月影の回し者Ⅱ
あまりのショックに足元が覚束無いヴァジルは、壁に寄り添いながら廊下を歩いていた。頬にはまだ涙が伝う。口からはたった一人の肉親とその恋人の名前が繰り返される。
そこへ、アウラが心配して追いかけて来た。
「ヴァジルちゃん! 私が部屋まで送るわ」
「アウラさん。ありがとう……」
ヴァジルはアウラに支えられ、ゆっくりとまた歩き始めた。
「アウラさんも辛いのに、ごめんね」
「辛いって……私は……」
アウラはヴァジルの言った事が分からず、自分の脳内を探った。これまでの流れで自分が辛いと言う状況があったのだろうか? 脳内の何処にもその答えが見つからなかった。
ヴァジルはアウラが疑問を抱いているだろうと思い、答えを口にした。
「クラシェイドの事、好きなんでしょう?」
「えっ」
アウラの心臓が跳ね、顔が一気に真っ赤に染まった。
ヴァジルは「ふふっ」と笑い、その笑みは大人びていて姉の面影があった。
「好きな人を殺さなくちゃいけないなんて……凄く辛い」
「ええ……そうね……でも、」アウラの顔から熱が引いていった。濃いピンクの瞳が揺れる。「彼はあなたの好きな人の命を奪った……いえ、彼が殺したとは限らないけど。それでも、コロナさんとカイトくんが死んでしまうきっかけを作ってしまった」
「……うん。元々わたし、クラシェイド……と言うか、男の子が嫌いだったけど、今回の事でもっと嫌いになっちゃった。復讐してやりたい」
「そっか……」
話をしている間に、ヴァジルの部屋の前に到着した。
アウラはヴァジルを離した。そして、ドアノブに手を掛ける彼女に、真剣な眼差しを向けた。
「あのね、ヴァジルちゃん。そんなに彼が憎いなら、殺すよりももっと彼を苦しませる方法があるの……」
「アウラ……さん?」
ヴァジルの手から力が抜け、ドアノブをするりと離した。
「それはね…………」
何の躊躇いもなく話し始めたアウラの表情は、ヴァジルが今まで見た事のない冷たい氷の様なものだった。
ヴァジルは目を見開いたまま、人形の様に固い動きでそれに同意した。
「ありがとう。引き受けてくれて。……それじゃあね、ヴァジルちゃん」
アウラは先とは正反対の穏やかな表情を浮かべ、ヴァジルに手を振った。
ヴァジルも手を振り返し、まだ震える身体を隠す様に扉の向こうへと姿を消した。
(私はきっとおかしい。異常なまでに彼を愛しすぎている。でも、これでいいんだ)
扉が締まる音を背中に受け、アウラは桜色の髪と白い羽織を靡かせて長い廊下を歩いて行った。
殺し屋達が大広間を後にする少し前。ノアンは廊下でコルトと別れ、医務室へ戻って来た。
入ると、いつもソファーに銀髪の少年の姿があるのだが、今は彼も召集を受けていて当然ながら居なかった。
ノアンは紙袋を薬瓶の並んだ棚の上に置き、誰も居ないソファーに腰を掛けた。煙草を吹かし、落ち着いた彼はふと思い立って席を離れた。
数分後、ノアンはティーカップを両手に戻って来た。中には淹れたてのお茶が注がれており、ほんわりと湯気が立っていた。それをソファーの目の前のテーブルに置き、再びノアンはソファーに腰を掛けた。
これで、リスルドがいつ戻って来ても安心だ。
ノアンがティーカップに手を伸ばした時、上着の内側が淡く光った。
ノアンは辺りを見回して誰も居ない事を確認すると、軽く息を吐き出して上着の内側から小さな縫いぐるみを取り出した。縫いぐるみを中心に魔法陣が浮かび上がり、光っていたのはこれのせいだった。
縫いぐるみの向こうから、年齢の判断が出来ない男性の声が響く。
『ノアンくん、元気にしていますか?』
「ああ。…………すまない、アリビオ。俺の方は未だに奴の正体が分かっていない。言い訳になるが、なかなか会う機会がないんだ。それに、あまり派手に動くとすぐにこちらの素性がバレそうだ」
ノアンは先程のコルトの事を思い浮かべた。冗談の様に口走った「回し者」と言う言葉……コルトは何か感じていたのだろうか? それとも彼が? 考えれば考えるだけ、頭がぐちゃぐちゃに掻き回される。ノアンは頭を振り、考えるのをやめた。
