囚われの姫君は連れ出しに来てくれた王子様と共に
コロナはその晩、考えた。女性を殺さない……それだけは強く誓ったのだが、心に空いた穴は塞がっていなかった。
女性もヴァジルも幸せに暮らせる方法……もうコロナに残された選択は一つしかなかった。また涙が頬を伝う。だけど、これが最後と自分に言い聞かせ、今夜だけは声を上げて泣いた。
外から小鳥の声が響き始め、太陽が地上を仄かに照らし出す頃。コロナは静かに自室を出て、リビングへと足を踏み入れた。まだカーテンが閉じられていて薄暗く、誰も居なくて静かだった。
コロナはカーテンを開ける事もキッチンへ向かう事もせず、女性がいつも座っている席へと向かった。そして、上着の内ポケットから半分に折られた白い紙を取り出し、テーブルにそっと置いて横にまんまるに太った麻の巾着袋を添えた。中にはお金が沢山入っていた。コロナがこれまで稼いで来たお金、全てだ。これだけあれば、二人だけなら当分の間暮らしていけるだろう。
コロナの瞳は憂いを帯びていたが、迷いはなかった。
「さよなら……」
ここには居ない誰かに向けた言葉を残し、コロナは部屋を、家を出て行った。もう戻らないと誓って――――。
コロナの姿は町外れの煉瓦造りの灯台の前にあった。
コロナは灯台の大きく開いた入口の前で立ち止まり、天まで伸びるそれを真剣に見上げている。
思い出すのは、今は亡き実母の事。母は此処から眺める景色が好きだった。風を肌に感じながら見下ろす青い海は何処までも広がっていて、太陽の光を反射させてまるで宝石の様に耀っていた。幼かったコロナも、よく母に連れられて此処へ来た事がある。その時に聴かせてもらった母の歌声が綺麗で、大好きだった。だからコロナも、自然と歌を覚えた。母にも負けぬ程の歌声で、周りを魅了した。
――――けれど……
コロナのその歌声は後に悲劇を生み出す事になってしまう。
(私の歌声は魔物を呼び寄せてしまう性質がある……そのせいでお父さんは……)
コロナは数年前の事を思い出し、身震いをした。ずっと禁じられていた歌。しかし、あの日はとても嫌な事があって自分の気分を晴らす為に、つい歌ってしまった。そんな些細な事が全てを狂わせてしまった。
父は町へ攻めて来た魔物の大群に、他の者達と共に勇敢に立ち向かった。ある者は剣を手に、ある者は魔術で、魔物に対抗した。その結果、町は大きな被害もなく済んだ……コロナの父の死を除いては。
突然魔物達が攻めて来た事に皆疑問に思ったが、それがコロナの歌声が原因だとは誰も気が付かなかった。それは不幸中の幸いだというべきかもしれないが、コロナにとってはそんな事はどうでも良かった。自分のせいで、父が死んでしまったのだ。自分で自分の居場所を壊してしまったのだ。その日から、コロナは自分の歌と自分自身が嫌いになった。
コロナは深呼吸をし、呼吸と心を落ち着けた後、歩き始めた。
灯台の中へ入ると、爽やかな海風が髪を揺らして頬を撫でた。コロナには何か込み上げて来るモノがあった。胸を押さえ、螺旋階段の前で立ち止まる。
(お母さんはこの灯台から飛び降りたのよね……)
コロナの瞳が大きく揺れた。
コロナの母は愛人に大怪我を負わせた後、独りで此処へ来た。そして、最上階から海へと身を投げ出した。コロナも、父も、まだ眠っていた為、後に他人から聞いただけの話なのだが、きっとその前に母は歌を歌ったのかもしれないとコロナは思っていた。此処から歌うのは何よりも気持ちが良い。歌に合わせて海は輝くし、海鳥は踊る様に飛び交う、風は歌を遠くまで運んでくれる。どんなに嫌な事があっても、忘れさせてくれる様な……そんな歌と場所。
コロナも此処へ来た。そう、彼女は決意したのだ――――母のもとへ逝くと。
コロナは階段を一段ずつ、しっかりとした足取りで上がってゆく。少しずつ母が近くなる。その度に、コロナは自嘲した。
