蘭方医冬山哲洲
おりんは自分の部屋の窓を開け、露台の手すりに肘をついて格子越しに下の堀をぼんやり眺めていた。三味線堀と名がつく黒く淀んだ堀は、堀留(行き止まりの堀)となり丁度三味線の胴のように膨らんでいる。堀に沿って地固めの柳の木が植えられていて、浅緑の細い若葉が風にそよいでいた。堀留には荷卸の小船が何艘も舫って、人足が荷を運び上げ、威勢のいい掛け声が聞こえてくる。十日前、幕府筆頭老中、久世大和守様へのご接待は流石に疲れた。自分一人でそのような賓客の相手をするのは始めてだったし、緊張もした。だが何より気を揉んだのは、想い人の火消、次郎吉が安房鯛の浦から走り届ける鯛が間に合うかどうかだった。遥々三十余里。それに費やせる時間はたったの三刻半。何とか無事刻限までに到着し、その時は覚えず涙が毀れてしまった。何故次郎吉は自分の為にあれ程命懸けで走ってくれるのだろうか。自分はこの無垢の気持ちに応えているのだろうか。次郎吉の気持ちを考えると無性に切なく、恋しくなってくる。
殿様は上機嫌でこの快挙を褒め、自らおりんと次郎吉の縁組に力を貸そうと仰った。天下のご老中が、町人同士の縁を仲立ちすることなど、有り得ぬだろうから、きっと冗談であろう。冗談と解っても、おりんは嬉しかった。自分の次郎吉を想う心が、凡そ恋など縁の無い幕府の政策を立案する立場の高官に届いたのだから。次郎吉は殿様の前ではっきり、私はおりんを好いておりますと言ったのだ。あれほど辛く厳しい道を走りきり、疲労の極限に達していただろうに。殿様のことで夢中で次郎吉には慰労の言葉一つもかけられなかった。八歳で見ず知らずの鳶の頭哲次のもとへ里子にだされ、それからは火消し一筋に育てられた次郎吉。母親の顔もろくに覚えていないのだろう。一途に恋する人のために走る男。そんな次郎吉がおりんは大好きだ。
堀の川面に白い花びらが幾つか吹き寄せられている。下谷の不忍の池から流れ来たったものだろうか。
「あ、もう春」
昨年暮れ、店を全焼する大火事。焼け跡の片付け。店の再建と地所の拡張。義兄の大失策。次郎吉の走りの鍛錬。そうした様々な出来事も昨日で一応の区切りがついたのだ。顔を合わせたばかりなのに、又次郎吉に逢いたくなった。
筆頭老中への接待が成功裏に済み、それが又大袈裟に瓦版に取り上げられたせいで、店は以前に増して忙しくなった。引きも切らぬ予約の注文。常連の客に加えて新規に店を訪れる客が増え、どの座敷も客で埋まっている。いちまつの看板を汚さぬよう、どの客に出す料理も、客への奉仕も質を落とすことは出来ぬ。だから朝早くから夜遅くまで働きづめでも仕事はへらぬ。おりん目当て、ご指名の客も多い。おりんは人一倍働き、疲れた。
いつの間にか転寝をしてしまったらしい。そろそろ支度をしなければならぬ。夜のお客の予約は今日も一杯だ。おりんは立ち上がろうとして、腰を浮かせた途端、下腹に千切れるような痛みを感じた。だが忙しい最中休むわけにはいかぬ。二三日前から時々痛みを感じたが、痛みは時間が経つと和らぐので放って置いた。痛さを堪えて階下のおまさのところへ顔を出した。
「おりん。どうしたの。顔色が悪いよ」
「うん。ちょっとおなかが痛いの。でも大丈夫。きっと疲れが出たのよ」
「そうかい。無理しちゃいけないよ。今日は座敷を仲居頭のお由紀に任せて、お前は盛り付けの指示を出すほうをやったらいい」
「うん。そうする。こんな青白い顔でお客様の前には出られないものね」
おりんは厨で板前の鐡蔵の作る料理を盛る器や盛り付けに注文を出していた。下腹の痛みは安らぐどころか、益々強くなり、額に脂汗が浮いてきた。
