまったアレスは剣先を向こうの敵へと向けた。
しかし、それをエドワードとルカは許さない。しっかりとアレスの邪魔をした。
クラシェイドは顔を上げ、すぐ横にある刃に絶望した。この距離と怪我ではもう回避する事は不可能。ウルがそれで心臓を穿つのを待つのみ。
目の前の敵を大剣で薙ぎ払ったアレスが必死に手を伸ばす。
「クラちゃん!」
クラシェイドがアレスを見ると、突如ウルの動きが止まった。
ウルはだらりと腕を下げ、もう一方の手で前頭部を押さえた。前に垂れる黒の前髪と手の合間から見えるウルのルビー色の瞳は驚愕に染まっていた。
無防備なウルの背中に大剣を振り下ろすアレスを、クラシェイドは目で止めた。
赤の三日月とは違う純粋な月の光が厚い雲の隙間から溢れ、地上に降り注ぐ。辺りは徐々に明るくなっていく。
「今夜は……半月だったのかよ……」
絶望にも似たウルの呟きに一同が空を見上げれば、赤い三日月と向き合う様に銀色の半月が闇の中で浮いていた。
月の光を全身に受けたウルは両手で頭を押さえ、藻掻き苦しみ始めた。
ウルの只ならぬ様子に、クラシェイドとアレス、エドワードやルカでさえも強く警戒をした。
四人は一箇所に集い、ウルの様子を窺った。
ウルの身体は巨大化していき、全身に髪と同じ真っ黒な毛が生え始めた。一瞬見えたウルの瞳は更に強い赤に染まり、瞳孔が開ききっていた。
ウルは己の変化に抵抗しようと、傍の木々に頭をぶつけたり地面に身体を擦り付けたりした。
「一体何が起こってるんだ?」
アレスが恐る恐る口にすると、エドワードは顔に陰を落とした。
「獣人化だよ。ウルは半月の光を浴びると姿を変えてしまう、ハーフムーンワーウルフなんだ……」
「ハーフムーンワーウルフ……」
アレスとクラシェイドは同時にウルの別名を復唱し、もう既に獣人化が完了してしまったウルに視線を向けた。
人間の面影を殆どなくした二足歩行の獣は鋭い牙がみっしりと生え揃った口から低い唸り声を漏らし、黒い体毛に覆われた太く逞しい腕を乱暴に振り回した。
木々が薙ぎ倒され、土煙が舞い、その中で獣は折った木の幹を片腕で持ち上げて振り回す。一通り辺りを蹂躙した獣は持っていた物を使い古した雑巾の如く投げ捨て、動きを止めた。
辺りが静まり返った事に、暫し安心する四人。
土煙が夜風に吹かれ、流れてゆく。
その合間から覗き見えた光景に、エドワードの金色の瞳が見開かれた。
「まだ終わってない!」
土煙が完全に消え、鮮明になった眼前に巨大な影があった。




