たった一つの救い
シルバーグレーの空が更に濃い色に覆われ、教会の窓から見える景色は真っ暗となった。その中で転々と光っているのは民家の灯りだ。
元々静かだった室内に更なる静寂が生まれ、冷え込みも一層増した階段をクラシェイドは一人上がっていた。
視界に入る天窓の向こうでは、闇の中で銀色の星達が隣り合って話をしている。
「クラシェイド様」
景色に見とれていたクラシェイドは突如名前を呼ばれた事に驚き、数秒遅れて振り返った。
しかし、すぐそこに声の主はおらず、視線を徐々に下げていくと階段下にその人物は両手を前で組んで立って居た。
クラシェイドには個人の特定は難しかったが、三十代ぐらいのその女性がルナ教会の法衣を着ている事からルナ教団員である事は理解し、取り敢えず返事の代わりに笑みを返した。
それまでは女性教団員の顔には何処か不安が覗えたが、クラシェイドの笑みを見た瞬間にそれはすっかりと消え去って忽ち笑顔が広がっていった。
「お帰りなさい」
ああ、成程。女性教団員の不安はそういう事か、とクラシェイドは納得した。
八年ぶりに、しかも死んだ筈の少年が突然戻って来た為、女性教団員には目の前に居るクラシェイドが本物かどうか分からなかったのだ。
クラシェイドは女性教団員の八年前と変わらない対応が心底嬉しかったが、それ故面映くて素直に挨拶を返す事が出来ず、また笑う事で誤魔化した。
それでも女性教団員にはクラシェイドの想いがしっかりと伝わり、彼女は満足してクラシェイドに一礼してから去って行った。
クラシェイドは女性教団員が柱の陰で見えなくなると、身体の向きを戻して階段を上りきった。
そこから金の手摺りに沿って左へ進むと、扉が幾つもある廊下へと出て更に進んで行くと漸く目的の場所へと辿り着く。
クラシェイドが訪れたのはかつて自分の部屋だった場所だ。
ドアノブを捻り、中へと入る。
すると、そこに広がっていた光景にクラシェイドは息を飲んだ。
「何で……」
家具も何もかもがない白の空間だったなら、それで良かった。寧ろそちらを期待した。それなのに、此処にあるのは八年前の空間そのものだった。
クラシェイドは覚束無い足取りで、部屋の中を見て回る。
窓際の白いシーツのベッドに、中央に敷かれたふわふわの絨毯、角に置かれた白い箪笥、全てがそのままで八年前にタイムスリップしたかの様な錯覚さえ覚える程に変わっていなかった。
クラシェイドが箪笥の縁を指でなぞってみても、埃一つ付かない。
誰かが故意に、八年前の空間を維持してきたとしか思えない。きっと、初めはソフィアがそうして来た。けれど、彼女は三年前に死んだ。
ふと、クラシェイドについ先程の出来事が思い出された。クラシェイドに挨拶をしたあの女性教団員。もしかしたら、彼女がこの空間を護ってきてくれたのかもしれないと思った。
クラシェイドにとって、彼女達の行いは空虚でしかなかった。現実があの頃のままであればある程、もう決して戻れない事を自覚させられる。それが、一番の悲しみだった。
クラシェイドは箪笥の上に一冊の絵本が置いてある事に気が付き、手に取ってページをパラパラと捲る。
これも、あの頃と同じ。母が好きだと言って、自分も好きになろうとして……。主人公の白い兎は月で両親に逢ってからも、ちゃんと幸せでいるのだろうか。もう捲るページがない為、それは分かる筈もない。
物語には終わりがある。そして、人生にも終わりはある。その法則は、この世が創造されてからずっと変わらない筈だった――――クラシェイド・コルースが此処に存在するまでは。
終わりを迎えたその先を、また同じ存在として生きているクラシェイド。あのまま、向こうの世界に居るジュール・ギアコートに逢っていた方が幸せだったのだろうか? それとも、現世で色んな人と……自分とは違う“ちゃんと生きている人”と逢った方が幸せだったのだろうか?
