ワカヤマ 12
その瞬間、私の脳に大量の情報が入り込んできました。それは今まで見ていた思い出などではなく、今まで見たことのない景色でした。しかも見えるだけではなく、木々の香り、喧噪の音、手に荷物を持っているという触感すら感じました。そう、それはまるで誰かの五感が、たった今感じていることが私の体に入り込んでくるような。
そして私は、その誰かが「彼」であることが、何故かはっきりと分かったのです。市場へ鶏肉を買いに行った彼。彼はちょうど帰路についたところのようでした。
それを感じていたのはほんの一秒にも満たない間だったかもしれません。不意に息苦しさがなくなりむせ返して、彼と五感を共有しているという感覚を失ってしまったのです。
ぼんやりと薄らいでいた視界が徐々に戻ってきて、はっとした私は顔を男の手に向けて確認しました。そして驚愕しました。
無意識に男の腕を掴んでいた私の右手が、男の腕を潰していたのです。白い骨が見え、肉の繊維が垂れ下がり、血が私の体にしたたり落ちます。私は、自分がこれをしたとはとても信じられず、ただただじっと見つめていました。
驚いたのは男も同じようで、呆然と自分の腕を見ていました。しかし痛みがやってきたのか、ぎいいぃぃぃ、と悲鳴を上げ体を丸めました。男が咄嗟に放ってしまったのであろう拳。私は思わず右手を開いて男の顔に平手打ちを喰らわせました。驚くべきことに私の平手打ちは男の拳よりも速く男を攻撃し、男は地面を転がっていきました。
そこでようやく、私は立ち上がることができました。首を押さえ、よろよろと震える脚にどうにか力を入れます。破れたシャツが辛うじて体に纏わりついていました。
しかしそこで、私は普段とあまりに違う感覚に吐き気を催し、膝をついてしまいました。
床木の間に挟まる埃の一つ一つが見え、外でささめく下草の音の重なりが聞こえ、じっとりとした汗の匂いを嗅ぎ分け、上がってきた胃酸の味を感じ、半裸ゆえの肌寒さをこれ以上ないほど敏感に思い。
そして何より、どくどくと激しく脈を刻む体。恐怖で脚はすくんでいますが、力がみなぎっているのをはっきりと感じました。みなぎり過ぎている、ということも理解しました。体に負荷がかかりすぎ、頭がガンガンと痛みます。
それでもどうにか再び立ち上がり、男の方を見ました。男は潰れた腕を押さえ、ゆっくりと立ち上がるところでした。
「いいい痛いねええええええ酷いなああああああああ」
ぎりぎりと歯を食いしばりながら、それでも笑う男。彼のことを思い出したからでしょうか、男に感じていた恐怖は少しずつ薄れていきました。脂汗を浮かべる男をじっと見つめて私は言います。
「私は死なない。絶対に生き延びてみせる。生きて、いつか彼の呪いを解いて二人で幸せに暮らすんだ!」
すると男は、声を上げて不気味に笑いました。狂気じみた目が、楽しそうに歪められます。
「無理無理いぃぃぃお前ここで死ぬからああぁ、いひっ」
死なないっ、と言い返そうとした私に、男が続けて言います。
「それにぃ、呪いは俺たちじゃないと解けないぃ、いひっ」
その言葉に、私の思考が瞬時止まりました。そしてなぜか、ますます動悸が激しくなります。
男が言う俺たちとは、つまり研究所のこと。なら男は、呪いは研究所でないと解けないと言いたいのでしょうか。ひょっとしたら、呪いは研究所が作った可能性も······。
いえ、それよりも、研究所でないと解けないなら、私たちが目指すのは研究所、ということになります。しかしそれは自殺行為。自分から死にに行くようなもの。だとすれば、彼の呪いが解けることはない······。
そんな私の動揺を見透かしたように、男がゆっくりと近づいてきました。私は体がずん、と重くなったような気がして、指一本動かすのも億劫でした。
「諦めたねえいいねえ、いひっ」
男が私の前に立ちました。男の手が私の肩へ伸びます。私はほとんど無意識でその手を払いました。
一瞬動きが固まる男。
その時私が思ったこと。それは、彼に会いたい、ということでした。生きていればなんとかなる、彼と一緒に乗り越えられる。
そのためには、この男が邪魔だ。
私の脳裏に去来したそんな思い。それは、行動となって現実に現れました。
「死んで、卑しい人。私たちのために」
自分が何を言っているのか分からないままに、私は腕を挙げました。
私と彼の幸せを邪魔する者は排除しなければならない。それだけが私の心を、脳を埋め尽くしていたのです。
男の瞳に微かに怯えの色が見えました。私の腕が、振り下ろされます。
私の拳は男の頭を直撃し、バキッ、と嫌な音がしました。男の目が飛び出て、舌が突き出され、その体がゆっくりと傾いていきます。
どうっ、と床に倒れ伏した男。その首は、妙な方向にねじ曲がっていました。
男の死体を見つめること数秒。何も考えられずにいた私。しかし、私の体にぬめぬめと絡みつく男の血の生温かさを感じ始めた時、自分が何をしたかを理解してしまったのです。
私の血だらけの右手を見つめると、徐々に息が上がり、過呼吸を起こし、私は床に座り込みました。人一人の命を奪ってしまった。その事実が私を恐怖し震えあがらせてしまったのです。
そしてどうしようもなく悲鳴を上げそうになったその時、扉がバタンと勢いよく開きました。
「コノハ、大丈夫!?」
入口に立っていたのは、今度こそ彼でした。
「デト君······」
情けない声が出て、私の頬を涙が伝いました。彼がいる、それだけで私の心は安らいだのです。




