プサン 6
·····それから一体何分経ったでしょうか。風が静かに吹く中、私は眼を覚ましました。
澄んだ青い空が、視界いっぱいに広がっていました。白い雲が細長くたなびき、どこかへ流れていきます。私はまだ意識が覚醒しきらないまま、ただただ地面に寝伏していました。
デト君。
唐突に、その単語だけが頭に浮かびました。その瞬間、頭が冴えわたり、私は勢いよく上体を起こしました。
すぐに周りを確認し、彼の姿を探します。彼の艶のある黒髪、吸い込まれそうな赤い目、安心する浅黒い肌。少しだけ甘い独特の匂い、心地よい声、筋肉質の彼の体。私の希望がそこにいることを願いました。
しかし、薄々分かっていたことではありましたが、彼はどこにもいませんでした。あるのはリュックと、コノハナサクヤ、そしてバイクだけ。リュックの肩ベルトに結ばれたコートが、風に吹かれ激しい音を立ててたなびきます。
腹部が露わになっていることに気づいて、お腹を撫でました。そして、傷がないことを発見しました。辺りには血だまりができており、服は真っ赤に染まっているにも関わらず、その原因である穴がなかったのです。
「なんで·····」
私の独白が、小さく響きました。答える人は誰もいません。
その時突然、妙なことが起きました。私の頭に、膨大な量の情報が流れ込んできたのです。
地上のはるか上でへたり込む私。その顔は、涙と血でぐしゃぐしゃで見るも無残です。不健康そうな白い肌とごわごわの茶髪からは、まともな暮らしができていないとすぐに分かります。
私は、その情報がどこから来たものなのか、直感で理解しました。私を見るその何者かは、彼以外の何物でもないはずでした。
「デト君·····?」
思わず声を洩らします。すると、私を見るその視界が上下に揺れました。あたかも、頷くように。
「そっか、そこにいるんだね·····」
私は、今何が起きているのか、はっきりと認識しました。なぜ、いないはずの彼と五感を共有しているのか。
存在意義の呪いによる消滅は、死を意味するものではなかった。その肉体を失うだけ。精神はこの世にとどまり続ける。
今私を見ているのは、彼の精神ということなのでしょう。魂ともいえるでしょうか。しかし、彼の声は私に届くことはなく、私が彼に触れることもできません。それはある意味、ただ死ぬよりも辛いことかもしれませんでした。
私の傷がないのも単純な理屈です。私の能力による回復がぎりぎり間に合ったか、あるいはあの土壇場で能力が向上し彼の治癒能力を最大限使えるようになったか。私は、後者の方が正しいと感じました。私の五感は、普段能力を解放したときの何倍にも研ぎ澄まされていたからです。
結果、私は生き残り、彼は生とも死とも言えない領域に踏み込んでしまった。私にとっても、そして世界にとっても生きるべき人物がいなくなってしまった。
「ごめんね、デト君、ごめんね·····」
私の頬を涙が伝いました。彼の視界が私の顔の前に迫ります。なんとなく、拭おうとしてくれているのは分かりました。しかし、その術がない。
「いいよ、ありがとう」
そう言って、私は自ら涙をぬぐいました。
まだ希望はある。ひょっとしたら、呪いを解く方法が分かれば彼は戻ってくるかもしれない。私がしっかりしないでどうする。彼に代わって、私がヴィリュイスクを目指すんだ。他の誰でもない、彼のために。私は、覚悟を決めました。
「今までありがとう、デト君。今度は、私がデト君を助ける番だ」
そして私は、空を睨みつけました。この日のこの誓いを忘れないために、この空を目に焼き付けるのです。
ふと私は、おじさんから貰ったものを思い出しました。確か、コートの内ポケットに入っているはず。
コートを手繰り寄せてお目当てのものを探します。それは、すぐに見つかりました。長方形のカードを手にし、私は微笑みます。
それは、ナズナの花の押し花でした。白い花が健気に咲いています。私の眼からまた、零れ落ちるものがありました。
ナズナの花言葉は、『あなたは私の全て』