「お嬢様。お元気が無いようですが、どうかなさったんですか?ありゃ。ひどい汗」
「て、鐡蔵さん。朝起きたときからおなかが痛くて」
おりんはその場に蹲る。顔色は土気色。酷く苦しそうだ。急に寒気に襲われ震えだす。
「い、いけません。少し横になりなせえ。おいっ。お前ェら。お嬢様がご病気だ。二階のお部屋にお連れする。料理の方頼んだぜ。権次。お前ェ医師の利庵先生ンところまで走ってくれ。何が何でも先生を引っ張って来い。それに辰三。お前ェは一っ走り次郎吉さんの処へ報せろ」
鐡蔵は数々の修羅場を潜ってきたから、こういう危急の処置は手早い。おまさと一緒におりんを部屋に寝かせ、おまさは痛む腹や背中を摩る。
町医者岩橋利庵は元鳥越の三筋町に住む、普段から良く世話になっている若い医師だ。四半刻後、権次に手を引っ張られ喘ぐように到着した。そのすぐあと、次郎吉が土煙を上げ走りこむ。医師と次郎吉は直ぐに二階のおりんが病臥している部屋に通される。利庵は枕元に座ると、おりんに話しかけた。
「腹が痛いそうだが、どの辺がどう痛むのじゃ」
おりんの唇は既に色は無く、苦悶の表情を浮かべ目を閉じている。
「は・・・はい。この辺りです。おなかが・・・錐で刺して掻き回されるように酷く痛みます・・・。く、苦しい・・・たすけて・・・」
普段我慢強く滅多に苦痛など訴えることの無いおりんが、身を捩り苦痛のあまり蝦のように全身を反らしたり、縮んでもがき苦しんでいる。次郎吉は見ていられない。
「お、おりん。しっかりしろ。だ、大丈夫だ。先生が助けてくださる」
利庵はおりんの痛む腹部を何度も繰り返し触診していたが、額に皺を寄せ首を横に振る。
「せ、先生様。うちのおりんは助かりましょうか」
「お通じは毎日ありますか」
「い、・・・いえ・・・この四五日無い・・・のです。吐き気がします」
「ふうむ。これはひょっとして、腸の病かも知れん。どうやら、腸が捩れ詰まったようだ。腸閉塞という誠に厄介な病らしい。弱った」
「な、な、何が弱ったんですか」
「この病、儂には治す術が無い・・・・」
「で、では、ど、どうなるんでございますか」
「女将。気を確かにして聞かれよ。このまま放置すれば、やがて腸が破れ死に至る」
「お、おり〜ん。死んじゃ嫌だ。こんなに若く、こんな美しい娘が死ぬなんて・・・・俺を殺してくれ。俺が身代わりになる」
「お前さんが死んでも、お嬢さんはどうもならんわい。う、う〜む」
利庵は自分が助けられぬ患者を前になす術も無く、痛みを緩和する医薬を投与するしか出来ることはない。医師が出来ることなど限られている。懊悩し頭を抱えた。
突然利庵が頭を上げ、きっと眦を上げる。
「たったひとつだけ、道がある。もとより助かるか否かは、神のみぞ知るところであるが、武州日野郷に阿蘭陀医学を修め、蘭方医の称号を受けた医師がいる。長崎にて阿蘭陀医官クローンに学び、外科術の技を身に付けた聞く。あの先生なら或いは治せるやに知れん」
「その先生を連れてくれば良いのですか」
「左様。だが手遅れになったら幾ら名医でも手は下せぬ。遅くとも今晩中に診てもらわねば間に合わんだろう」
「その先生の名前は何と仰るんでがんすか?誰か地図を持ってきてくれ」
「冬山哲洲殿と申される。今は六十を越えているであろう。大層気難しい方でな、来てくれるかどうか・・・」
次郎吉は持ってきて貰った地図を仔細に眺める。武州日野郷はここより凡そ十五里(六十粁)、往復で三十里。この前安房鯛の浦から走ったのが、同じく三十里。今は九つ半(午後一時)。
