紅茶とアップルパイ
翌朝、アレスは月光の館の医務室を訪れた。用は勿論、クラシェイドの容態を確認する為だ。
医務室に入ると、すぐそこはソファーとローテーブルが置かれていて休憩所になっていた。周りには薬やその材料、食器が置かれた棚があり、隅には流し台があった。アレスは、ソファーで休憩をしていたノアンと向かいの緑のフード付きのダボっとした黒い服を着た一見少女に見間違える容姿の銀髪の少年に声を掛けた。
「ノアン、リスルド。クラちゃんの様子はどうだ?」
ノアンは煙草を吹かして、ゆっくりと首を横に振った。
「怪我は治したが、まだ意識が戻らない」
「魔力も少し消費していたみたいだからね。そんなに心配なら、見てくるといいよ」
リスルドと呼ばれた少年は柔らかい表情で、長い袖に隠れて見えない手で薄い青色のカーテンの向こうを指した。
「……ああ。そうする」
アレスは二人の横を通り過ぎ、カーテンを開けて患者用のベッドが並ぶスペースへと消えていった。
アレスの姿が見えなくなると、リスルドは席を立ち、ローラーの付いた半ズボンと同じオレンジ色のロングブーツで床を滑って、棚の上の赤いリボンの巻かれた四角い箱をテーブルまで持って戻った。その後に、棚から皿とフォーク、ティーカップとスプーンを取り出してテーブルに二人分並べた。終始笑顔だった。
ノアンは箱を開き、そこに入っていた高級感漂うアップルパイを皿に取り分けた。その間に、リスルドがティーカップに熱々の紅茶を注ぐ。
二人は向かい合わせで、アップルパイを食べ始め、途中ノアンがフォークを置いてリスルドに話し掛けた。
「このアップルパイ、もしかして食堂のコルトが作ったヤツか?」
リスルドもフォークを置いて、答えた。
「うん。そうだよ。いつも、コルトってばケーキとかくれるんだよね。ちょっとチャラいけど、結構優しい所あるよね」
「優しいって……アイツ、女性にしか優しくないぞ」
ノアンが呆れて紅茶を啜ると、リスルドは首を傾けた。
「え? でも、いつも優しくしてくれるよ?」
「……お前、女に間違われているかもな。そんなナリだし」
「そ、そんなナリって何さ! 僕、どう見ても男じゃないか」
可愛らしい声を少し張り上げるリスルドだが、ノアンは馬鹿にしたように笑っていた。
「どう見ても、か」
「何それ! 酷いよ、ノアン。大体さ……」
シャッとカーテンが開き、そこから出て来たアレスの方に二人の視線は向けられた。
アレスは二人の様子を見て呆れ、肩を落として溜め息をついた。
「……お前ら、何呑気にティータイムしてんだよ。クラちゃんが大変だっていうのにさ」
リスルドは眉を下げて笑い、アレスに手招きした。
「あとは自然に目を覚ますのを待つだけだし、問題はないよ。さ、アレスもアップルパイ食べなよ」
「ったく……。クラちゃんの分も残しておけよ」
アレスは渋々、ノアンの隣に座った。
「勿論。クラシェイドの分もちゃんと残しておくよ」
リスルドはもう一枚皿を用意して、その上に切り分けたアップルパイを置いてアレスに差し出した。そして、アレスがコーヒーがいいと言うので、カップにコーヒーを注いでその横に並べた。
アレスはリスルドに礼を言い、コーヒーを口にする。
ノアンはアレスを横目で見て、カップを持った。
「様子を見てくるだけにしては遅かったな」
カップをテーブルに置いてアレスは答え、ノアンは紅茶を飲みながら訊いた。
「ああ、それな。俺、クラちゃんの寝顔見てたんだけどさ……なかなか起きる気配ないから、キスしてみようかなって」
瞬間、ノアンが紅茶を吹き出した。
「お、おまっ……」
「ほら、童話で眠った姫に王子がキスをしたら目を覚ました……なんて、よくあるじゃねーか。だけど、散々迷ってやめた」
ノアンは咳払いをしてアレスから視線を外し、リスルドは漆黒の瞳でアレスを無表情で見た。
「へえ……。もし、実行してたら僕、アレスを呪い殺していたところだよ」
決して冗談とは思えないリスルドの発言に、アレスは怖気づいて口を噤んだ。
リスルドの呪い殺すというのは、単に相手の死を念じるだけのものとは大きく違う。相手の身体に触れた時に相手の心臓に停止の呪文をかけ、確実に殺す呪術の事だ。ただ、それを行うには術者自らの寿命を糧としなくてはならず、リスルドもかなり身体が弱っている状態だ。現在は元気一杯の様に見えるが実はそうではなく、暗殺の後などは気を失ってしまう事もある。その為に、医務室のすぐ隣の部屋でノアンと生活をしているのだ。
