迷い
ノアンはソワソワしながら、医務室を出た。
(そろそろ、アイフラワーが到着する頃だな)
期待通りに、廊下を駆ける足音が聞こえる。ところが、それが期待していたものとは違うと分かった時には、その足音は真横を通り過ぎた。
「――――アウラ?」
ノアンは走り去った少女を振り返って名を呼んだが、彼女は立ち止まることも振り返る事もせずに、この先にある階段を上っていった。
ノアンは前を向き、歩き出した。
(泣いていたような気がしたんだが……気のせいか?)
廊下の角を曲がると、扉が開いてクラシェイドが入って来るのが見えた。
ノアンはクラシェイドに近付いて、軽く手を上げた。
「おお、クラシェイド。お帰り。意外と遅かったな」
クラシェイドは俯き加減で立ち止まり、何も返さなかった。
「……どうしたんだ?」
ノアンが心配して訊くが、クラシェイドは黙ったまま。普段ならば彼は一言返してくれるのだが、今回ばかりはそれもなく、さすがにノアンも困った。
何と声を掛けていいのか分からず、二人の間に沈黙が流れ始めた。
その時、タイミング良くウル達が戻って来て、沈黙を破った。
「お前先に帰った筈なのに、まだこんな所にいたのかよ」
ウルはクラシェイドの横に並び、ルカとエドワードは二人の後ろに立った。
クラシェイドは顔を上げてウルを横目で見た。
「……ウル達こそ、帰りが早いじゃん」
「いや、だってさ~腹が減ったからさ。俺達、実は昼飯食ってなかったんだぜ?」
「何? その理由」
「結構重要なんだぞ、これ。話変わるけどさ、今さっき可愛い女の子と館付近で擦れ違ったんだけど。あれは泣いてたな」
すると、クラシェイドの顔が陰り、ウル達が来る前の状態に戻ってしまった。それにより、ノアンは気が付いた。先程のクラシェイドの様子がおかしかったのは、ウルが言う女の子が原因ではないかと。それに、同じタイミングで、アウラの様子もおかしかった為、この三人で何かいざこざがあった事は確かだと思った。
ウルは何も知らないで言っているのだろうが、これ以上その話題に触れるのは良くないと、ノアンは話題を自然と変えた。
「まあ……森にでも迷い込んで、館付近にまで来てしまったんだろう。街も近いし、そんなに気にする事はないと思うぞ。それより、俺が気になるのはアイフラワーの事だ。クラシェイド、ちゃんと採って来てくれたか?」
「勿論。採って……………」
懐を探るクラシェイドの顔に、段々と焦りが見え始めた。
「え? あ……な、ない?!」
「な、何だって!? それは本当なのか?」
まさかの事態に、ノアンは声を上げた。信じられないというばかりに、クラシェイドの肩を掴んで揺する。
クラシェイドは瞳の神殿での出来事を、何となく思い出してみる。
「多分、ゴーレムと戦った時に落としたのかも……。採った所までは覚えているんだけど、その後が思い出せないから……」
「そうか……。お前も、意外と抜けてるからな」
「ごめん。神殿に行った意味なかったな……」
二人が話していると、突然とウルが自信満々に笑い声を漏らした。二人の視線が同時に、ウルの方に向けられる。
「こんな事もあろうかと、ウル様が持って来てやったぜ」
ウルは赤い半ズボンのポケットに手を突っ込み、何かを取り出した。
それを見て、ノアンは喜んだが、一瞬にして眉を顰めた。
「確かにアイフラワーだ。しかし、肝心の目玉が潰れている」
「は!? マジか! ……うおー潰れてる! キ、キモッ……」
ウルは潰れてしまったアイフラワーを、廊下全体に敷かれた紫色の絨毯に叩きつけた。目玉から溢れ出した汁がじんわりと絨毯に染み込み、シミを作った。