どちらの世界にも属せないクラシェイドには、どちらが幸せだとは言い切れなかった。
クラシェイドは絵本を閉じて元の場所へ戻し、静かに部屋を出た。
来た道を戻って行き、金の手摺りの前に出るとそこでクリスティアと出逢った。両者とも予想外の邂逅に驚く。
「どうしたの? クリスティア。こんな所で」
「えっとね……借りた部屋に戻ろうと思ったんだけど、道に迷っちゃって」
「あーそっか。ここ広いからね。その上、似た場所多いし。じゃあ、途中まで案内するよ」
「え? 良いの?」
既にクラシェイドが歩き出していたので、クリスティアのそれは無意味なものとなった。
クリスティアは彼の数歩後ろをついて歩き出した。
クリスティア一人では到底迷う道を、クラシェイドは難なく進んでいく。さすが、ここの住居人。
幾度か扉の並ぶ廊下と角を曲がり、窓から差し込む月の光に照らされた廊下の二つ並ぶ扉の真ん中でクラシェイドが足を止めた。
ここまで来ると、クリスティアもここが何処であるか理解した。
クリスティアは向き直ったクラシェイドに微笑んだ。
「ありがとう、クラ」
「うん。それじゃあ」
クラシェイドはクリスティアの脇を摺り抜けたが、途端に腕を掴まれて足を止めた。振り向くと、悲しそうな顔のクリスティアが居た。
クラシェイドはそっと彼女の手を振り解き、たじろいだ。
「……どうしたの? まさか、一人で寝られないとか言わないでよ?」
「そ、そんなんじゃないわよ。あのね、クラ。無理しないでね?」
「え? そう言う風に見える?」
「うん。だって、あなたは強がりなんだもん」
「……そうだね。クリスティアの言う通り、オレは強がりなだけの弱い人間なんだ。本当はこれ以上真実を知るのが恐いんだ……出来る事なら、もうこれで終わりにしたい」
「そうだよね。不安じゃない方が不安だわ。だけど、大丈夫。クラは一人じゃないから。だから、もう一人で全てを背負い込まないで?」
クリスティアはクラシェイドの手を取り、両手で優しく包み込んだ。そこから伝わる熱が温かくて、クラシェイドに安らぎを与えた。
クラシェイドはふわりと笑った。
「ありがとう」
これまで以上に彼と距離が近い気がして、それが急に恥ずかしくなったクリスティアは素早く手を放して数歩後ろに下がった。
二人は「おやすみ」と言い合い、クリスティアは扉の向こうへ、クラシェイドは廊下の向こうへと戻っていった。
また一人になった事で、クラシェイドの心には空虚が広がった。八年前とずっと変わらず、沢山の幸せな思い出が詰まった場所である筈なのに、今此処にいる自分は此処には居ない。一人だけ、現実から切り離された感覚……。
悔しさと虚しさが同時に押し寄せて来て、つい握った拳はまだほんのり温かい。先程、クリスティアが両手で包み込んでくれたからだ。
思えば、クリスティアとの出逢いをきっかけにクラシェイドの世界は回り始めた。月影の殺し屋の仕事に疑問を持つ事も、失くした記憶を捜そうと思う事も、誰かと笑い合う事も、誰かを護る事も、きっと彼女と出逢わなければしようとは思わなかった事だ。
クリスティアの世界もまた、クラシェイドとの出逢いをきっかけに大きく揺らいだに違いない。父親と平凡に暮らす毎日が突如終わりを告げたのだ。しかも、それはもう二度と取り戻せなくなってしまった。
この時代に居場所がないと知ってしまったクラシェイドは、本当の意味でクリスティアの気持ちを理解する事が出来た。
いつか幸せな日々や命にも終わりが来ると分かっていても、まさかそれが明日……況してや今日この瞬間に終わるなんて誰も予想なんてしていないだろう。だから、人は嘆き悲しみ後悔をする。そうして、それを奪ったのが自然であれば恨み、人であれば復讐心を抱く。現に、以前のクリスティアはクラシェイドを憎み、刃を向けていた。