「お前の方はどうなんだ?」
『そうですね……そろそろ、来ますよ』
縫いぐるみの向こうの声は何処か弾んでいて、ノアンの顔がパッと明るくなった。
「まさか、クラシェイドか?」
『ええ。予定よりも少々遅くなりましたが、彼は必ず来ます――――シヴァノスにね』
「そうか! それなら……」
トンッ。
背後で靴音がした。靴音と言うより、正確にはローラーが床にぶつかる音。
ノアンの全身から血の気が引き、彼は恐る恐る首を後ろへ捻った。
「――――!」
瞬間、ノアンの視界が何者かに遮られ、更にその何者かによってノアンは後ろへ押し倒された。弾みで持っていた縫いぐるみが吹き飛び、床に転がった。
『ノアンくん? 何かあったのですか?』
依然、縫いぐるみから声がする。
ノアンに馬乗りになった少年は、スラリと長い足を伸ばしてその場から縫いぐるみを踏みつけた。
縫いぐるみから魔法陣と声が消え、代わりに綿が縫い目から飛び出した。
少年は光のない漆黒の瞳で、ノアンを見下ろした。
「ノアン……今の話は一体何? アリビオ? それに、クラシェイドだって?」
「リスルド……はは……ムーンシャドウ様の話は終わったのか」
「話を逸らさないで」
リスルドの冷たい両手がそっと、ノアンの首を掴んだ。
「ノアンは回し者だったの?」
リスルドの両手に力が入り、ノアンの首が絞まってゆく。
彼には大人の男性を絞殺する程の力は備わっていないが、この至近距離での拘束は圧倒的にノアンには不利だった。何故なら、相手は呪術師。標的の身体に触れる事で、心臓に停止の命令をかける事が出来るのだ。つまり、この状態は呪術師にとって、術をかける絶好のポジション。
ノアンが予想していた通りリスルドは片手を離し、ノアンの心臓の上で掲げた。
ノアンは咄嗟に左手を伸ばし、テーブルを探る。コツンと陶器に指が当たった感触……少し前に用意しておいたティーカップだ。それをなんとか握ろうとしたが、上手くいかずに倒してしまった。
ティーカップはテーブルにぶつかって小さな音を出し、コポコポと中身が溢れていった。
リスルドは手を止め、視線をテーブルの方へ遣った。
「あーあー……せっかくのお茶が零れちゃったじゃん」
リスルドのその言葉には何の感情も込められていなかった。
リスルドは視線をノアンへと戻す。
彼と目が合った瞬間、ノアンの心臓がドクンと跳ねて物凄い速さで動き始めた。
リスルドの右手がノアンの胸へと振り下ろされる。
もう抗う事は叶わないと、ノアンは諦めた。
「さよなら……ノアン」
リスルドの右手がノアンの胸に――――触れた。
「なーんてね?」
閉じた筈の世界の向こうから、少年の無邪気な声が聞こえた。
ノアンはまさか、と思い、瞼を開けた。
その瞳に移っていたのは、悪戯に笑うリスルドの姿だった。
ノアンは何ともない胸元を確認し、溜め息混じりに言った。
「リスルド……お前なあ」
「どお? 迫真の演技だったでしょ?」
「……マジで殺されるかと思った」
「ノアンがマジで死を覚悟した時の顔、なかなか良かったよ」
リスルドは悪びれる様子もなく、愉快に笑っていた。
ノアンは怒りを通り越して、唯ひたすらに呆れるしかなかった。
「お前、軽いけど重いからどいてくれ」
「それ、矛盾してるよ? はいはい、どきますよ~」
リスルドはノアンから下り、倒れたティーカップを元に戻して台ふきでテーブルを拭き始めた。
その間にノアンは上半身を起こし、ソファーの背凭れに背中を預けて煙草を吹かした。
テーブルを拭き終えたリスルドはそのまま席に着かず、食器棚の方へローラースケートで滑っていった。
「しょうがないから、僕がお茶を淹れ直してあげる」
「ああ。すまないな」
「んーと、茶葉はこれだっけな……」
すっかり普段通りのリスルドの姿に、ノアンは安堵した。先程の出来事が嘘の様だ。しかし、ソファーの傍らに転がる壊れた縫いぐるみは紛れもなく現実を表しており、ノアンは頭を抱えた。
(そうだ……リスルドに全て聞かれてしまったんだ……)
「具合でも悪いの?」
