ヒョーゴ 5
絨毯すらないその部屋は、しかし窓から差し込む光で案外暗くはありませんでした。扉の正面にある窓から外を覗くと、下には宿の裏に置かれたバイクがありました。上を見れば、低くなってきた太陽と青霞む空を背景に、細くたなびく雲が流れています。
背後で音がして振り返ると、彼がリュックを床に置くところでした。部屋の中を見回すと、ベッドとタンス以外に目ぼしきものはありません。しかもベッドは一つだけ。また、ベッドをどちらが使わないかで揉めるでしょう。どうやらトイレは部屋を出た先、廊下にあるよう。必要最低限のもの以外を置かないのを徹底しているような部屋です。
「さて、どうしよう。宿が見つかったのはいいけど、夕食まで暇になるね」
「どうしようね。あ、夕食って、食べさせてもらえたりするのかな」
夕食が何か、というのはとても重要な問題です。いい加減乾パンには飽きていたので、夕食が残りの乾パンだと明日のモチベーションに関わります。
「ああ、少し余裕があるから、一緒に食べていいよっておじさんが言ってたよ。今日は白飯があるって言ってたかな」
「本当に?かなり久しぶりじゃない、白飯なんて?」
「うん。オーサカは食料が限られてたから、食べたいとも言えなかったしね。研究所からもらってたとは思うんだけど」
「まあ、それは仕方ないね。国王陛下が悪い訳じゃないし」
とりあえず、明日の私は元気いっぱいなようです。
しかし、このままだと彼の言う通り夕食まで暇であることも確かでした。
「う~ん。何しようかな」
と、そこで、私はふと思いつきました。やはり疲れている時の方がご飯はおいしいもの。そして、私は体を疲れさせる術を知っていました。しかもそれは、私の体力強化にも繋がる究極の手段でもありました。
「ねえねえデト君」
ただ、これは間違いなく彼が反対するだろうなあ、ということは容易に想像できました。そこで私は、何気ない様子を装って彼に話しかけました。
そして、彼にその内容を説明すると。
「いやー、それはやめておいた方がいいんじゃない?」
案の定彼はものすごく嫌そうな顔をしました。
「そりゃあ、できたらコノハの回復力も上がるから俺も安心できるし、人造人間たちと遭遇しても生き残れる確率は高くなるよ?でも、今やらなくても······」
「いつやったって同じだよ。どうせ暇なんだしさ」
「う~ん······」
煮え切らない彼に、私は説得を重ねます。
「ほら、普通の状態だったらもうかなり慣れてきたしさ。それに、できた方がデト君も安心するでしょ。夕食までは時間もたっぷりあるし、大丈夫だよ」
「て、言われてもなあ······」
「ほら、やろ?」
彼は、私にお願いされ続けると了承してしまうという弱点を持っています。それに、彼も存外大丈夫だと思っていたのかもしれません。とうとう彼は、首を縦に振りました。
「じゃあ、腕を出して」
彼に言われ、私は袖をめくり栄養失調っぽい腕を差し出します。彼は爪でさっと私の腕を掻きました。たちまち、紅い線が滲みます。
彼が私の腕に口をつけます。そして感じる、若干のこそばゆさ。彼の赤い瞳が、徐々に深紅に染まっていきます。
私が提案したのは、彼が能力を発動した状態で私も能力を発動するというもの。彼の『shepherd's purse』は彼の回復力も含めた身体能力を何倍にも向上させます。私の『forget-you-not』は私の感覚を彼の感覚に極限まで近づけます。もしこの試みが成功すれば、能力発動時の彼の、時間の巻き戻しに近い再生能力を私も使えるようになります。
続いて、私も能力を発動させます。私にとって能力はもう、指でつま先を触るよりも簡単に発動できるようになっていました。
しかし。
予想を超える激痛が、体中を走りました。骨が軋み、肉が裂け、血が蒸発する。そんなイメージが、私の脳裏をよぎります。立っていられず、私は床にへたり込みました。
その瞬間、妙な感覚に襲われました。まるで、彼と私が一体になるような。心、体、能力までもが融合するような。
しかしそれも一瞬で、すぐに痛みは消え去りました。彼が能力を解除したのだ、と意識の彼方で理解します。そこでようやく私自身も能力を解除しました。
未だ全身が疼きます。頭の中でガンガンと大きな音が鳴り響き、眩暈が収まりません。何かが喉の奥から込み上げてきて、私は思わず口を塞ぎました。掌に、何かぬめりとしたものを感じます。
焦点の合わない目で見ると、手は私の血で濡れていました。
「大丈夫?」
彼の声が遠くに聞こえ、私は頭痛に耐えながら頷こうとしました。しかし、たったそれだけの行為で上体のバランスを崩し、床に倒れかけました。慌てた彼の腕が私を支えてくれます。
「やっぱりやめた方がいい。ここまで酷いとは思ってなかった。こんなの続けたら、コノハの命に関わるよ」
今回ばかりは彼の言う通りだ、と私は少し頷きました。だんだん、全身の疼きが引いていきます。
彼に任せてばかりでなく、私も彼と一緒に戦えるようになりたい、というちょっとした私の願いは、あっさり砕かれることとなりました。