そんな彼女がそれを乗り越え此処に居るのは、現実と向き合えたから。復讐の相手をちゃんと今は一人の人間として、クラシェイド・コルースとして見る事が出来たからだ。
大半の人間は憤怒や憎悪に支配され、そこまで辿り着く事は出来ない。
クラシェイドは改めてクリスティア・リアンネの強さを知り、彼女の為に何か出来ないかと彼女の温もりが残った右手に左手を重ねた。
そして、その想いはクラシェイドをある場所へと誘った。
二対の白い人型の石像に見つめられる祭壇に、アラベスクの施された金の扉からそこまで伸びる光沢のある赤の絨毯、規則的に並ぶ白い柱、それらを七色に照らす左右正面の高い位置に設置されたステンドグラスが揃うそこは教会内で一番の広さを誇る礼拝堂だ。
クラシェイドは七色の光を受けながら赤の絨毯の上を歩き、祭壇の前で足を止めた。
祭壇の後ろの二対の石像を順番に瞳に映し、それから天を仰ぐ。その先には月と薔薇の花の描かれた大きなステンドグラスがあった。
クラシェイドは数秒視線をそのままにしてから、下を向き、瞳を閉じた。何も言葉を発する事なく、更に今度は長い間その状態を続けた。
背後から扉が静かに開く音と、ゆったりとした靴音が響いた。
クラシェイドは瞳を開け、けれども振り向く事はせずに靴音が傍らで止まるのを待った。
「クラシェイドくん。キミはキミ自身の肉体がないから、眠る必要もないのですね。人が眠るのは肉体や脳を休める為ですから」
横目に映ったのは若草色の長髪の大司祭で、クラシェイドは依然として視線を前に向けたまま口を開いた。
「そうみたいですね。でも、時々は眠らないと疲労を感じる事があるんです。やっぱり、何か分からない器で動くのも辛いみたいです」
「成程、そうですか。しかし、こうしてキミとまた此処に並ぶ事が出来る日が来るなんて思いもしませんでした」
「オレもそう思います。ところでアリビオ様」
クラシェイドはアリビオの方を見、アリビオもクラシェイドの方を見た。
アリビオはクラシェイドの瞳の奥に秘められた真摯な想いを読み取り、唯黙って彼の次の言葉を待った。
「部屋……もう片付けて下さい。あそこに帰るべき人は、もうこの世に居ない筈です」
主語が抜けていたが、アリビオにはそれが何を指しているのか瞬時に理解し、首肯した。
「ええ。分かりました。明日にでも片付けておきましょう」
平静を装ってはいるものの、藍色の瞳は誤魔化す事が出来ない。アリビオがクラシェイドの感情を読み取った様に、クラシェイドもまた、アリビオの感情を読み取っていた。
「無理を言ってごめんなさい……」
「いいえ。それがキミの望みであれば。……クラシェイドくん。僕からも少し宜しいでしょうか?」
「はい。何でしょう?」
「お願いではなく、単なる質問です。キミは先程何を祈られていたのですか?」
「祈り……とは違います。オレは神に愛される様な綺麗な人間ではないから」
クラシェイドは天を仰ぎ、ステンドグラスに描かれた月だけを見つめた。
「この三年間、多くの人の命を奪ってきました……。だから、神に懺悔していたんです。赦してもらいたいとは思っていないけど、それだけはちゃんと伝えなきゃいけないと思って」
「そうですね。これからもまだ生きていく者の命を、故意に奪う事などあってはならない事です。それにどんな理由があろうとも……結局は己の為なんですから。身勝手な行為を神はお赦しにならないでしょう。ですが、一つだけ神はキミに救いを与えて下さいました」
「救い?」
クラシェイドはアリビオに視線を戻した。
アリビオは藍色の瞳を細める。
「死んだ筈のキミが殺したのなら、大丈夫です」
「死んだ筈の…………ああ、そうか」
クラシェイドは納得し、もう温もりがなくなった右手に左手を添えた。