「先生。あっしがその安芸河先生を今夜中に連れてまいります」
「おい、おい。お前さんは走っても、先生は歩くことさえ覚束ぬ。どうもならん」
「いえ。帰りはあっしが先生を背負って駆けます」
「無理じゃ。先生は痩せておられるが、十六貫(六十粁瓦)は御座ろう。それを背負って十五里なんて・・」
「じゃあ、どうすればいいんで?他に方法が無ければ遣るしか無ェでしょう」
「じゃ、じゃが・・・・」
「一っ走り屋敷に戻って身支度をしてめえります。女将さん、鐡蔵さん。おりんちゃんを見守っていてください。」
次郎吉は火消屋敷に駆け戻り頭の哲次にあらましの説明をし、これから日野まで走り、医師を背負って連れて戻ると報告した。哲次はいきなり次郎吉の頬を張った。
「馬鹿野郎。おりんちゃんの命が掛かっているんだぞ。そんな安請け合いしやがって、間に合わねばおりんちゃんは死んでしまう。幾らお前ェでも、背負って十五里も突っ走るのは無理だ」
「じゃあ、頭はおりんが苦しんで死んで行くのを黙って見ていろと言うんですかい。あっしは例え無理でもやれるだけのことはしてやりてえ」
「やめろとは言っていねえ。只少しは頭を働かせろと言いたいんだ。先月組に入った新入りだが丑蔵ってえのがいる。奴を連れて行け」
「丑蔵ってえのは、役立たずの鈍重な野郎。そんな野郎足手まといになるだけだ」
「丑蔵は富山から出てきた山男だ。人を担いで山に登るのが仕事だったと聞いた。脚はのろいから、お前ェが引っ張って走れ」
そう言っている間に火消仲間達が次郎吉の道中に必要な道中地図、背負子、脚絆や草鞋、吸い筒や弁当、提灯や錫杖などが用意してくれた。哲次は丈夫な鉢巻紐と丑蔵を引っ張る扱きを出してくれた。呼ばれた丑蔵がのっそり顔を出す。
「丑蔵。これから次郎吉と一緒に走ってくれ。訳は道々聞いてくれ。頼んだぞ」
「へ〜〜い」
「先行くぜ。お前ェは構わず甲州道中に出たら真っ直ぐ走って行け」
箪笥や米俵を担ぐ頑丈な背負子を背負い、鉢巻をきりりと締め、錫杖を片手に次郎吉は走り出した。丑蔵はあとから悠々と走ってついて行く。丑蔵は背丈七尺、体重二十五貫もある巨漢で、動作や走りはのろいが重い龍吐水も一人で運んでしまう怪力の持ち主だ。
武州日野には日本橋に出、甲州道中をひたすら西に走る。内藤新宿、高井戸、布田、府中、日野である。日野宿からの大体の行き先は岩橋利庵が書いてくれた。今は八つ(午後二時)少し前だ。日野の冬山先生宅に六つ半(午後六時)前に着けば、九つ(午後十二時)までに帰り着くことが出来るかも知れない。次郎吉は丑蔵に構わずどんどん先を走った。神保小路から飯田坂の長い上り坂、四谷大木戸の急な登りを過ぎると、あとは坦々とした一本道。振り返っても丑蔵の姿は認められない。高井戸を過ぎると、街道の両側には延々と田圃や畑が連なる。布田や府中の由緒ある神社の脇も余所見せず走り抜ける。しゃんしゃんと錫杖が鳴り、荷車や牛馬が道を譲ってくれる。多摩川を渡船で渡り、道中を進むと日野宿本陣の少し先に一里塚がある。そこを左に入る。畑の畦道を思わせる狭い道だ。段々薄暗くなってきた。次郎吉は逸る気持ちを抑えながら、速度を上げた。もう少しだ。多摩川の支流、淺川は渡渉する。梨畑が連なっている。小高い山に入った。入り組んだ谷戸の奥に目指す哲洲の屋形があった。回りに点在する百姓屋とは違う、厳しい巨大な屋形だ。門扉に蘭方医冬山哲洲の小さな表札がかかっている。よくよく注意して見ぬと見過ごしそうな小ささだ。門扉をがんがんと力一杯叩く。暫くして門番か中間のような老翁が出てきた。