「ちょっと、ウル! ここに捨てちゃ駄目だよ」
エドワードが眉を吊り上げて怒り、ノアンも深く溜め息をついてアイフラワーを拾い上げた。
「このシミ、落ちにくいぞ」
ウルはノアンを見て、ニヤリと笑った。
「じゃあ、何かすげー薬品でも使ってシミを落としておいてくれよ。俺は、今から飯を食わなければならないんだ。な? ルカ、エド」
「そうだべ~おれ、腹が減って倒れそう」
「ウルはすぐに人任せにするんだから! でも、おいらも何か食べたい……」
二人の期待通りの返答を聞くと、ウルは嬉しそうに食堂に向かって歩き出した。
「そんじゃ、後は任せたぜ! ノアン。さあ、俺達は飯だ」
ルカとエドワードも、彼に続く。
「お、おい! お前達」
ノアンが引き止めるが、彼らは話に夢中で聞いていなかった。
「おれ、甘口のカレーライス食べたいべ」
「おいらはケチャップたっぷりのオムライスがいいなぁ」
「俺はハンバーグだな。やっぱ、肉だろ」
ノアンは肩を下げ、溜め息をついた。
「……アイツら、子供みたいだな。さて……仕方ないから、医務室に薬品でも取りに行くか」
ノアンは歩き出し、ほぼ同時にクラシェイドが歩き始めた。
二人は別方向へ向かっていて、気になったノアンは振り返った。
「食堂には行かないのか?」
クラシェイドは立ち止まり、振り返る。
「うん。今から、仕事に行かないといけないから」
「そういや、今朝行くって言ってたな。俺が言うのもなんだが、今日はウル達に振り回されて疲れたろ。帰ったら、無理せずちゃんと休めよ」
「……うん。分かった」
「それじゃあな」
ノアンは前を向いて歩いていき、クラシェイドも身体の向きを変えようとした。と、その時。食堂の中央の出入り口から、金髪の二十代半ばぐらいの青年が出て来た。
青年は美しい顔に不敵な笑みを浮かべてクラシェイドを一瞥すると、廊下の突き当たりの階段を白いマントを靡かせて上がっていった。
青年の姿が完全に見えなくなるまで、クラシェイドはその場から動く事が出来なかった。あの氷の様な色の光のない瞳は全く笑っておらず、腹では何を考えているのか分からない。クラシェイドは青年のそういう所が苦手で、出来る事ならあまり青年に関わりたくないと思っていた。
硬直が解けると、クラシェイドは身体の向きを変えて歩き出した。
星空がよく見えるテラスにて、先程クラシェイドに不敵な笑みを向けた金髪の青年とアウラが並んで話をしていた。傍から見れば、仲睦まじい二人だ。
「そんなに泣いて、何かあったのかい? もしかして、クラ坊ちゃんに何か酷い事でも言われたの?」
「ううん………違うの。クラシェイドくんは何も悪くない……彼は優しい人だから、人を傷付けたりはしないわ。だから、あの娘にも…………」
「ふぅん……。ホントにキミは好きなんだね」
「そ、そんなんじゃ……な、ないわ」
必死に否定をしようとしているアウラの頬は赤く染まっており、青年はニコッと笑った。
「分かり易いなぁ、アウラは。ね、ところでさ……」
急に青年の笑顔が歪んだ。
「“あの娘”って誰?」
「やあ、クラシェイド」
クラシェイドが部屋に入ると、窓際の席で腰を掛けていたムーンシャドウは椅子を回転させて正面を向いた。
クラシェイドは報告を済ませ、次の依頼を受ける。
「次のターゲットは、このお婆さんだよォ」
ムーンシャドウの手の平に映し出された立体映像は、腰の曲がったシワだらけの老婆だった。いつ寿命で死んでもおかしくはなく、ターゲットと呼ぶにはあまりに貧相だった。それを思ってか、クラシェイドはすぐには返事をせず、黙り込んでいた。
ムーンシャドウはクラシェイドの反応を見て、楽しそうに説明を加えた。