「それにしてもさ、クラシェイドが怪我して倒れるの初めてじゃない?」
リスルドがそう言うと、ノアンとアレスは頷いた。
「驚いたよ……。俺がちょうど廊下歩いてたらさ、クラちゃんが血塗れで帰って来たもんだから」
アレスが昨夜の事を回想し始めると、ノアンとリスルドも同じ様に回想し始めた――――
***
アレスが廊下を歩いていると、扉が開く音が聞こえ、クラシェイドが歩いてくるのが見えた。いつものように笑顔で話し掛けようとしたが、彼の様子が何やらおかしい。そんな事を考えている矢先、クラシェイドが倒れかけ、アレスは慌てて受け止めた。
「クラちゃん! 大丈夫か?! おいっ!」
クラシェイドの身体を揺するが、その時もう既に彼の意識はなく、アレスの手には彼の血がべっとりと付いていた。
アレスは少し吊り上がった茶色い瞳を揺らし、クラシェイドを抱えて歩き出した。
「クラちゃん、待ってろよ。すぐに助けてやるから」
そうして、真っ先に向かったのは医務室。
アレスは医務室の扉を勢いよく叩いた。
「ノアン! ノアン、開けてくれ! クラちゃんが!」
しかし、返事はない。
アレスはますます激しく扉を叩いた。
「おい! いないのか!?」
すると、返事があった。
「医務室に何か用?」
その声はノアンのものではなく、少年の声だった。
アレスが振り返ると、そこには四角い箱を両手で持ったリスルドが立っていた。
「あ、リスルド。ク、クラちゃんが死んじまう!」
「え!?」
リスルドは驚いて、アレスが抱えているクラシェイドの様子を見たが、アレスが言う程深刻な状態ではなく、少しだけ安心をして溜め息をついた。
「確かに怪我は酷いね。でも、今ノアンがいないんだ」
「はあ!? こんな非常事態に、ノアンのヤツ何処行ったんだよ」
「ごめん。僕、捜して来るからさ、先に医務室のベッドにクラシェイドを寝かせておいて」
「……わかった」
月光の館のテラスで、赤い三日月を背にして一人の男が何かと話していた。
「こっちは今のところ何も……。そっちはどうだ? ……ああ……なるほどな」
男の右の手のひらには小さな動物の様な縫いぐるみが乗っており、それを軸にして白い魔法陣が浮かび上がっている。
「了解した……引き続き、俺は……」
「――――ノアン!」
突如、テラスに響き渡ったリスルドの声にノアンは肩をビクッと震わせ、サッと縫いぐるみをジャケットの内ポケットに入れた。
「どうした、リスルド。そんなに慌てて」
リスルドはノアンの行動に不信感を抱いたが、今はそんな場合ではないと思い、要件を伝えた。
「クラシェイドが大怪我してるんだ! 早く治癒してよ」
「クラシェイドが? ああ、すぐ行こう!」
リスルドがノアンを連れて医務室に戻って来て、アレスはノアンに治癒を促した。
ノアンはベッドで眠っているクラシェイドの脇に立ち、治癒術の詠唱を始めた。
クラシェイドの真上に淡く輝く魔法陣が出現し、そこから光が溢れ出す。その光に包まれて、クラシェイドの傷は跡形も無く消え去った。
クラシェイドの怪我が治り、三人は一安心した。
「良かった……。もう、俺駄目かと」
「アレスは大袈裟だよ」
そう言って、リスルドは笑った。
「ノアンがいてくれて本当に助かった。ありがとう」
アレスはノアンに頭を下げ、ノアンはとんでもないという風に手を振った。
「それが俺の役目だからな」
「……じゃあ、俺は暗殺に行って来る。クラちゃんを頼んだぜ、二人とも。明日、また来るから」
「ああ。任せておいてくれ」
「ちゃんと看ておくから安心してよ」
アレスは二人に笑いかけ、医務室を後にした――――
***
「やっぱり、相当ターゲットが手強かったのかな?」
リスルドがアップルパイをナイフで一口サイズに切りながら、問い掛けた。
「うーん……アイツが手こずるとは思えないけどな」
アレスが最初に答え、それに対してノアンは頷くと同時に不満そうな表情を浮かべた。
「だが、クラシェイドが怪我をしたのは事実……ターゲット以外にやられたとは考えにくい」
