また少し、語ってもいいだろうか。
「イデアって、知ってますか?」
女は唐突にそう言った。
「そりゃあもちろん、知ってはいるが·····」
これでも私は作家である。それなりに語彙力はあるはずだ。それに、イデアという言葉は今の私たちには馴染みが深い。
「そうですか。じゃあ改めて説明する必要もないですね」
「イデアがどうかしたのか?」
尋ねると、女はゆっくりと頷いた。
「彼が帰ってくるまでの暇つぶしに過ぎないですけどね。あなたは、本当の自分が抑圧されてると感じたことはありませんか?」
「本当の自分?まあ、自分の生きる目的を見失いつつある、という意味では本当の自分は無視されつつあるのかもしれない」
「なるほど」
女はそう呟いて、静かにほほ笑んだ。
「研究所統治時代、本当の自分が分からなくなっていた人が大勢いました。研究所の支配で思うように意見が言えなかったり、生活が恵まれなかったり。研究者たちが悠々と暮らす横で民衆が残飯をかき集めたり。多くの人がそれをおかしいと思わなかった。
でも、異議を唱える人もいました。結果として私もその一人になりました。レジスタンスたちは一つに集まり、本当の自分を解放するための闘争を誓った。人々を洗脳し、自分を見失わせる研究所への対抗を望んだ」
「それが、イデア解放?」
私の問いに、女ははにかむようにして頷いた。
「イデアだと、少し大げさな気はしますけどね。イデアは私たちの認識の外にあるはずのものですから。でも、本来の私たち、という意味では使いやすかった。あ、彼が帰ってきました」
女の言葉に合わせ振り返ると、ちょうど男が店の奥から姿を現すところだった。男は終始無表情を貫き歩んできて、女の隣にそっと座った。
「それじゃあ、彼も帰ってきたことですし、続きを話しましょうか。私が何をし、何を語ったのか。どうして英雄と呼ばれるようになったのか。その全て、私が歩んだ生の証を」