ワカヤマ 11
「何の用ですか」
地面にへたり込んだままゆっくり後ずさる私。声が震えるのを誤魔化そうと低い声で尋ねましたが、うまくいったかは分かりません。
鼓動が速くなるのを感じる私の前で、男が黄ばんだ歯を見せます。
「いひっ、お前あれだよな、俺たちから逃げてるあれだよな、柊なんとか、あのーあのー、そうだ、コノハちゃんだよな、いひっ」
「私を、知ってるの······」
ひょっとしたら、このまま話を続ければ逃げる機会があるかもしれない。私はどうにか声を絞り出しました。
「知ってるよお、俺たちから逃げようとしたあ、馬鹿な奴らの一人娘え、知ってるよお。いひっ」
その言葉に殺意を覚えた私ですが、それも一瞬のこと。怒りで冷静さを失えば、いよいよ逃げられなくなります。
「ここ来てえ、お前見つけたけどお、あいつ怖いからあ、いなくなるの待ってたあ。外で待ってたあ。そしたらあいつどっか行った、いひっ」
「どうして私を気にするの······」
そう問うと、男は半身を畳むように首をかしげました。
「なんでだったかなあ、なんだったかなあ、いひっ、なんだったかなあ」
そこで一瞬男の視線が私から外れました。今だ、と覚悟を決め、私はすかさず後ろを向いて走り出そうとしました。そしてそれは、立ち上がり片足を上げるところまではできたのです。しかし。
私は足を剛力で掴まれ、またしても床に転んだのです。
どうにか受け身を取り、慌てて足を見ると、男の右手ががっちりと握っていて離せそうにありません。自由な方の脚で床を蹴ったり手で床を掻いたりしますが、その度に男の方へ引き戻されます。
終いには足首を捻られ、私の体は強引に仰向けにさせられました。
「逃げちゃ駄目じゃあないかあ、俺が研究所に戻れないじゃないかあ、なあ」
歯をカチカチと鳴らしながら、男が楽しそうに言います。足を掴んでいない方の腕が私の首へ伸びてきました。男の体を蹴ったりして抵抗しますが、男は馬乗りになり私の脚を封じます。咄嗟に自分の腕で首を守ったものの、男の手に私の頬が払われました。
頬に感じる熱く鈍い痛み。一瞬何も考えられなくなったところで、男の手が私の首をしっかりと掴みました。
「かっ······く、はっ······」
キリキリと締め上げられ、徐々に息ができなくなっていきました。自然と口が開き、舌が出ますが、苦しいことに変わりはありません。
「いひっ、頑張るねえ。でもどうせ死ぬんだから、ちょっと遊んでもいいよね、ねえ。いひっ」
そう言った男の、醜く歪んだ顔。男が具体的なことを言ったわけではありませんが、私は男が何をしようとしているのかが分かりました。分かってしまいました。
この男は、私を辱めようとしている。
男が欲しているのは、時々彼が寂しさから求めてくるような、私が不安をかき消そうとして求めるようなお互いを想ってのことではない。もっと汚くて、醜くて、卑しくて、目を背けたくなるほど酷いことだ。それが、分かってしまったのです。
そして、それだけは何としても避けなければならなかったのです。あれは、彼とだからこそできたこと。こんな男とだけは絶対に嫌だと、そう思ったのです。
私は必死になって抵抗しました。細い腕で男の体を殴り、床を蹴り、できうる限り暴れました。しかし男は全く動じず、むしろ楽しむように私の首を床に押し付けました。息苦しさだけでなく痛みまでもが私を襲い、私の上体が浮き上がります。
男の、首を握っていない手が私のTシャツの襟元を掴みました。その手を握る私ですが、男の動きを止めることは叶いません。
男の手が一気に私の足の方へ払われました。シャツが破け、私の上裸が露わになります。
それでも諦めず、抵抗しようとする私でしたが、そこで限界が来ました。意識が朦朧としだし、視界が定まらなくなってきたのです。遠くで、男がにやりと笑いました。
走馬灯のように現れる思い出の数々。そのほとんどが、彼との逃亡劇でした。トーキョーの家で飲んだコーヒーの香り。カナガワで一緒に感じた潮風。船室で不安を慰め合ったこと。彼が守ると言ってくれたこと。いつまでも一緒にいると言ったこと。幸せな時間。穏やかなひと時。ゆったりとした空気。
そして思い出した、彼との約束。私を守ると言ってくれた彼に、私は確かに宣言しました。
デト君を忘れない。
親の顔すら知らない彼。ずっと特別な人を探してきた彼。もし私が死んだら、誰かがまた彼の特別になって彼を覚えているのか。そうは思えませんでした。
そして私は、今更重大な事実に気づいたのです。彼の呪いを引き起こした存在意義、それは『私を守ること』。もし今私が死んだら、彼は私を守れなかったことになります。おまけに守る対象の私がいなくなって、存在意義がなくなる。それは、彼が消滅することを意味していました。
それだけは、絶対に避けなければなりませんでした。そもそも、この逃亡劇に彼を巻き込んだのは私です。私のせいで彼に死んでしまうなんて、絶対に嫌でした。彼にはずっと、優しい笑顔を浮かべていてほしかったのです。
その時、私はしっかりと自分の存在意義を自覚しました。私の命に代えてでも生きていてほしい彼。しかし私が死ねば彼が消滅してしまう。私は生きなければならない。そのために、力が欲しい。ずっと孤独を感じていた彼を忘れないために。特別な人として覚えておくために。
私の存在意義は、『彼を忘れないこと』。