「クラちゃん、たまにボーッとしてるからな……ちょっと、心配だったんだ」
「まさか。戦闘中にボーッとしてたっていうの? いくらクラシェイドでも、それはさすがに……」
リスルドはアップルパイを口に入れた。
「だよなー……。俺が護ってやんなくても、アイツ強いもんな」
フォークで豪快に切ったアップルパイをアレスも口一杯に入れた。
ノアンには何か思い当たる節があったようで、考え込んでいた。
「……この頃、クラシェイドの様子がおかしかった。悩んでいるようだったな」
「な、悩んでいた……だって? 何だ、それ。俺、全然知らねーけど!? どうして俺には何も……――――って、ああっ! クラちゃん!?」
アレスは突然立ち上がり、席を離れた。
リスルドとノアンは何事かと彼が向かって行った方を見て、クラシェイドがいる事に気が付いた。
「ごめん……。オレ、倒れた……のかな」
クラシェイドが不安そうな声色でそう言うと、アレスは眉を下げて彼の肩を掴んだ。
「そうだ。倒れたんだよ。……もう、大丈夫なのか? 歩けるか? よければ、俺の手を貸すぜ?」
「クラシェイド、こっち来てアップルパイ食べようよ」
リスルドはアレスの事を鬱陶しいと感じ、クラシェイドの気をこちらに向けようとした。
「リスルド……そうだね」
クラシェイドはアレスの横を通り過ぎ、アレスは焦った様子で彼について行った。
「待ってよ、クラちゃん! 俺の事、無視しないでくれよ」
クラシェイドがリスルドの隣に座り、アレスは先程と同じノアンの隣に座った。丁度クラシェイドと向かい合わせで、アレスはとても嬉しそうだった。
「はい。アップルパイだよ。それと、紅茶」
リスルドはクラシェイドの目の前にそれらを置き、クラシェイドが礼を言おうとすると、ノアンが驚きの声を上げた。
「おいおい! 配分おかしくないか?」
三人は平然としているが、ノアンが驚くのも無理はなかった。何と、リスルドがクラシェイドに渡したアップルパイはワンホールの約半分サイズだったのだ。
アレスが当然とばかりに言い返す。
「おかしくねーよ。クラちゃんは甘いものが大好きなんだ。いつもはこんなもんじゃないぜ? 数日前なんて、生クリームパスタとケーキ食ってたし」
「ワンホールも余裕だもんね」と、リスルドも付け足す。
クラシェイドは否定もせずアップルパイを食べ始め、ノアンの表情は驚きから心配へと変わり、クラシェイドを見つめていた。
「好きなのはいいが、限度があるぞ。病気になってしまう。なるべく控えろ」
クラシェイドは少し不満そうな顔をし、小さく頷いた。それに対してノアンは何か言いたかったが、今回ばかりは大目に見てあげる事にした。今はそれよりも、もっと重要な事をクラシェイドに訊かねばならない。
「クラシェイド。昨晩の怪我はターゲットに負わされたものなのか?」
アレスとリスルドは手を休め、クラシェイドの方に視線を移す。
クラシェイドは三人に視線を向けられ、それを遮る様に前頭部を片手で覆った。
「……凄く強かった。多分、魔術のテクニックはオレ以上だ。でも、怪我したのはオレが……オレに迷いがあったからなんだと思う」
先程の三人の予想は大体合っており、三人は特に意外そうな表情は見せなかった。
ノアンは煙草を吹かし、クラシェイドに言う。
「この間から何をそんなに悩んでいるか知らんが、悩めるうちはとことん悩め。ただし、戦闘中は戦闘に集中しろよ。……そんで、悩んだ末に出したお前なりの答えでどんな結果になろうと、俺はお前の味方でいる」
「僕もキミの味方だよ」とリスルドが横で笑い、向かいのアレスも笑った。「俺は絶対にお前を裏切らないからな」
他人にそう言う事は初めて言われたので、クラシェイドはどう答えたらいいか分からず戸惑ったが、返答に相応しい言葉を何とか探し出して口にした。
「ありがとう……。オレも、ノアンとリスルドをそう言う風に思いたい」
ノアンとリスルドは彼の返答に満足げに頷いたが、一人だけ納得のいかない男がいた。
「クラちゃん……俺は?」
アレスが寂しそうな顔をしていて、クラシェイドは少ししてから気が付いた。
「あ……ごめん。アレスもありがとう」
「――――ああ!」
アレスも満足げに笑い、クラシェイドは穏やかな表情を浮かべた。