「もう診察は終わりだ。先生はお食事中である。帰った、帰った」
「深川より走ってまいりました。何卒、何卒先生に御取次ぎください。先生でなければ治せぬ重病人がおります。何卒」
次郎吉は門前で土下座した。
「先生は一日中診察で疲れておられる。取り次ぐだけ取り次ぐが、あとは先生次第じゃ」
門を潜ると中は広い前庭で、飛び石を敷いた道はくねって玄関まで続いている。老翁が大声で女中を呼んだ。
式台を上がると幅広い廊下の両側に床から天井までの巨大な薬を入れる棚がずっと奥の方まで続いている。ぷうんと薬の臭いがする。長い床机の並んだ部屋から、開き戸を通って、白い割烹着のような着物を着た女中がいる板張りの部屋に通された。ここも一方の窓以外の壁には棚が設えられギヤマンの薬瓶が並んでいる。患者を診る診療室のようだ。蘭方医らしく西洋の立ち椅子と長机が置かれ、傍らには寝台がある。
「そこに横になってください。着物をはだけておなかを見せなさい」
女中は消毒液に手を浸し、顔に被いを掛け、管のついた見慣れぬ道具を持って近づいてきた。
「待ってくだせえ。病人はおいらじゃねえ。病人のところまで先生を連れて行くんだ」
「往診ですか。往診はもう終わりです」
「せ、先生に取り次いでくだされ」
「先生は只今お食事中です。食事が済むまでお待ちになって」
「それが、そうはいかねえンでがんす。先生の部屋は何処です?」
「見ず知らずの方に教えるわけにはまいりません」
次郎吉は女中が止めるのも構わず、片っ端から戸を開けていった。一番奥の座敷に目つきの鋭い、痩せた老人が美しい女中の給仕で食事をしていた。男は食べながら女中の着物の襟から手を突っ込み、胸をいじっている。更に一口食べ終わる毎に女中の口を吸っていた。この険しい目つきの男が冬山哲洲だった。
「お取り込み中、申し訳ありません。あっしは深川の火消、次郎吉と申す者でございます」
「深川の火消だとお?これからこの娘と情交する。邪魔立てするな。去ねっ」
「あっしの想い人、鳥越に住むおりんちゃんという娘が大変な病で苦しんでおりやす。近所の医師に診てもらいましたが、その先生では手に負えず、冬山先生を紹介してもらい、吹っ飛んできました」
「貴様の恋人など儂には縁もゆかりも無い。早々に立ち去れ。目障りだ。爺っ。コヤツを追い出せ」
門番の老人が棍棒を持って飛んでくる。
「な、なんという不埒な若造。先生のお楽しみを妨げていやがる。出て失せろ!」
「この世で先生しか治せ無ェ重病人がいるんでがんす。先生は医者でしょう。医者なら病人を放っておけねえはずだ」
「無礼な奴だ。許せぬ。叩き切ってくれる。爺。刀を寄越せ」
「後生でごぜえます。先生が来てくれなかったら、おりんは死んじまいます。助けてくだせえ」
次郎吉は号泣した。その泣き声の大きさに哲洲はたじろいだ。
「貴様、深川からこの日野まで走ってきたのか。呆れた男だ。その病人は誰に診てもらった」
「へ、へい。診てくれたのは浅草は元鳥越の岩橋という医師です」
「岩橋利庵か・・・・儂のムカシの弟子じゃわい。岩橋の診立ては?」
「何でも、腸閉塞とかいう恐ろしい病で、今晩中に先生に診てもらわないと死んでしまうと仰っていました」
「ふむ。残念だったな。鳥越まで、今晩中に着く手段は御座らん。天命と思い諦めるしかあるまい」
「あっしが先生を担いで鳥越まで運びます。後から丑蔵という男が此方へ向かっております。そいつと二人で背負って行きます」