「ただの老いぼれじゃない。魔術に関してはキミと互角……いや、それ以上かもしれない強者だ。黒魔術師のキミにしか頼めないと思ってさ」
クラシェイドは依然として黙り込んでおり、目は何処か遠くを見ていた。
「……クラシェイド、聞いていたかい?」
ムーンシャドウの問い掛けに、クラシェイドはハッとした様子で少し顎を上げ、しっかりとムーンシャドウに視線を向けた。
「あ……はい。了解しました」
いつもの調子で返事をしたつもりだったが、焦りと不安が隠しきれていなかった。
ムーンシャドウは机に両肘を付き、指を組んでその上に顎を乗せた。
「クラシェイド、キミさ……何か、ワタシに言いたい事でもあるのかな?」
クラシェイドは初めてムーンシャドウの前で動揺し、斜め下を向いて答えた。
「そう言うわけじゃないんだけど…ただ……」
「ただ?」
間髪入れずに、ムーンシャドウが聞き返す。
「どうして人殺しをするのかなって……」
途端、ムーンシャドウは大層ガッカリとしたように、深い溜め息をついた。
「何を言い出すかと思えば……。そんな事を訊いてどうするんだい?」
「それは……」
クラシェイドが言葉に詰まり、ムーンシャドウは態とらしく咳払いをした。
「いいかい? クラシェイド。これは仕事だ。キミはワタシの命令に従っていればいいし、抗う事は許されない。分かったら、もうそんなくだらぬ事を訊くな」
クラシェイドは何も言い返す言葉もなく、静かに返事をした。
「はい……どうかしてました」
「そうそ、キミらしくないよォ。それじゃあ、いつもみたいにパパっと暗殺しちゃって来てねェ」
「はい。では、失礼します」
クラシェイドがムーンシャドウに頭を下げて扉まで歩いてゆき、彼が部屋を出て行くのを見届けた後、ムーンシャドウは独り言を呟いた。
「そろそろ、彼も使い物にならなくなるな」
声はいつもの奇妙な声ではなく、低い男性の声だ。
(――――いや……そんな事よりも、記憶を取り戻してしまう事の方が心配だ)
ムーンシャドウは席を離れ、後ろの窓ガラスの前に立って外を眺めた。
(まあ……私にとってはどうでもいい事だが、あの男にとってはとても重要な事。記憶を取り戻さなければいいが…………)
最上階のムーンシャドウの部屋から下の階に下りる為にまず、クラシェイドは図書室に入った。
先の質問の意味が自分でも理解出来なかった。何故人殺しをするのか? そんな事、ムーンシャドウが言った様に仕事だからに決まっている。三年間そうやって過ごして来た。それなのに、何を今更疑問を口にしてしまったのか。それに、つい、クリスティアに言ってしまった事。確かに自ら望んで此処に来た訳ではない。気が付いたら居た……唯、それだけなのに、居場所があるだけで十分なのに、何をそんなに悲観する必要があるのだろうか。此処を居場所だとするのなら、主に従うのが当然。
クリスティアに復讐の刃を向けられてから、クラシェイドがこれまで築き上げて来たモノが崩れ始めていた。
このまま前へ進んでいけば、いつしか崩れて取り返しのつかない事になるのではないか。そうなれば、本当に居場所を失ってしまう。そんな恐怖からか、クラシェイドは思ってしまったのだ。今から暗殺に行きたくない――――と。
本が沢山並ぶ図書室を通り過ぎて扉の向こうにある階段を下りていく。
三階の廊下が見えて来た時に、向こうから金髪の青年が歩いて来るのが見えた。
一瞬目が合い、青年の方がクラシェイドに微笑んだが、クラシェイドは気が付いていない風をして階段を下りていった。
青年はクラシェイドが視界からいなくなると、不敵な笑みを浮かべて階段を上っていった。




