訃報
翌日、ルナ教会の正面扉の前で朝日を気持ちよく浴びている大司祭のもとへ、一人の男性教団員が教会内からやって来た。
「クロード様、お早うございます。あの……実は……」
教団員は懐から綺麗に四つに折られた羊皮紙を取り出し、クロードに渡した。
クロードはそれを受け取り、内容を確認する。
「……なるほどな。ありがとう。後で返事を書く」
クロードは手紙を教団員に返し、下がらせる。
教団員は一礼し、教会の中へ戻って行った。
重厚な扉が閉まる音を背中で聞き届けたクロードは空を見上げた。
「もうあの顰めっ面を拝めなくなるのか……。案外俺は楽しかったぞ、ジュール」
人一人の命が尽きようとも、その死を悼もうとも、空は変わらずに青い色に白い薄雲を纏い金色に輝く太陽を浮かべているだけ。
ルナ教会の屋根の上の月のオブジェから、一羽の白い翼の小鳥が太陽を目指して飛び去った。
薄いカーテンの隙間から朝日が差し込み、ベッドで横になっていたクラシェイドは目を覚ました。
小鳥の囀りが聞こえカーテンを捲ってみると、一羽の白い翼の小鳥が大空を飛んでいた。
「クラ、もう身体は大丈夫なの?」
母の優しい声が聞こえ、クラシェイドはカーテンから手を離して後ろに首を捻った。
「お母さん。うん。もう平気」
クラシェイドはベッド脇の木製の丸椅子に腰を掛けている母に微笑んだ。
「そう。良かった……」
ソフィアはクラシェイドを抱き締め、クラシェイドは苦笑した。
「大げさだよ」
「だって……」そう言いながら、ソフィアはクラシェイドの背中に回していた手を彼の額に持っていき体温を確かめる。「良かった……熱、下がってる。もしも、このまま熱が下がらなかったら――――って思うと、私凄く不安で仕方なかったの」
眼前のサファイアブルーの瞳が揺れ、クラシェイドは先日の事を思い出してしまった。その時と全く同じ目、同じ声色の母。「不安」と本人は口にしたが、彼女以上にクラシェイドの方が不安だった。それを紛らわす為に、クラシェイドはもう一度微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。でも、本当にもう大丈夫だから」
ソフィアも漸く安心した様で、すっかり普段のぼんやりとした様な優しい笑みの母の顔に戻った。
「じゃあ、ご飯にしましょう? 消化の良いもの作って此処に持ってくるから、ちょっと待っていてくれる?」
「いいよ。ぼくも食堂行く」
「でも……」
ソフィアが反論する前に、クラシェイドはベッドから下りてルナ教団員共通の十字架のエンブレムの付いた折り返しの白い靴を履いた。
廊下へ出る時も、階段を下りる時も、母の不安げな視線を間近に受けながらクラシェイドは食堂へ入った。
食堂は既に教団員達で席が埋まり、ステンドグラスの前の席には父とその親友と義弟の姿があった。
ソフィアがクラシェイドを連れて席まで行くと、横を通り過ぎた教団員達がクラシェイドに労りの声を掛け、席に辿り着いてからも同じ様な言葉を掛けられた。
「クラシェイド、大丈夫か?」
クロードが食事の手を止めて、向かいのクラシェイドを見た。
横から、料理人の男性が朝食を運んで来てクラシェイドとソフィアの目の前に置いて去っていく。
本日のメニューはマカロニサラダと甘酸っぱい木苺のジャムが挟まった丸い焼きたてパン、採れたて野菜をふんだんに使った温かいスープだ。クラシェイドは一瞬それらに気を取られたが、手をつけるのを我慢して父の方を見て笑顔で頷いた。
息子の元気な様子に安心したクロードが食事を再開し、クラシェイドもパンを手にとったが口に運ぶ寸前にまた声を掛けられた。
「無理はしないで下さいね」
「くださいね~っ」
アリビオとシフォニィだ。
クラシェイドは彼らにも笑顔を返し、今度こそはとパンに齧り付く。それを見て、ソフィアも食事を始めた。
スープの最後の一滴を飲み下したクロードは静かに器を置き、甘いパンに夢中になっている息子のまだ手を付けていないスープを指差した。
「それも残すなよ?」
「うん」
「スープだけじゃなくて、具材もだぞ?」
