ワカヤマ 13
へたり込む私を見た彼は、荷物をその場に置いてすぐに走り寄ってきてくれました。
「嫌な予感がして急いで帰ってきたんだ。コノハが死んでなくてよかった。でも、これは······」
状況を理解しようと辺りを見回す彼。私は経緯を説明しようとしますが、嗚咽でうまく話せません。
そんな私の様子と、血まみれの私の体、床に転がる男を順番に見て、彼はなんとなく分かったようでした。
「俺がいない間にこいつが襲ってきたんだね。それで抵抗して、こいつを殺した。合ってる?」
尋ねる彼の問いにこくりと頷きます。彼はただ、そう、と呟いて視線を落としました。
「でも、どうやって······」
どこか不安そうな彼。私はどうにか、
「ごめん、自分でも分からない······」
とだけ伝えることができました。彼の登場に安堵して気が緩んでしまい、私は深く考えることができなくなっていたのです。
と、そこで彼が何かを見つけたようで、じっと床を見つめました。その眼差しがあまりに真剣だったので、私も彼の顔から視線を外してそちらを見ました。そして、はっと息を呑んだのです。
そこには何かで削られたような跡がありました。その跡が、文字のようになっていたのです。その文字が示すもの、それは。
「フォアゲット・ユー・ノット······」
forget-you-not、そう読めたのです。
「これって、コノハが書いたの?」
そう問われ、首を横に振ろうとしますが、書いたとすれば私以外にはいません。やっぱり、曖昧に分からないと答えるしかありませんでした。
「これじゃあまるで、俺が呪いにかかった時みたいな······」
彼の言葉に賛同し、私はその時、怖いね、とそう言おうとしたはずでした。口は確かにそう動いたはずなのです。
しかし、発せられたのは全く異なる言葉でした。
「そう、これは呪い。存在意義の呪い。私は呪いにかかったの」
彼が私の顔をバッ、と見ました。その目は驚愕に見開かれていました。しかしすぐにその表情は打ち消され、納得、諦め、悲しみ、そんな感情が混ざり合った複雑な思いが表れます。
思ってもいない言葉を発した自分に驚く私の頭を、彼の手が優しく触れました。
「分かるよ。俺も経験あるから。ゆっくりでいいから、詳しく話してくれる?」
彼に促されるまま、私は静かに語り始めました。
「存在意義は、デト君を忘れないこと。デト君と感覚を共有する能力。なんて言えばいいのかな、デト君が見たり聞いたりしてることが分かるの。それから、私の限界ぎりぎりまでデト君の身体能力に近づけるみたい。体に負担がかかるから、あまり長い時間は使えなくて、今は発動してないよ」
まるで初めからその知識があったかのように、繰り返し繰り返し言ってきたことのようにすらすらと私の口から音が漏れていきました。
ゆっくりと聴いていてくれた彼は、穏やかに微笑んで頷くと、すぐに深刻な表情になりました。
「コノハも呪いにかかっちゃったか。じゃあ、絶対に解く方法を見つけないとね。コノハが消滅してしまうのは嫌だから」
その時、私は床に転がっている男が言った言葉を思い出しました。私はもう男の死体を見たくなくて、顔を背けたまま指を差して言いました。
「その男が言ってたんだけどね。呪いは、研究所じゃないと解けないって。ねえ、もう呪いは解けないのかな」
私は、彼が驚くことを予想していたのですが、それほど動揺した様子はありませんでした。
「研究所なら呪いを解く方法を知ってるんじゃないかな、とは思ってたよ。研究所が呪いを作る意味が分からないから、作ったのは研究所じゃないと思うけどね。大丈夫、俺たちで呪いを解く方法を見つけていけばいい話だよ。俺たちならできるよ」
彼が私を励まそうとしてそう言っているのはよく分かりました。そして私は、彼の言葉にとても勇気づけられたのです。
やっぱり私には彼が必要なんだな、と自然と思われました。私の心を温めてくれるのは彼以外にいなかったのです。彼は、確かに私の特別なのでした。
「さすがに今日のことがばれたら、研究所も黙ってないだろうしなあ。明日、ワカヤマを出ようか」
彼の言葉に生返事を返しながら、私はそのことだけを考えていました。この気持ちを、彼に伝えたい。伝えなければならない。私は突然、そんな思いに駆られたのです。
「確か入国管理官が、三日歩けばオーサカだって言ってたし、オーサカを目指してみようか」
「ねえ、デト君」
私の突然の呼びかけに、彼は首を傾げて何?と訊き返してくれました。彼の柔和な目をじっと見つめ、私は訴えました。ちゃんと伝わるように、はっきりと、ゆっくりと。初めて伝える言葉。本当はずっと前から伝えたかった言葉。
「愛してるよ、デト君。デト君の記憶が私の思い出の全てになってもいい。デト君を愛してる」
言い切って、彼の顔を窺うと、彼は呆気にとられた様子でした。そして、その端正な顔が少しずつ崩れていき、涙が瞳にたまり始めました。本当に嬉しそうな笑顔。しかしなぜか、その頬には涙が流れました。思えば、彼の泣き顔を見たのは初めてだったかもしれません。
「ありがとう、本当に、ありがとう。ありがとう······。でも、俺が先に言おうと思ってたんだけどなあ」
声に笑みを滲ませ、彼が言いました。嗚咽交じりの彼の言葉。でも、彼の気持ちを伝えてくれるには十分でした。
「泣かないでよデト君。私も泣きそうになるじゃんか」
そう言って、ぽこリと彼の腕をそっと殴りました。笑っているはずの私の頬も、知らない間に濡れていました。そんな私を見て、彼がまた笑いました。
たとえこれから辛い日々が続くのだとしても、彼がいてくれればそれでいい。心から、そう思いました。
―――その晩は、いつもより激しく求めあいました。似通った私たちを一つに、同じ存在へと。もっと強く、もっと激しく。お互いの境界が分からなくなり、心まで同化するまで。何度も何度も彼の名前を呼びました。何度も何度も私の名前が呼ばれました。繰り返し、繰り返し。
そしてようやくそれが終わった時、私たちは同じベッドで疲れ果てていました。髪が乱れ、彼のものか私のものか分からない汗でぐっしょりの私たち。しかし、私は妙な充足感に満たされていたのです。
そして再度、私たちは愛をささやき合いました。
「愛してる、デト君。いつまでも、一緒にいよう」
「ああ。俺たち二人で、絶対に幸せになろう」