(お母さんと同じ道を辿る事になるなんて、やっぱり私は貴女の娘ね)
階段を全て上りきり、眼前は更に明るくなった。正面の硝子のない窓から見える青に自然とコロナの心は安らいだ。
コロナはゆっくりと窓に近付き、縁に腰を掛けた。海を右手に、彼女は目を閉じて歌を歌い始めた。
歌に合わせて海は輝き、海鳥は踊る様に飛び交う、風が歌を遠くまで運んでゆく。コロナは心底満たされた気分になった。もうこれで思い残す事はないと、彼女は歌を止めて目を開いた。美しい海は魔物の大群で埋め尽くされており、それに満足をしたコロナは内側に向いていた両足を外側へと向け、宙に浮かせた。後は上半身を宙に投げ出すだけ……。
(お母さん……お父さん……今から私もそっちへ逝くからね)
コロナの頬には一筋の涙が伝った。コロナの手はそれを拭おうとはせず、此処から離れる準備をしていた。
コロナの上半身が宙へ向かって少し浮いた――――と、
「綺麗な歌声だな」
少しあどけなさの残る少年の声が響いた。
コロナは驚いて、後ろを振り返る。すると、そこには壁に凭れ掛かった小柄な少年の姿があった。いつからそこに居たのだろう? 声がするまで、コロナは彼の存在に全く気が付かなかった。
(子供……?)
コロナは彼の容姿から、そう思った。年端も行かぬ幼子に思えたのだ。しかし、声と口調、それに彼を纏う空気がそれを静かに否定していた。
少年はコロナに視線を向け、そのマゼンダの大きな瞳でしっかりと彼女のグレーの瞳を捕らえた。
「もう少しだけ聴かせてくれよ。…………だからさ、死ぬんじゃねーぞ」
コロナは何も答える事が出来ず、そっと両足を床に下ろした。まだ瞳は彼の瞳に捕らえられたままだ。
コロナは少年に近付いた。
「キミは一体誰なの? ……あの町の人じゃないわよね」
「ああ。俺はカイト・ウェルクス。訳あって故郷を追い出されて、色んな土地を彷徨っていたんだ。そんで、たまたまこの近辺に来た時に綺麗な歌声が聴こえたから此処へ来てみただけだ。そうしたら、お前が飛び降りようとしていたから。つい、声を掛けちまった。余計なお世話だったか?」
コロナは激しく首を横へ振った。瞳はもう彼から解放され、下を向いていた。
「そんな事……ないわ。私、本当は死ぬの……怖かった。止めてもらえて安心した。そして、何よりも私の歌を褒めてもらえたのが嬉しくて……」
コロナの瞳から涙が一粒、二粒と零れ落ちる。それは次第に加速し、大雨となった。嗚咽も混じる。
カイトは目の前で泣き出した少女に、戸惑いを隠せなかった。慌てふためき、コロナの前をウロウロし、彼女の顔を覗き見る。
「な、何も泣く事ねーだろ……。何なんだよ。嬉しいって言ったくせに」
コロナは何も答えず、嗚咽だけを繰り返すのみ。
カイトは諦め、暫く彼女を見守った。
コロナは思った。この人が自分を連れ出しに来てくれた王子様なのだと。最初は子供に見えた彼……だけど、今は不思議と自分と、否――――自分よりも大きく見える。そう、彼ならば大丈夫だと言う確かな安心感を覚えた。
コロナは顔を上げ、目の端に涙を飾って微笑んだ。
「私、コロナ・フレースって言うの。よろしくね、カイト」
カイトは瞳を細め、しっかりと頷いた。
「ああ。宜しく、コロナ」
コロナ・フレースとカイト・ウェルクスはこの場所から去った。それぞれを縛っていたものから解放されるべく、二人で自由を、本当の居場所を求めたのだった。
そうして、また数年の後にこの場所へと戻って来た。二人にとっては良い意味でも、悪い意味でも、思い出と共に刻まれた場所。しかし、今度は居場所を求めるのではない。護る為に、互いに背中を預けて戦うのだ。
***
「お前に本当は恨みはなかったが、これは仕方ねー事なんだ」
カイトは憂いの表情を一瞬浮かべ、横たわるクラシェイドに鎌を振り下ろした。




