ヒョーゴ 2
「誰もいそうにないね」
「そうだね。ちょっと早く着いたし、宿見つけたいんだけど。あるかな」
彼の問いにむう、と首をかしげた私。
私たちの前に広がるのは、がらんとした道路に、全く気配の感じられない木造の家々。冷たい風が吹きすさび、音のない街をより一層寂しいものにします。
彼がバイクを押して歩いていく横で、私は周りの様子を窺いながらゆっくりと歩きます。リュックは彼が背負ってくれています。
「最悪の場合、誰かの家をお借りすることになるかあー」
「それは、ちょっと申し訳ないね」
「うん」
時折そんな会話を交わすものの、私たちは今にも静寂に押し潰れそうでした。普段は心地よいはずの沈黙が、恐ろしいと感じてしまうほどに不気味な静けさだったのです。
あまり有り難くないそんな状況の下で、私たちはしばらく歩き続けました。そして、左側にたなびく白い煙に気がついたのです。ヒョーゴの門をくぐって三十分ほどした時のことでした。
「なんか煙出てるよ。危険なやつかな」
「う~ん。あれは多分湯気だね。ちょっと行ってみよう、温泉かもしれない」
「ほんとに!?やった、早く入りたい!!!」
「本当に温泉かはわからないよ」
彼に苦笑混じりに諫められますが、私の耳にはほとんど届いていません。バイクを押す彼のため歩みを早めることはできませんが、逸る気持ちから、ちょっと走っては跳ねまわって彼を待ったり、みたいな意味不明な行動をしてしまいました。
そんなこんなの後、十分ほど歩いたすえに目的の場所に着きました。思ったより遠かったなと驚きつつ、私は目の前の建物をまじまじと見つめました。
それは、ボロボロの木造建築でした。横に大きい割に、扉は小さい。屋根は平らで、その下には破れた蜘蛛の巣がところどころ張られています。柱にしても壁にしても、黒ずんだ木材は湿っている様子で、かなり腐敗が進んでいるようでした。
「やっぱり温泉だったね。ちょっと入ってみよう」
そう言って、ずんずん進んでいく彼。もう少し立派なものを想像していたため呆気に取られていた私は、彼の言葉で我に返り、慌てて彼の背中を追いかけました。
彼が触れると、扉の縁がもろりと崩れてしまいました。全く意に介さず、バイクごと中に入っていく彼。
続いて建物の中に入ると、案の定がらんとした中は薄暗く、じめじめとしていました。予想していたより広くはなく、奥には会計に使われていたと思われる台がありました。その両隣には、さらに奥に続くと思われる通路があります。通路は途中で横に折れているので、どこまで奥に行くのかは分かりませんでした。
「あれ、多分男湯と女湯に分かれてたってことだよね」
彼に尋ねられますが、突然の問いに私は咄嗟に返事をすることができず、さあ、と曖昧に返すしました。
「どうする?」
「どうするって?」
初めての場所に来るといつも感じる若干の居心地の悪さで気がそぞろになっていた私は、彼の質問の意図が把握できず、訊き返しました。
戸惑う私に、彼は優しく詳しく教えてくれました。
「この感じだと多分勝手に入っても怒られないだろうし。ただここで別れるとコノハに何かあったときに困るでしょ。俺としても、コノハと荷物と両方目の届くところにいてほしいし。だから、一緒に入ったりしないかなあって」
ああ、なるほど。納得した私は、深く考えることもなく頷きました。確かに、一緒にいた方が彼も都合がいいでしょう。
外に置いて万が一盗られたりしないようにでしょうか、彼はバイクを押して通路に入っていきました。いいのかな、と疑問に思いつつ、私も後に続きます。
通路を抜けた先にあったのは、竹を編んで作られた籠がたくさん置かれた部屋でした。床も木ではなく竹でできているようで、空気は少し湿っていましたが床は乾いていました。彼からの説明はありませんでしたが、どうやら脱衣所であるようでした。
「ここなら誰か来ても聞こえるかな。よし」
彼はその部屋の隅にバイクを寄せ、スタンドを立てました。リュックを置き服を脱ぎ始めた彼に倣い、私もマントを脱ぎ捨てます。
服を籠に入れ、私たちは部屋の最奥にあったすりガラスの戸を開けました。私の心拍数が上がっていくのが分かります。先に行く彼と戸の隙間をすり抜けるようにして、私は浴場に入りました。そして思わず声を上げたのです。
「うわあ!!!」
戸をくぐり視界が開けると、浴場の全体が露わになりました。岩がそのまま使われた床の先に、橙色に濁り湯気が立ち昇る泉があったのです。
「こいつはすごいや」
興奮して変な声が出てしまいました。もはや何かを考えることもせず、張られた湯に向かって走ります。
危ないよ、という彼の声が微かに聞こえましたが、もう無我夢中で飛びこみました。バシャッ!と大きな音を立て、水が飛び散ります。興奮は最高に達しました。
が、しかしそこでそれまですっかり失念していたあることに気づきました。
「アッツ!!!!!」
湯は、めちゃめちゃ熱かったのです。当然と言えば当然ですが。
「ほら、危ないって言ったのにー」
もはや苦笑交じりですらなく、純粋に呆れた、という声がかけられ、私は恥ずかしくてお湯の中にぶくぶくと沈んでいきました。熱さに堪えながら。