「冗談言うな。天下の蘭方医冬山哲洲が、火消の背中に負ぶさって往診に行くだとお。そんな恥さらし出来る訳無いだろう。帰った、帰った」
「あっしは先生を今晩中に鳥越まで運ぶと、おりんの母上に約束しました。ここまでお願いしても無理であれば、この場で腹掻っ捌いて自害致します。御免」
次郎吉は懐から脇差を取り出し、鞘を払って腹に突き立てようとした。
「ま、待て。お前が本当に運べるンなら運んでもらおうじゃないか。じゃが途中へばって倒れても儂には一切関りが無いからな」
哲洲は抱いていた女中から手を離すと不満たらたらで立ち上がり、着物を着替え大きな診療の道具箱を用意させた。
「万一辿り着いたら手術になるやも知れん。お絹、折角気分が盛り上がってきたのに、楽しむのは明日だ。残念である。全てこの若造のせいだ。悪く思うな」
次郎吉が嫌がる哲洲を背負子に後ろ向きに座らせ、幾重にも紐で縛る。
「おいっ。何をするんじゃ」
「揺れておっこっちまわねえようにでごんす。もう渡船もねえでしょうから、多摩川も泳いで渡ります。そん時も流され無ェよう縛るんでがんす」
「忌々しい小僧だ。恥ずかしいから頭巾で顔を包んでくれ」
背負子に肩を入れ、ぐいっと持ち上げる。ぎしっと音がし、持ち上がる。流石に重く腰が定まらぬ。
「行きますゼ」
脚と腰に渾身の力を篭め、摺り足で走る。いや走るというより早足と言ったほうが良いだろう。辺りは既に暗く、錫杖に提灯を括り付け進む。百歩も行かぬうちに汗びっしょり。
「せいっ。せいっ」
掛け声を上げ次郎吉は走った。水しぶきを上げ浅川の浅瀬を渡る。
「せいっ。せいっ」
「おいっ。揺れてけつが痛い。もうちょっと優しく運べ」
「黙ってくれ。おいら死ぬ気で走っているんだ」
「せいっ。せいっ。しっかり掴まってておくんなせえ。ちいっと飛ばしますぜ」
次郎吉は慣れてきた。始め早足程度だった速度が次第に速まり、本格的な走りになった。
「お、おいっ!けつが浮き上がっては下に叩きつけられる。けつが破れちまう」
「しっかり肘棒に掴まり腰を浮かせてくだせえ。行きますぜ」
猛然と土煙を上げ駆けぬける。そのまま速度を緩めず、提灯を吹き消すと多摩川の早い流れに飛び込む。
「げっ!多摩川じゃ無ェのか。溺れ死んじまう。無茶を止せ」
「大ェ丈夫でごんす。水中じゃ先生の身体が浮き、軽くなります」
哲洲を背中に括り付けたまま、次郎吉は房総の漁師に伝わる平泳ぎという泳法で力強く腕を掻き、沈み流されながらも二十間の川幅を渡りきる。
「凄ェ。お前ェは熊みてえな野郎だな」
「へい。じき牛に引継ぎやす」
甲州道中に出た。道が広く良くなって速度を上げる。錫杖の音に皆道を譲る。
「せいっ。せいっ」
谷保から分倍の古戦場までは長い屈曲した登り坂が続く。次郎吉の走りが鈍り止まりそうになる。
「どうした。次郎吉。こんな柔な坂でへばってるようじゃ、とても浅草にゃあ、着かん。おりんとやらはおっ死んでいるだろう」
「く、糞。てやんでえ。あまり早く走ってると背中の爺ィの尻の皮が剥けちまうんで、少し緩めただけだ。飛ばすぞ」
哲洲の憎まれ口は、次郎吉の闘志を再び燃え上がらせた。速度が上がった。
府中の宿場の明かりが見えてきた。賑やかな通りだ。向こうから大男がのっそり走ってくるのが見える。
「う、丑蔵か。助かった。俺りゃへばった」
倒れこむ次郎吉。丑蔵は黙って自分の背負子に哲洲を乗せ、縛り上げ、元来た道を引き返す。速度が遅い。荷を降ろした次郎吉は少し肩で息をして呼吸を整えると、猛然と走り、丑蔵を追い抜き、扱きを渡した。扱きは次郎吉の腰帯に結わえつけられている。