「……うん」
二度目のクラシェイドの返事は少しトーンが落ちていた。同時に落とした視線の先には、緑、黄、赤、橙の野菜が黄金のスープの中に沈んでいた。その中でも、クラシェイドは橙色の野菜が苦手だった。つい、眉間に皺が寄る。
父の視線が突き刺さり、もう逃れられない。辛うじて食べられる野菜から攻めていると、隣からスプーンが伸びてきて橙色の野菜をすくい上げた。
クラシェイドが隣を見ると、ソフィアが優しい笑みを浮かべていた。
「人参、私が食べてあげるわ」
「え? ありがと……」
「ソフィア! だから、お前はそうやってクラシェイドを甘やかすなって」
クロードが強い口調で言い放ち、クラシェイドとソフィアの肩がビクッと跳ねた。
ソフィアは口元まで持っていった人参を下ろし、俯いた。何かを言おうとして口をもごもご動かすが、結局何も言わなかった。
両親の間の空気が重たくなり、耐えられなくなったクラシェイドは母からスプーンを奪い取りそこに乗った人参を己の口に放り込んだ。
なるべく噛まない様にして人参を飲み込んだ後、クラシェイドは母と父、順に笑顔を向けた。
「お父さんの言う通り、ちゃんと残さずに食べたよ!」
「うん? ああ」
クロードには、凄いと言うよりも不思議な光景に映った。これでは母を庇った様で、まるで父の言う事を聞いたとは言えなかった。
空気は軽くなったが、まだ正常ではなかった。
教団員達の声で微かにざわつく食堂内に、外からの声が流れ込んだ。元気一杯な、街の子供達の声だ。
それを聞いたクラシェイドは瞳を輝かせて立ち上がった。
「ぼく、遊びに行って来る!」
「それは駄目!」
叫ぶ様な声と共に袖を引っ張られ、クラシェイドは踵を返した。
「外へは行っちゃ駄目よ」
クラシェイドを引き止めたのはソフィアだった。ソフィアは瞳を揺らし、疑問だらけの顔の息子に、続けて理由を聞かせた。
「熱が下がったとは言え、昨日の今日でしょう? また体調を崩してしまうかもしれないし、今日の所は教会の中で安静にしていてね」
「……はい」
クラシェイドは感情を全て押さえ込み、素直に頷いた。視界の端では窓の外で走り回る子供達の姿が映っていた。
「数日すれば、またいつもみたいに遊べるさ」と、先程とは正反対の穏やかな笑みを浮かべたクロードがそう言い、席を立った。
「さて、礼拝堂へ行くぞ」
「ぼくも?」
父の視線が明らかにこちらへ向いていたので、クラシェイドはそう訊いた。
食事を済ませた教団員達が次々と席を立っていく。
クロードは憂いを秘めた顔で小さく頷いた。
「さっきウィング教会から訃報が届いたんでな。ジュールの奴が神のもとへちゃんと行けるよう、黙祷を捧げるんだ」
クラシェイドは朗らかに笑うウィング教会大司祭の顔を思い浮かべ、静かに納得した。一度しか会っていないが、父とジュールが会話する姿は新鮮で楽しく、ジュールに対して好感を持っていた。あんな楽しげに笑う人の命がたった数日で絶えてしまった事に、クラシェイドはあまり実感が沸かなかった。
クロード、アリビオ、シフォニィ……と歩き出し、ソフィアがクラシェイドに声を掛けてクラシェイドも漸く歩き出した。
礼拝堂から戻ったクラシェイドは名残惜しそうに正面扉の前を通り過ぎ、食堂とは反対側に位置する図書室へ足を運んだ。
此処は長い廊下の突き当たりにあり、人気が殆どない場所。クラシェイドの自室よりも広く、沢山の本が詰め込まれた本棚が規則的に並んでいるだけの部屋。日が落ちれば天井のランプが室内を照らすが、今の時間帯は三方向にある窓から陽光がたっぷり差し込むのでランプは必要ない。
クラシェイドは近頃、此処がお気に入りだった。人が来ない故に静かだし、大好きな本が思う存分読む事が出来る。
クラシェイドは図書室の奥へ進んでいき、壁際の本棚の前でつま先立ちをして手を伸ばす。
手に取ったのは白いカバーに、金の文字の入った分厚い魔術書だ。これは白魔術の詠唱呪文が書かれていて、最近読み始めたばかりの本だ。クラシェイドは窓の縁に座り、栞の挟んであるページを開いて読み始めた。