芳しい香りと共にリスルドの顔が目の前に現れ、思わずノアンは仰け反った。
「リ、リスルド」
「お茶、ちょっと薄いかもしれないけど。どーぞ」
リスルドがお茶を差し出し、ノアンは礼を言って受け取った。
リスルドもノアンの隣に腰を掛け、お茶を飲み始める。
静かで穏やかな時間が流れた。
リスルドが一向に何も言い出さなかった為、ノアンは己が最も触れられたくない話題を自ら振った。
「さっきの聞いたろ?」
「さっきの?」リスルドはティーカップをソーサーに置いた。「ああー……アリビオって人との会話の事?」
「ああ、そうだ。あそこまで聞かれてしまっては、最早俺には言い訳が出来ない」
「そうだね。ノアンは僕と違って、嘘は得意じゃなさそうだから。……つまりさ、ノアンは月影の……ムーンシャドウ様の事を探る為に来たんだ?」
「……その通りだ」
「ふぅん。ヘタレなノアンが回し者ねー。オッケー! この事は僕とノアン、二人だけの秘密にするよ」
「た、助かる……」
リスルドが本心を口にしているのか分からない上、それを守るかどうかなんて保証は何処にもない。けれど、ノアンは二年間彼と過ごした事により、彼に何かしらの信頼を持っていて不思議と信じる事が出来た。
「秘密を共有するとか、何かカッコイイ」
楽しげに笑うリスルドの横顔。普段と違わぬ姿。だが、違和感があった。
「おい、リスルド」
ノアンは両手でリスルドの両頬を挟み、強制的にこちらへ顔を向かせた。
リスルドは訳が分からず、瞬いた。
「どうしたの?」
「お前、何か隠してないか?」
「別に何も……」
リスルドは目を泳がせ、ノアンは両手に力を入れた。
「ちゃんと俺の目を見ろ!」
「……嫌だ……っ」
リスルドの瞳から涙がポロポロと零れ落ちた。それを見て、ノアンは彼を離した。
リスルドは横を向き、涙を必死に拭った。
「ごめんっ……僕…………」
「…………リスルド、やっぱりお前……」
「うん…………あと一回だ。あと一回呪術を使えば、僕は死ぬ。……いつかはそうなるって分かってた……分かってたのに……凄く怖くなって……それで……」
「すまない……」
ノアンはリスルドの背中をそっと摩った。優しいリズムで何度も、何度も。
手の温もりも相まって、徐々にリスルドは落ち着きを取り戻していった。止めどなく流れ続けた雫はいつしか終わりを迎え、リスルドの顔の角度も上がった。
ノアンが手を離すと、リスルドは彼の方を向いて自分の背中を摩ってくれていたその手を両手で包み込んだ。
「あのね、ノアン。僕は大切な人の為に、この命を捧げるよ」
リスルドの目は真剣で、強い意志をそのまま映した真っ直ぐなものだった。多少は恐怖や絶望などと言ったマイナスの感情が垣間見えたが、殆ど迷いはなかった。逆に、ノアンにはそれが辛く、胸が酷く痛んだ。
たった十六年しか生きておらず、記憶も失った少年にはあまりに残酷な現実で、それを他の誰かの為に終わらせようとする彼の優しさは、彼を大切に想う者にとっての嘆きでしかなかった。
それに気が付かず、ノアンから手を離したリスルドは微笑んだ。
ノアンは何も言い返す事が出来ずに、俯く。その視線の先には壊れた縫いぐるみがあった。
「ごめんね……それ、壊しちゃって」
リスルドもいつの間にかノアンと同じ物を瞳に映していて、静かにそう言った。
ノアンは首を横へ振り、立ち上がって縫いぐるみを拾い上げた。
ノアンが月影の殺し屋に潜入する際、アリビオに通信用だと託された縫いぐるみ。同時に、殺し屋とは親しくならぬ様にとの忠告も受けていた。……受けていた筈だった。結果としてノアンはその忠告を破ってしまった。
アリビオか、月影の殺し屋かだなんて、今のノアンには最早どちらか一方を選ぶ事は出来なかった。
ノアンは縫いぐるみを握ったまま、部屋の角へ歩いてゆく。そこには、大きな口を開けたゴミ箱が置いてあった。
「いいさ。これはもう……必要のないものだから」
ノアンは縫いぐるみをゴミ箱へ放り込んだ。それはまるで、己の迷いそのものを捨てたかの様だった。