「丑蔵。これに掴まって走れ。急ぐんだ。高井戸まで行ったら俺が担ぐ」
「せいっ。せいっ」次郎吉の掛け声を丑蔵がなぞる。「せいっ。せいっ」
丑蔵は肩に重荷を背負っているとも思えぬ表情で、身体を左右に揺らしながら悠々と走る。
「いいぞ。丑蔵。その調子だ。せいっ。せいっ」
布田五宿を過ぎ、高井戸宿にかかる。流石の丑蔵も汗みどろ。息切れして苦しそうだ。
「おいらの番だ。丑蔵。良く頑張った。内藤新宿まで走る。お前ェは遅れないようついて来い」
次郎吉が勢い良く走り出す。内藤新宿から半蔵門まで丑蔵。最後は次郎吉が担ぐ。半蔵門からは江戸城西の丸御殿の深い堀に沿った、緩やかに曲がった道を行く。右手はずらっと大名屋敷の高い塀が続く。夜更けの今も大名屋敷の門前では篝火や大提灯で明るい。幾たびも門番に誰何される。次郎吉は重病人のため医師を運んでいると怒鳴りながら通る。日比谷御門から、左に曲がり鎌倉河岸に出、日本橋まで突っ走る。商店は皆店を閉め、真っ暗闇。人気の無い通りを一人駆けていく。丑蔵は諦めたのかもう追っては来ない。
苦しい。苦しい。脚が前に進まぬ。背負子が肩に食い込み、猛烈に重い。
次郎吉は歯を食い縛って、よれよれになりながら走っている。あともう少し。あともう少しだ。おりんが待っている。おりん。死んじゃいやだ。おっかあ。おいらを走らせてくれ・・・・・・・。
神田川が見えてきた。気力を取り戻した次郎吉は、もうよろけることなく、確実に地面を捉え、速度を上げて走る。
そのころおりんは腹を押さえのた打ち回っていた。
「う〜。う〜〜。く、苦し〜い。おっかさん。苦しいよお」
おりんの額にびっしりと脂汗が浮かび、猛烈な痛みに顔をしかめ、苦悶の叫びを間段無く上げている。
おまさはおりんの手を握り締め、念仏を唱えている。利庵も懸命に背中を摩る。
「痛み止めを処方したが、利かぬ。腸が破れたかも知れん」
「次郎吉さん。戻っておくれ。神様、仏様。どうか次郎吉さんが今晩中に戻ってくれますように」
「い、いかん・・・急激に体温が下がった。血流が滞って、心の臓が止まってしまいそうだ」
「せ、先生。お、おりんは、もう・・・」
おりんは身体を仰け反らせ、痙攣するように打ち震えた。
四つ半の鐘(午後十一時)が鳴る。頭の哲次は三味線堀の前の広い通りに出、次郎吉の到着を待っている。いらいらしどうしで髪が又白くなってしまった。
「次郎吉。早く走ってくれ。後生だ。おりんちゃんの命が助かるんなら、儂の命なんか呉れてやる。早く・・・早く・・・間に合ってくれ。た、頼んます」
行ったりきたり。忙しなく足踏みを繰り返す。通りには人通りは無く深閑としている。
願いも空しく九つの鐘が打ち始まった。ごぉ〜ん・・・・ごぉ〜ん・・・・ごぉ〜ん。・・・・・・
「・・・・・間に合わなかった・・・・・か・・・・・」
・・・・・・・・と・・・・・・しゃん、しゃん、しゃんと規則正しい錫の音が闇の彼方から微かに聞こえてきた。蛍火のような揺れる小さな光が徐々に近づいてくる。
「せいっ。せいっ」と掛声が聞こえて始めてくるではないか。
「じ、じ、次郎吉?」
次第次第に掛声が力強く聞こえてくる。大きな荷を背負った男が真っ直ぐ前を見据え、乱れることなく着実な歩調で駆けてくる。鐡蔵は飛び出した。夢中で男の来るほうへ走り出す。
「せいっ。せいっ」
「せいっ。せいっ」
「じ、次郎吉!良く遣った!良く頑張った!」
「先生を早くおりんのもとへ」
次郎吉は哲洲を背負子から下ろすとそのまま倒れこんだ。
「ふうっ。えれえ目にあった。どうやら着いたようだな」
「先生。こちらです。さ、さ、早く」
おりん重篤の報せを受け、頭の哲次始め深川鳶火消が全員いちまつ門前で待ち受けている。手足を丹念に清め、白衣に着替えた哲洲がおりんの枕元に至った時、丁度九つの鐘が鳴り終わった。
「あっ、哲洲先生。良くぞお越しくださいました。病人は腸が捩れ、閉塞、血流が滞りを起こし心の臓圧迫せる模様でございます」
「利庵。良く診たてた。どれ診せろ」
哲洲が乱暴に衣服を剥ぎ、胸や腹部を露出させる。慎重な手つきでゆっくり胸から下腹を触診する。
「お前の言うとおりのようだ。ただちに手術する。烏頭を投与する。その後開腹しよう。女将。ありったけの明かりを持て。邪魔な男共や女中を退散させよ。それと大釜に湯、多量の綿布や油紙を用意するんだ。急げ。のろのろしているとこの娘は死ぬ」
烏頭は麻酔薬だが身体全体を完全に麻痺させることは出来ない。開腹は危険を伴う。おりんの生に対する執着の強さが鍵だ。少し休んだ次郎吉がよろけながらやってきた。
「おりん。しっかりしろ。俺がこの大先生を連れてきた。頑張るんだ」
女中達は哲洲の命じる品を用意するため慌しく部屋を出入りする。
新しい敷布団を二重に油紙で包んだ応急の治療台に、全裸にしたおりんを仰向けに寝かせる。
表の通りで待つ火消し達が声を合わせて木遣りを歌っている。
「流れ尽きせぬ五十鈴の川を 千代に目出たく御木を曳く」「よぉ〜いとこぉ,よぉぉ〜いとこぉぉせぇぇ〜」
真っ暗闇の中、皆おりんの手術が無事終わるよう祈っているのだ。女中達は思い思いに真言を唱えたり、祈祷を繰り返している。
「皆。おりんの手足をしっかり押さえていろ。口には棒を咥えさせろ」
やがて麻酔が効いてきたらしく、おりんは目を閉じ、ぐったりした。
「是より執刀する」
哲洲は皮袋に包んだ阿蘭陀渡りの手術道具の中から、手裏剣のように細い小刀を取り出し、蝋燭の火に炙って、躊躇うことなく、おりんの白い腹に深く突き刺し、そのまま下に引く。鮮血が迸って哲洲の顔を濡らす。くぐもった獣の断末魔の吼え声のような悲鳴が聞こえる。皆が暴れようとするおりんを懸命に抑える。
哲洲は小刀や鋏、鉗子などを巧みに扱い、捩れ癒着した腸を戻し、溢れ出た血流を除去し、腸内の腫れ物を切除し、元通り縫い合わせる。二刻半(五時間)が過ぎ、夜明けの光が差し込んできた。
「手術は無事成功致した。安堵してよいぞ」
「せ、先生。ありがとうございます。ありがとうございます」
おまさと次郎吉は号泣している。部屋にいる人々で泣かない者はいない。表に報せが行くと歓声が上がった。朝の日差しが三味線堀を赤く染めていた・・・
二日の間、おりんは眠り続けた。三日目の朝、徹宵して見守る次郎吉の目の前で、おりんは瞬きをし、目を開けた。
「お、お、おりん。おりんが気づきました。おりんちゃん。どうだ、気分は」
「・・・・・じろ・・きち・・・さん・・・私生きているの?」
「そうとも。おりんちゃんは助かったんだ。おいらが哲洲先生を連れてきた」
「おりん。次郎吉さんはネ、お前を助けるため、死にそうになりながらも先生を負ぶって、駆けてくれたんだよ」
おりんの閉じた目から涙が伝って落ちた。
おりんと次郎吉の純愛三部作の最終編。次回は趣向を少し変えて行きたいと思います。本作も筋立てにかなり悩みましたが、最終的には単純な話になりました。こういう一途な男がいたらいいな・・・小生五年前大腸に悪性腫瘍が出来、危ういところを二度に渡る手術で生還できました。とても美人な先生でした。その時の経験をヒントにしております。